REAL.2 考察
2017.11/23 更新分 1/1
《イマギカ》における二度目の冒険を終えた後も、恒平の身体が変調をきたすことはなかった。
目覚めてすぐは船酔いのような感覚に見舞われてしまうが、それも十数秒のことである。それが過ぎれば、きちんと眠った分の疲労は回復しており、気分のほうも快調なぐらいであった。
認めてしまうのは気恥ずかしかったが、恒平は《イマギカ》で過ごす時間が楽しくてたまらなかったのである。
もちろん、現実世界に帰還すると、若干以上の不安を感じることは否めない。どんなに楽しかろうと、これがどういう経緯のもとに発現した現象であるのかが不明であるため、はなはだ落ち着かないのだ。
しかし、《イマギカ》の正体を探ることは難しかった。
千明などは得意のインターネットで調査してくれたようだが、そちらからも有益な情報を得ることはできなかった。翻訳ソフトを使って海外のサイトまであさってみても、結果は変わらなかったという話であった。
「まあ、そんな簡単に《イマギカ》を作った連中を突き止められるとは思っていなかったけどさ。それにしても、プレイヤーの一人も発見することができないとはね」
ある日の午後、千明は華奢な肩をすくめながら、そのように述べていた。
「本当に15000名もプレイヤーがいるなら、匿名掲示板なんかで《イマギカ》のことを語る人間が一人や二人はいるだろうと思ったんだけど……まあ、よく考えたら、こんな話をネットで語っても自分の得になることはないからね。みんな大人しく口をつぐんでいるということだ」
「そうなんだね。他のプレイヤーを探したりとか、したくならないのかなあ?」
「探すことよりも、探されることをデメリットと感じるのかもしれない。実際問題、ボクだって身バレは避けたいところだしね。他のプレイヤーを見つけたところで《イマギカ》の正体がわかるわけではないし、気心も知れない人間に心情を打ち明けたって、何の得にもならないだろう?」
それは確かに、千明の言う通りなのかもしれなかった。
恒平とて、千明の他の人間には事情を打ち明ける気持ちにはなれなかったのだ。こんな話を容易く信じてもらえるはずはなかったし、また、信じてもらえたところでそう簡単に打開策を見つけられるとも思えなかった。
「何せ、夢の中の出来事だからね。脳波でも測定してもらえば何らかの異変を観測できるかもしれないけれど、やっぱりそれで《イマギカ》をどうこうできるとは思えない。下手に頭をいじくって、余計に厄介な事態を招いてしまったら、それこそ本末転倒だよ」
女の子のように華奢な肩をすくめながら、千明はそのように述べていた。
「こんな状況がひと月やふた月も続けば、さすがに不安がって《イマギカ》の正体を探ろうとするプレイヤーが現れるかもしれないけどね。今のところは、みんな楽しく《イマギカ》のプレイを満喫しているんだろう。それはボクたちも同様なんだから、何も不思議がることではないさ」
そんなわけで、《イマギカ》の正体を探る作業は、ごく早い段階で暗礁に乗り上げることになった。
これがもしも不快な体験であったのなら、二人ももう少しは積極的に手を打とうという気持ちになれたのかもしれないが、大原則として、《イマギカ》の世界は楽しいのである。下手に騒ぎたてて、周囲から白い目で見られるぐらいならば、現状を維持したほうがまだしも賢明であるように思えてしまったのだった。
そうして恒平は、奇妙な二重生活を送ることになった。
日中はこれまで通り学校に通い、根室恒平としてつつがなく生きて、夜になったらバク人間の戦士ネムリとしてバトルフィールドを駆け巡る。そんな、奇妙ながらも楽しい日々である。
最初にハクタクが述べていた通り、恒平は現実世界では味わいようのない昂揚と悦楽を覚えてしまっているのだった。
《イマギカ》の中でなら、恒平は現実離れした身体能力でモンスターと戦うことができる。また、どれほど手ごわいモンスターを相手取っても、自分の生命が脅かされることもない。現実世界で感じる煩雑さや窮屈さとも無縁な、それは心の躍る日々であった。
なおかつ、《イマギカ》の中ではわずらわしい人間関係に悩まされることもない。三日、四日、とログインを重ねても、ネムリのフレンズ帳のメンバーが増えることはなかった。
そして、ふたりきりのフレンズであるイーブとコンスタンツェも、ネムリを悩ませることはなかった。ちょっとした情報交換などは通話システムで済ませることができるし、また、彼女たちがそれ以上の交流を求めてくることもなかった。広大なるバトルフィールドのどこに隠しアイテムが存在するだとか、モンスターの攻略法だとか、彼女たちからもたらされるのは、そういった生産的な話題ばかりであった。
彼女たちは彼女たちで、《イマギカ》における活動を心から楽しんでいたのだろう。彼女たちが現実世界の話題を出すことはなかったし、恒平のほうもまた然りであった。《イマギカ》において現実世界の話を取り沙汰するなどというのは、野暮であり、興ざめな行いであったのだ。そんなのは、ネットゲームや匿名掲示板などで相手の素性を問い質すにも等しい行いであるように思えてならなかった。
「実際、バーチャルリアリティのレベルが高いだけで、内容はネトゲをプレイしてるのと同じようなものだからね」
千明も、そのように語っていた。
「現実世界と切り離された仮想空間で、自分の望む通りのキャラクターを演じている。ネトゲというか、ネットの世界そのものと言い換えるべきかな。その仮想空間では、自分の理想像を体現できるんだ。好きな姿で、好きな年齢で、好きな役割を演じられる。それが心地好くないわけはないよね」
「うん、まあ、確かにその通りかもしれないね。ネット弁慶が、本物の弁慶として振る舞えるわけか」
「ああ、そうさ。それを嘘と見抜ける人間も、その場にはいない。……ただし、どれだけ外見を取りつくろうとも、その人間の本質を隠しきれるとは思えないけどね。むしろ、外見を着飾れば着飾るほど、その内の本性が透けて見えてくるものさ」
「ああ、確かに。どんな姿をしていても、千明は千明だしね。僕もそれは、痛感させられたよ」
恒平がそのように応じると、千明はじっとりとした目つきでにらみつけてきた。
「……それはつまり、ボクみたいに陰気で性根のねじくれまがった社会不適応者があんな甲冑姿で魔法戦士などを気取っているのは滑稽だという意味だね」
「そうじゃないよ。どんな状況でも冷静さを失わないで、攻略の糸口を見つけられるところなんかは、いかにも千明らしいなあって思ってたんだ。外見はまったく別人なのに、あのロギっていうキャラクターはいかにも千明っぽいんだよね」
「ふん! あんなアバターをチョイスするのは外見にコンプレックスを抱いている証拠だとか考えているんだろう! キミみたいな人間の考えていることは丸分かりなんだからな!」
「そんなこと、思ってないってば。それを言ったら、バク人間の僕はどうなるのさ」
「……キミはあの露出狂を演じている変態野郎の言っていた通り、よっぽどメルヘンな思考回路をしているんだろう。《イマギカ》で動物人間をアバターに選ぶ人間は、現実逃避の度合いが高いか、子供じみた感性が強いかのどちらかだと思うよ」
「ああ……それは両方、当たってるかもしれないね」
恒平がコンプレックスを抱いているとしたら、それはあまりにも自分が平凡である、という事柄についてであるはずだった。
恒平は、現実世界が嫌いなわけではない。そこそこ順調な人生を送っており、ほどほどに適応できているのだろうと思っている。ただ、心の一番奥深いところで、それを退屈だと感じてしまっているように思えるのだ。
恒平は、千明のようにレールをはみだすことができない。
かといって、結花のように心からこの世界を楽しむこともできない。
どっちつかずで、凡庸で、ありきたりなのだ。だから恒平は、千明や結花のような人間に、それぞれまったく別の意味で、憧れにも似た気持ちを覚えてしまうのかもしれなかった。
「何にせよ、あの《イマギカ》っていう世界は楽しいよね。どうしてこんなに楽しく感じるのか、自分ではさっぱりわからないんだけどさ」
「ふん。あんなに安楽な世界だったら、楽しく過ごせるのが当たり前じゃないか。何を不思議がることがあるのさ」
「安楽な世界? ひたすら戦わなきゃいけない世界なのに?」
「戦うと言ったって、痛みや疲労を感じるリスクもないじゃないか。HPが尽きてゴールドが半分になるなんて、ご愛嬌さ。おまけに、プレイヤー同士では干渉し合えないから、足の引っ張り合いになることもない。戦えば戦っただけレベルが上がって、レアな武器やアイテムを入手することができる。これはひたすら目先の爽快感と達成感をくすぐるように設計されたゲームなんだよ」
ベッドの上で両膝を抱え込みながら、千明はそのように述べたてた。
「それに、このゲームにはシナリオってものが存在しないし、誰かにバトルを強要されているわけでもない。みんな、自分の意思で好きなようにプレイすることが許されている。なおかつ、努力をすれば経験値とゴールドという報酬が約束されているから、心置きなく頑張ることができる。苦労をしたのに芽が出ない、とか、生まれや才能でハンデが生じる、とか、現実世界で味わわされる挫折や苦悩もきっちり排除されているんだ。こんな安楽な世界は、なかなか他にないと思うよ」
それはまるで、恒平の中に眠る言葉にできない思いを解き明かされているような心地であった。
「やっぱり千明はすごいなあ。僕はそんな風に、自分の感じたことを正確に説明することなんてできそうにないよ」
「ふん。キミなんかに持ち上げられたって、背中がかゆくなるだけだ」
「でも、そんな風に解説されちゃうと、あの世界に没頭していていいのかなあっていう気持ちにもさせられちゃうね。なんかこう、それこそ自堕落になっちゃいそうじゃない?」
「安楽な世界に没頭するのは、確かに危険なことだろうさ。でも、あそこまで人間の三大欲求が排除された世界だったら、現実世界に悪い影響は出ないように思えるね」
「人間の三大欲求? えーと、それって……衣食住だっけ?」
「衣服と欲求に何の関係があるんだよ。人間の三大欲求は、食欲、性欲、睡眠欲さ。まあ、衣食住の心配をしなくていい、というのも、あの世界の安楽さを示す大事な部分だけれどね」
「ああ、なるほど」
確かに《イマギカ》の世界において空腹感を覚えることはないし、イーブのように露出の多い女性を目にしても心をかき乱されることはなかった。
そして――あそこでは、眠くなることもありえないのだ。
現実世界で眠りに落ちれば《イマギカ》に強制ログインさせられてしまうので、恒平たちはもう数日ばかりも「眠り」というものを味わっていなかったのだった。
(だけど別に、それで不自由が生じるわけでもないからな。唯一、心苦しいことがあるとしたら……親しい人たちに秘密を抱え込むことになったぐらいか)
両親にも、姉にも、大事な幼馴染にも、学校のクラスメートにも、とうていこのような話は打ち明けられそうにない。それだけが、恒平にとっては罪悪感を喚起させられる事柄であった。
「それに、どれだけあの世界に没頭したって、現実世界の生活に支障はないだろう? 普通のゲームと違って、現実世界の時間や労力を食われることもないんだからさ。あれで現実世界のストレスを少しでも発散できるなら、むしろメリットしか存在しないように思えてしまうね」
そう言って、千明はころんとベッドの上に転がった。
そうしてベッドに転がったまま、また恒平の顔を陰気ににらみつけてくる。
「……引きこもりなんて最初からストレスとは無縁だろ、とでも言いたいのかな?」
「そんなことは考えてなかったよ。とりあえず、今日の夜もよろしくね」
「ああ。何としてでも、今日中にステージ5をクリアしておきたいところだね」
「うん」と何気なく応じながら、恒平はまたひとつの新しいメリットに気づかされていた。
それは、この偏屈な友人とこれまで以上に親密な関係を構築することができたことであった。
きっと千明と一緒にプレイしていなければ、恒平がここまで《イマギカ》にのめり込むことはなかっただろう。大切な友人と、同じゲームを同じぐらいの熱意で楽しめているというこの状況が、恒平をいっそう昂揚させているのだ。
そんな風に考えていると、制服のポケットに入れておいた携帯端末が着信メロディを奏でた。
確認してみると、それは結花からのメッセージであった。
『どこで寄り道してるのー? せっかく新しいマンガを持ってきてあげたのに!』
恒平は、今日も学校帰りに辺見邸へと寄らせてもらったのだ。
気づけば時刻は午後の六時近くになっており、窓の外もずいぶん暗くなっていた。
「……また例の幼馴染かい?」
ベッドに転がったままである千明が、ぶっきらぼうな声で問うてくる。
それに「うん」と答えながら、恒平は手早く返信のメッセージを打ち込んだ。
「ふん。大切な幼馴染がこんな社会不適応者の家に通いつめていたら、さぞかしやきもきさせられることだろうね」
「結花はそんな風に考えるやつじゃないよ。自分も千明の家に連れてけーって大騒ぎするぐらいなんだから」
「…………」
「ああ、うん、大丈夫。勝手に結花を連れてきたりはしないよ。たぶん結花って、千明の苦手なタイプだろうから」
というか、千明がどういうタイプを得意にするかは、恒平にとっても謎である。
横になったまま体育座りのような姿勢を取った千明は、また「ふん」と鼻を鳴らした。
「それじゃあ、僕はそろそろ帰るよ。そのままログインしちゃわないように気をつけてね」
「大きなお世話だ」と言い捨てる千明にもう一度笑いかけてから、恒平は部屋を出た。
そんな具合に、恒平たちの日々は何事もなく過ぎていったのだった。
そうして翌日も、またその翌日も、恒平と千明は着実にプレイ時間を重ねていき――ついに十日目、《イマギカ》において最大のイベントとされている『イマギカ武闘会』を迎えることになったのである。