第三十四話 不浄の花、旧知を捨て去り追うものとは
天空術を発動したソフィネは、ベルゼブブが放つ虫の大群に対してただ手を翳すだけだった。
まるで何も起きてない。私に見えないだけで既に何かが始まっているの?
でも、本当に何も無いならばこのままじゃあの虫に食い殺されてしまう。
そう思った瞬間。
「大悪魔の中でもかなり実力を持っていると聞いたが、この程度なのか?」
ソフィネに迫り来る虫は、彼女に近づくと同時に全て凍りついてしまう。
凍結した虫は次々と地面に落下していき、着地と同時に粉々に砕けて二度と動き出すことは無かった。
恐らく先程の術は、自分の周囲を冷気で覆うのだろう。
だから何をしているか見えなかった。
それにしても、ソフィネが天空術により生成した冷気は、大悪魔が使役した虫の大群を瞬時に凍らせてしまう程、冷たいのかもしれない。
それはまるで、何もかもを拒んで一切近寄らせないようにも思えてしまう程だった。
「……フフ、それともわらわが強くなりすぎたのかもしれぬな」
自身の力を確認したソフィネは、大悪魔の攻撃を退けると不敵な笑みを漏らす。
その事が気に触れたのか、ベルゼブブは無数の触手でソフィネを縛り上げようとするが、その触手すらもソフィネの体に絡みつく寸前で凍りつき、ばらばらになってしまった。
「気をつけて! 相手は大悪魔……、生半可な攻撃は通じない!」
彼女の力を見て、守りはほぼ完璧に近いことは解った。
私じゃ太刀打ち出来なかった大悪魔相手に、天使になったソフィネは互角以上に戦えているのも解る。
でも……、奴の守りも固い。
「その通りじゃ、生半可な攻撃は無意味」
ソフィネはこちらを振り向き、一瞬鼻で笑うと持っていた鎌を強く握り締めて、ベルゼブブへと飛び掛る。
ベルゼブブは再び虫の大群や無数の触手を繰り出してくるが、先程と同様にソフィネに近づくと同時に全て凍って粉々に砕けてしまう。
「あの攻撃は!」
奴の複眼がぎらりと光ってソフィネの姿を写すと、再び尾尻が光りだす。
また精霊の石から力を吸い上げてそれを解き放ってくる!
あれは流石に冷気の結界で防げないはず。
「ソフィネ、逃げて!」
お願い逃げて!
あなたまでここで倒れては……!
「……母なる力は、森羅万象をも歪ませ捻れ拒まん。天滅の逆光、リジェクトフリーズ!」
しかしソフィネは私の制止を全く無視し、天空術の詠唱と発動を行いながらベルゼブブへの突撃をやめなかった。
ソフィネは、自身が持つ青白く強く光り輝く鎌をベルゼブブの腹部へと突きたてる。
「グギャアアアアァァァァ!!!」
「跪け、全てを否定してやる。お前の力も、存在も、何もかもを!」
振り下ろす時に青白い軌跡を残しつつ、ソフィネの持つ大鎌は私の剣のように砕けず、ベルゼブブの丸々と太った腹部を切り裂いていく。
そしてベルゼブブの断末魔の叫び同時に、傷口が広がりみるみると凍っていき大悪魔を侵食していった。
それでもソフィネは攻撃の手を緩める事は無く、幾度も鎌を振りかぶり相手を斬り続けた。
彼女の鎌は、まるで草木を刈り取るかのようにいとも容易く大悪魔の四肢を、バラバラに切り刻んでいく。
「や、やめろ……」
攻撃されながらも何度も触手や手足で迎撃しようとするが、全てを切り取られ、あるいは凍らせられてしまい身動きがとれなくなってしまう。
無残な姿となったベルゼブブは流石に生命の危機を感じたのか、ソフィネを制止しようと言葉を発するが……。
「ふん、大悪魔とあろう者が命乞いとはな」
ソフィネは自身が放つ冷気と同じか、あるいはそれ以上に冷たい視線を向けつつも返答をすると、大きく跳躍し、ベルゼブブの恐怖に満ちているであろう複眼に見つめられたまま、大悪魔の首を刈り取った。
「倒した……というの?」
腹部を斬られた時のような悲鳴は無かった。
手足のように凍ることは無く、頭と胴体が切り離させた部分から、油の様にべとついた体液を吹き出す。
今まで必死の抵抗を試みた手足と触手はぐったりと力なくその場に落ちてしまい、使役していた虫の大群は主を失い散り散りになって坑道の外へ行ってしまった。
「精霊の石、貰っておくぞ」
「待ってソフィネ!」
脅威が去ったことを確信したであろうソフィネは、大悪魔の亡骸が鎮座した精霊の石の鉱脈を大鎌の柄で叩き、砕けた石を拾う。
しかしそんな最中でも、私はただ驚くだけだった。
「どういう事……なの?」
ソフィネの変わり果てた容姿に、まだ見ぬ未知の力に、大悪魔を軽々と葬った圧倒的な力に。
私は知りたかった。
何故ソフィネがそんな力を身に付けたのか?
なぜそんな見た目になってしまったのか?
どうして天使になったのか?
「フフ……」
「何がおかしいの?」
でもそんな思いをソフィネは私の方を振り向くと、まるで馬鹿にしたかのように見下しながら笑いだす。
「嬉しいのじゃよ。何もかもを知り尽くして、どんな事があっても達観していたお前のここまで慌てている姿が見れてな」
「そんな!」
「もうわらわの事は忘れろ。わらわはお前が知っているソフィネ・アルカティアではない」
返ってきた言葉は、私に対する優越感だけだった。
私はそんな彼女の気持ちよりも、人間だった頃にそこまで劣等感に苛まれていた事に気づき、何もしてあげられなかった自分が許せずにいた。
「わらわは逆翼天使、ソフィネだ」
ソフィネはそう言い残し、私を残して消えてしまう。
私の胸中には彼女を救えなかった苦悩と、引き止められなかった後悔、無力な自分に対する情けなさでいっぱいになっていた。
ごめんなさいっていう事も出来なかった。
私は何をしているの?
私じゃソフィネを救えないというの?
悔しい、悔しいよ。
洞窟内は、……私の泣き声が響いていた。




