第十話 孤独に咲く一輪の花へ、呼びかけるは歴戦の兵か
二人を送り出して一日と少しが経った時。
「エルシア、戻りました~」
このむさ苦しい酒場の従業員であり、ここのムードメーカーとして働くエルシアが、いつもの笑顔のまま帰ってきた。
「ほう、あのラプラタ相手に無事で帰ってくるとは」
彼女の実力は本物であり、特に潜入や解錠の依頼を得意としている。
並の傭兵や魔術師程度ならば、まず手におえないだろう。
しかし今回の依頼は今までとは違い、風精の国の宮廷魔術師長であり、かつ悪魔と呼ばれている程の魔術の使い手がいる。そいつに対峙すれば、エルシアであってもただではすまないと思っていた。
最悪の結果も覚悟していたが……。
みたところ怪我も無さそうだ。
ふと、無意識の内に安堵してしまっている自分に気づく。
こんな世界じゃ死なんて珍しくない筈なのに、一線を退いたせいか。
それとも、年のせいで心配性になってしまったせいか。
「ごめんマスター。依頼こなせなかったよ」
「何だか嬉しそうだな」
失敗したにも関わらず笑顔な理由は、エルシアの大切な人が傷つかずに済んだからという事は容易に想像出来る。
元々、そこまで金払いの良い客でも今後の仕事に影響が出る上客でも無く、さらに事前調査でラプラタが居ると解った事もあって、依頼自体を断ろうとも考えていた。
それらを知っている上で敢えて無視して現地へ赴くという命知らずな暴挙をしてくれたのにも関わらず、うちの大事な従業員が無事に帰ってきている。
仕事はこなせなかったとはいえ、それだけでも奇跡だと思う。
「ところでアロマは?」
そんな元気なエルシアの影のように後ろからついてくる、うちの働き手の中では最年少であるアロマの姿が見えない。
エルシアの様子から察するに、あいつも無事だとは思うが。
「何か寄って行く場所があるって言ってたよ」
どうやらエルシアとは途中で別れたようだ。
しかし寄って行くというのはどういう事だ?
あいつが仕事以外、自分から率先してどこかへ行くなんて事は今まで無かったんだが。
「他にアロマは言ってたか?」
「いいえ。アロマちゃん全然話してくれなくって」
という事は、仕事中にエルシアが知らない範囲で何かが起きたのか?
アロマは依頼をこなすと言えば必ず成そうするはずだ。
エルシアはそんなアロマを止める為に、少しも目を離さないでいた。ほぼ確実に。
「何か収穫はあったのか?」
「さあ? 風の悪魔とアロマちゃんで何か話してたみたいだけども」
そして恐らく失敗するであろう依頼の為に現地へ赴き、そして予想通り標的の暗殺に失敗し空手で帰ってきた。
あいつは仕事のミスや失敗で落ち込むようなタマでは無い。
という事は、残る可能性を考えると……。
「少し店を頼む」
「あ、ちょっとマスター! どこにいくの! ちょっとー!」
俺には一つだけ、あの少女が行く場所に心当たりがあった。
慌てて動揺しているエルシアを無視し、俺は少し急ぎ足でそこへと向かう。
そして自身の予想は見事に的中する。
そこは俺が今まで育ててきた少女を象徴するように儚く可憐に咲く、白き勿忘草が群生している場所だった。
いつも感じる事だが、こんなスラムにここまで見事な花畑があるのは珍しい。
この水神の国では、勿忘草は縁起の悪い花として広まっているせいか、売るために採られる事もない。
だからこそ、自然に群生したのだろう。
「お前……」
確かに今、目の前にはエルシアと逸れたアロマが居る。
だが彼女の姿はいつもとは違い、背には白く輝く一対に翼が生えており、淡いブルーの瞳に宿る煌きは強いが、その目に映る景色はどこか遠い。
彼女自身から発せられる光と月明かりが反射し、周りの花も光っているような様子も相まって、まるで人間が近寄ってはいけないような雰囲気を出している。
端的に表現するならば、神域、知ってはいけない世界、触れてはならない場所と言うべきか。
「ねえマスター、私って怖い?」
可憐な天使が、いつもの無表情のまま意地の悪い問いかけをしてくる。
それはまるで、正解を知っているのに知らない振りをして子供へと質問をする母親のようだった。
俺は俺自身が正しいなんて思っていない。
俺は人間だ、今まで正解を選べず苦い思いも数多くしてきて、これからだって道を間違えてしまうかもしれない。
だが、しかし……。
この少女が今何を求めているか。
そして俺は親代わりとしてどうすればいいか、その答えを知っているし、それが偽善では無い事だって胸を張れる自信もある。
だから告げようじゃないか。
怯えずに、怖気付かずに、堂々と。
「いや、怖くない。何故怖がる必要があるのだ?」
俺の言葉を聞いたアロマの驚きの表情に合わせて、背中の翼と体から発せられていた光がゆっくりと消えていく。
それと同時に一人の幼い少女は大きく呼吸をし、その大きな瞳はうっすらと涙ぐむ。
「……初めてお前と出会った場所もここだったな」
「うん」
アロマと最初に会ったのもこの場所だった。
傭兵として世界中を飛び回っていた少し昔、仕事に疲れた俺は花の香りに誘われる蜜蜂のようにここへ迷い込む。
その時に何の飾り気も無い簡素な作りの白いワンピースを着た少女が、月明かりに照らされ呆然と俺を見ていたのだ。
最初は目を疑った。
何故ならその時も今と同じく少女の背には、本来人間には無いモノがあったのだから。
しかし俺は何の迷いも淀みも無く少女を連れていく事と、一線を退く事を決意する。
出会った時の花の香りが忘れられなくて、そこから少女をアロマと名付けて男手一つで育ててきた。
そんな事を何故したのか?
動機は何か?
そう問われたら、……正直答えられない。
ただ放っておけなかった。
ここで見てみぬ振りをすれば、恐らく一生後悔し続けるという確信に近い予感を胸中に抱いていたからだった。
いつもなら、そんな晴れない雲のようにぼやけて曖昧な思いなんて、信じるわけもない。
しかし何故か、この時だけはそんな曇り空を信じてみたかった。
そして出来る事なら、少女に晴れ空を見せてやりたかった。
結果として、半分は望みが叶ったと思っている。
だが、彼女に歩ませたのは、日の光が届くはずも無い裏の道。
「すまない、アロマ」
「どうして謝るの?」
「お前には女の子らしい事は一つもしてやれなかった」
エルシアや他の従業員に言われなくても解っていた。
だがそれが出来なかった、してやれなかったのは、俺の力量不足と言われても仕方が無い。
「私に気を使ってるの?」
「いや、気にかけている。俺の唯一の家族だからな」
それでもお前は俺の娘だ。アロマ。
「もう手を汚すのはやめろ」
「うん」
この瞬間に今までもやもやと、ただ漠然とあった胸の閊えがとれたような、ようやく自分の思いが伝えられたような気がする。
「ねえマスター。あなたの事、……パパって呼んでもいいかな」
「照れるからやめろ。マスターでいい」
「そう……」
俺はそっと手を出すと、アロマは潤む瞳を念入りに擦った後にぎゅっと強く握り締めてくる。
少女の手はとても小さく、ほのかに温かさが伝わっていく。
「ありがとうね。マスター」
この時、初めて少女の笑顔を見る。
それはまるで、自分の事を忘れて欲しくないと願う勿忘草のように、可憐で儚かった。




