猫気(びょうき)
昼頃から降り始めていた雨は夜になるとすっかりと上がっていた。
未だ空に残る雲は灰色がかっているものの、切れ間から覗く月明かりが暫くは雨が降らない事を暗喩している。
一通りのない路地に猫が一匹倒れているのを見かけたのは、偶然ズボンから鍵を落としたからだった。
凛という鈴のような金属音。それを頼りにふと下を見ると白い毛の猫がひっそりと横たわっていた。
猫は雨に濡れて衰弱しているのか、細々とした息使いでじっとこちらを見つめている。
金色の眼が鋭く細められていて、此方を威嚇しているようにも見えた。
鍵は猫の腹のすぐ隣に落ちていて、見様によっては猫が我が子をひっそりと抱いているようにも見える。
気の迷いが有った後、結局猫を抱え上げた。
濡れた体がしっとりとスーツを濡らしていく。
それはほんの気まぐれだった。
ここ最近碌な事がなく、ともすれば何か良い事をすればそれをきっかけに良いものを引き寄せるのではないかなんて言う根拠のない欲もあった。
猫は最初、戸惑うように此方の顔を覗き込んで来たが、やがて何かを諦めたようにそっぽを向いた。
家に帰り、猫に買い置きの牛乳を飲ませると、よろよろとしながらもなんとか自分の足で歩くようには回復したようだ。
私の家には私以外誰も住んでいない。
広いリビングには、雑多とした物と炬燵にテレビしか置いていなかった。
その日から猫は炬燵の上がお気に入りのベッドになったらしい。私が家に帰ると、いつも猫は炬燵の上で丸くなっていた。
白い毛はやがて艶を取り戻し、撫でるとサラサラとし上物の櫛のような柔らかさになった。
猫との生活が一週間ほど経ったある日、夜中だと言うのに玄関のチャイムが短く鳴った。
普段から人が訪ねてくる事がないような家だ。一瞬びっくりしたが、何か近所であったのやも知れないとドアの鍵を開ける。
玄関前に立っていたのは一人の女だった。
痩せこけてはいるが中々に整った顔の美人だ。
女は焦点の合わない虚ろな目で私をじっと見つめていた。
「こんばんは。こんな夜中にどうされました?」
向こうから声を掛けてこないので、意を決して問いかけると、女は言葉を選ぶように人差し指を口元に当てた。
その仕草は色っぽく、心臓がどくんと強く脈打った。
「夜分にすいません。実は、飼い猫が逃げ出してしまって」
「飼い猫が?」
もしや、と私は後ろを振り向いた。
あかりの灯ったリビングの中で、白猫はまた炬燵の上で丸まっていた。ただ、その金色の瞳が、見比べるように私と女を見据えている。
「はい。名前を秀美と言うのですが、白い毛並みの、金色の眼をした猫です」
「秀美ですか」
矢張り、と瞬時に悟る。この女は、私の拾った猫を引き取りに来た飼い主なのだ。
「昨夜、急に家を飛び出してしまい、もうかれこれ一週間は帰ってこないのです」
時期的にもぴったりだった。
一週間前と言えば、丁度私が猫を拾ったのがそのくらいだ。
「もしや誰かに拾われているのではないかと、失礼ながら辺りの住居を訪ねているのです。何か、心当たりはないでしょうか」
心当たりはないかと訊かれて、どう答えれば良いのか判別がつかなかった。
恐らく女はその秀美という猫をとても心配しているのだろう。常識としては猫を一刻も早く女に預けるのが正解なのは私にだって分かっている。
だが、どうしてか猫を女に預ける気にはなれなかった。
それは私の、猫に対する執着なのだろうか。
「すいません。見覚えがない物で」
背後からじっと見つめられている視線を感じていた。女だって、私が少し横に立ち位置をずらせば猫が居ることにすぐ気がつくだろう。
「そうですか。ありがとうございます。夜分に失礼しました」
何かを問いただすこともなく、女は礼をして後ろへ下がった。私の中に、何とも知れない罪悪感のような物が広がって行く。
帰り際に、女は思い出したように付け加える。
「そう言えば、お宅も猫を飼っているのですか?」
ギクリ、と心臓が虚を突かれた。
平静を保ちながら「えぇ、まあ」と答える。
「ならば気をつけてください。猫は人を惑わす生き物ですので」
微笑を浮かべて、女は遂に路地の向こうへと姿を消した。
人を惑わす、と言う言葉だけが妙に心にわだかまりを残したまま、私もリビングへと戻った。
リビングの中では、秀美と名付けられた白猫が、炬燵の上でじっと丸って寝息を立てていた。
2
僕の家は暗がりの中にある。
明るいネオン街を抜けた先の狭い路地裏。その中にある一際ボロい安アパートが今の僕の家だ。
喧騒から離れた家の前に一匹の猫が居るのを見つけたのは、寒い冬の事だった。
その日は朝から晩までけたたましいほどの雨音が鳴り響いた一日だった。木製の壁は風通しが良く、寒さに震えながら炬燵に潜り込んでいると、不意に玄関からガリガリと木をひっかく音が聞こえたのだ。不思議に思って玄関のドアを開くと、其処には真っ白な毛をドロで茶色くした一匹の猫が佇んでいた。
猫は家に上がりこむと炬燵の上で小さく丸まり、金色の瞳で部屋のあちこちを見据えると、小さな口を開いて甲高い鳴き声をあげた。僕の住むアパートはペット禁止のアパートで、隣人に聞こえないように慌てて猫の口をふさぐとがぶりと顔に似つかない鋭利な牙で指を噛まれた。
猫は、お腹が空いていたらしかった。
牛乳がなかったので水道水と酒のツマミにと買い置きしていた煮干しを与えると、猫は人が変わったように大人しくなり、やがて炬燵の上で寝息を立て始めた。
あれから三日が経過していた。
猫は何故か炬燵の上で寝るのが好きらしく、どれだけ寒い時でも、必ず炬燵の中ではなく炬燵の上で寝息を立てている。
猫を拾ってから、一日の楽しみは仕事から帰って猫の体を撫で回す事になった。
猫の毛は柔らかく、まるで羽毛の布団のようであった。
僕は昔、美容師として働いていた時に使っていた櫛で、毎晩必ず猫の体を撫でてやった。人間の頭に使う櫛で果たして猫の体に傷がつかないか、不安はあったものの櫛で撫でられた猫が気持ち良さそうに喉を鳴らすので、その心配は杞憂だと知った。
翌日、朝眼が覚めると猫が遠くをじっと見ていることに気がついた。視線の先には壁しかなく、何か物が置いているわけでも、ましてや誰かがいるわけでもない。声をかけると猫はその壁から目を逸らして小さく鳴いた。朝ご飯をよこせという催促だった。
大人しい猫だった。
暴れることも無く、日がな一日炬燵の上で丸くなっているらしい。ただ、時折どこか寂しそうな眼で壁を見つめる事が増えてきている。
猫を拾ってから一週間が経った。
僕の家の窓からは月が良く見える。
その日は満月で、月明かりが綺麗な夜だった。
普段通り猫の毛を櫛で撫でてやり、布団に寝ようと電気を消すと、カーテンの隙間から月明かりがそっと覗き込んで猫を照らした。猫は炬燵の上で丸まりながら、じっと壁を睨みつけていた。
黄金色の瞳が闇に揺れる。
不意に玄関のチャイムが鳴った。
凛──と金属音が響いた。
それは鈴の音だった。
その音につられて猫はむくりと起き上がった。
ガリガリ、
ガリガリ、
凛──
玄関のドアを削るような音と、鈴の音が耳に届く。
布団から出て玄関に立った。猫は早くドアを開けろとばかりに前足で引っ掻いている。
またチャイムの音が鳴った。
慌てて鍵を開けてドアを開く。
玄関先には一人の女性が立っていた。
明滅する灯に照らされた女性は、どこか亡霊じみていた。顔色が白い事も相まって、どこか消え入ってしまいそうな雰囲気を醸し出している。
「夜分遅くに申し訳ありません」
礼儀正しくお辞儀をされるから、つられてお辞儀で返した。
女性は僕の足元でじっとしている猫を見て、ふっと笑みを浮かべた。手には、首輪が握られていた。
「実は、猫を引き取りに来たんです」
女性はどこか安心したように言った。
「秀美──と言います。昨夜、家を抜け出してしまったみたいで」
「秀美、ですか」
「はい。何処に行ったのやら、見当も付かなくて辺り一帯の家をこうして訪ねさせていただいておりました」
「つまり、この猫の飼い主さんですか」
一瞬、目の前が明滅した。
飼い主が見つかったのならば帰してやるのが猫にとっても飼い主にとってもいい事ではあると、分かってはいたがそれをしたくはなかった。
今思えばこの時僕は、猫に魅入られていたのかもしれない。
「勝手な申し出かとは思いますが、秀美を家に連れ帰りたいのです」
女性は、申し訳なさそうにそう言った。
だが、この時の僕は恐らく狂っていたのだろう。
「せめて、今晩だけこいつと一緒に眠らせてはくれませんか? そしたら明日の朝には、この子を貴女の家まで送り届けさせていただきます」
ただ少しでもこの猫を手放したくないとそんな風に思っていたのだ。
女性は、困惑したように表情を歪ませた。
「──分かりました」
やがて、悲しそうな笑みを浮かべて女性は言う。
「貴方も──魅せられてしまったんですね」
その言葉の意味を理解する前に、女性はその姿を夜の闇の中へと消していった。
3
「年老いた猫が妖物に成り代わる。なんて話が日本には伝わっているけれど、猫に魔が宿ると言った話は世界各地に溢れている」
山路は缶コーヒーを片手に言った。
目線の先には小さな猫が横たわっている。猫の毛は所々汚れているが、怪我をしている様子はなかった。
「元々人間以外の動物──例えば蛇なんかが分かりやすい例だが、人間は他の動物に神秘を押し付けたがる生き物でな」
カラン、と何かが鳴った。
棗はその音の出所が何処かと目を泳がせる。
山路はそれに気づいて缶の底で猫を指した。
「まぁ──何かに魅せられるってのは何も悪いことじゃない。自分以外のモノに価値を見出す事が出来るってのは誉められはしても責められるものじゃない筈だ。ただ、今回は相手が悪かったな」
猫は、時折思い出したかのようにあくびをして、長い尻尾を蛇のように揺らめかせた。目を薄めて見れば、ぶれて二俣に見えなくもない。
「二俣の猫は人を喰らうなんて、分かりやすい逸話だがな、猫や犬みたいに人の心を魅了する生き物は時として人間の魂を喰らっちまう」
あの猫はそういう類だよ──そう言って山路は退屈そうにコーヒーを飲み干した。
「あんたは平気そうだな」
言われて、棗は悲しそうに目を伏せた。
自分の行いを悔いているのだろう。眼にはうっすらと光るものが見て取れる。
「対処としては正しいよ。あんたは猫に魅せられていながら魂を喰われていない。散歩に出た猫は他の魂を喰らって帰ってくるんだからな。腹一杯であんたの魂なんか喰えねえってわけだ」
棗はただ、俯いたまま山路の声に耳を傾ける。それは、自身の行いを再認識しての自虐行為の様なものだ。そうやって、自身が犯した罪を再認識する。それが彼女にできる一つだけの贖罪だった。
「悔いる事はねえよ。元々世の中は喰って喰われる事で成り立ってんだから」
神父にしてはぞんざいな言い様だが、それは棗を傷つけない為だろうと解釈し、棗は小さく首を縦に振る。
「それでどうする? そろそろまた、散歩に出してやるのか?」
「──今晩は、一緒に寝てあげようかと思います。今日はこの子の五十一歳の誕生日なので」
「そうかい。まぁ、気をつけな。あんたもそろそろ危ないぜ」
危ない、と言うのが自分の命の事だと分かっていながら、棗はこくりともう一度頷いた。
恐らく自分もまたこの猫に魂を喰われるのだろう。それでも、猫に魅せられた彼女にとって、それは最早恐怖に感じるようなことではなかった。
ただ、少しでも長くこの猫と一緒に居てやりたい。それだけが今の彼女の願いだった。
「分からんね。猫なんて、愛想悪いだけじゃねえか」
呟くように吐き捨てて、山路は教会の奥に繋がる扉に手をかける。
「まぁ、もし明日も生きてたならまた来たらいいさ。俺がその猫の魔を祓ってやるぜ。勿論その時にはその猫は本来通りの寿命を全うするだろうけどな」
面倒臭そうに吐き捨てて、山路は教会の奥へと引っ込んだ。
棗は、猫をそっと抱え上げると頭を撫でてやる。腕の立つ人に手入れされたのか、毛は柔らかく、撫でる側が心地良さを感じた。
にゃーと、小さく猫が鳴く。
教会から出ると、雲の切れ間から白んだ月の光が地面に降り注いでいた。