最終回です。『お葬式』に続くかもしれませんが。
ノイローゼです。この人。
ぼくは拒絶する。断固として反対する。
人生という競技を。そのあり方を。
大いに疑問を持たないではいられない。
このもはや決して勝者とは成りようがないとしか思えない競技に未だに参加し続けていることに、どれだけの意味があるのだろう?
すみやかにリタイヤするのが正しいあり方ではないだろうか?
自然淘汰。
弱肉強食。
どちらにしても今居るところに居すわるべきではない。
ぼくは消えるべきだ。
死んで朽ち果てるべきだ。
敗者の必然として。
社会はぼくを必要としてはいない。
これっぽっちもね。
いなくてもどうとでもなってゆく。
わかりきっているよね?
それなりに生きてきたんだから。
ぼくはどこまで行ってもぼくでしかないんだよ。
ぼくとこの世界とでは価値観が根本的に異なっているみたいだしね。駄目なんだよ。ぼくの考え方では。ぼくの感じ方では。生きてていいようにはなってはいないよ。
これから先、ぼくの価値観が変わらないとは言い切れない。少しは変わってゆくかもしれない。だけど、大きく、根本的に変わることはないだろう。
第一、そこまで価値観の違うところに適応出来るとは思ってないでしょ? そんなところでこれ以上ながらえていたいとも思っていないでしょ?
神様がいるのかどうか、ぼくにはわからない。
あの世があるのかどうか、ぼくにはわからない。
だけど、これまでそこそこ生きてきて、ぼくにもわかっていることもある。ぼくはこの世に歓迎されてはいないし、この先もされそうにない。今いるこの社会に喜んで受け入れてもらえるように、正しく考え正しく振舞える正しい価値観を持ってはいないし、これから先も得られそうにはない。正しい価値観っていうのがどんなものかわからないし、わかりそうにもない。
正しく尋ねるって、どういうこと?
価値観の違いで離婚ってのはよくあることでしょ? この世と“離婚”ってのもありじゃないの? あっちゃいけないことではないでしょ?
“おもしろい”って、なに?
ぼくにとっての“がらくた”は、他の誰がどれほどすばらしいと賞賛しようが、どこまで行っても“がらくた”でしかないし、ぼくにとってすばらしいと賞賛する他ないものは、他の誰にとってもどうしようもない“がらくた”でしかなくても、どこまで行ってもすばらしいと賞賛する他はない。
世間で「おもしろい」と言われているものの中には、ぼくにとっても、ちゃんと、「おもしろい」と思えるものももちろんある。だけど、「とびっきりすごい」、「とにかくすばらしい」、「とんでもなくおもしろい」と評されるものについては、全てとは言わないが、たいていはこう思ってしまう。「これのどこがそんなにすごいの?」、「こんな程度のもんなの?」、「どうしてもっとおもしろくないの?」、それなりではあっても。
ぼくは、いろいろと、しかも、かなりの音痴なんだろう。この社会で生きてゆくには。
今、ぼくは自分の価値には不釣合いな、決してこたえてあげられそうにない、ごく僅かなを人たちの善意に縋ってこの場にいるにすぎない。
ぼくを支え、競技場に立たせてくれている人々。感謝の言葉もない。だけど、彼らにこれ以上迷惑をかけるべきではないのだ。こんなあり方、当のぼくが一番望んではいないじゃない。自分が不良債権であることを誰よりも理解しているのはぼく自身じゃないか。
ぼくが現状を甘受して理由は、ぼくが消えたら、ぼくを今支えてくれている人が悲しむから?
それとも、死ぬ時に伴う一瞬以上の苦痛が怖いから?
もうどうでもいいんでしょ? そんなのは。本当は。
結局、気づけばそう思っているじゃない。
降りよう。
終りにしようよ。
この下らない苦痛ばかりの競技を。
なんのための苦行なのさ。これって贖罪なの? だったら、前世でどんなことをしでかしたら、こんなざまにならなければならないの? それとも、この苦行を成し遂げた暁には、なにかしら得られるものでも待っているの?
・・・ぼくの人生って、いったい、なに?・・・・・・。
とりあず、正直、死自体を怖いとはもう思っていないんでしょ?
これから先に待っているものもだいたい予想がつくじゃない。それなりに生きてきちゃったわけだから、見たくなくても見えてきちゃうこともあるんだ。それにそれは多分間違っちゃいない。
これから先は先細りでしかないよ。
すでにそういう“型”、はみ出すことの出来ない“型”に嵌りつつあるのは、どうしようもなく実感させられてるわけだし。
一時的な気晴らしには、これからも事欠かないのかもしれないけど、ただそれだけの事だよ。それなりにいろいろとはあるんだろうけど。その連続でしかない人生にどんな意味があるの?
ないよ。
なんも。
なんにも。
なかったでしょ?
今までも。
これからはもっとないよ。
多分。
なにもかも放り出しちゃおうよ。いいかげんにさ。
やめよ。今すぐ。可及的速やかに。さっぱりと、さ。
多分、今すぐだって遅いくらいだよ。
長生きしたとしたところで、一人寂しく、人知れず、孤独死で世の中から、ひっそりフェイドアウトするのがおちだよ。その時には、死を恐ろしいものと思いたくても、ボケちまっててなんも感じなくなってるよ。ご長寿の痴呆症って、つまりは、そのためなんだよ。きっと。いつ逝ったのか、当の本人にはわからないくらいに、さ。ちょうどいつ寝たのか本人には解らないのと一緒だよ。
この世は生きていたい人―少なくとも、死にたくない人―だけ生きていればいいでしょ。
既に生きる意味を見出した人か、これから見つけられる人たちがいればいいんだよ。広いんだか狭いんだかわからない、この世界は。
・・・・・・ぼくは、もう、行き詰まってるよ。
もう、いっぱいいっぱいだよ・・・・・・。
閉塞感に苛まれ、息苦しくてしょうがないよ。
多分、じきに窒息するよ。
はは、終わってる。
でも、最後にふさわしいもんにはなった。
次にモノに出来そうなのは、遺書のような気がしてきた。
それとも、これが遺書か?
それならそれでももういいや。
ベートーベンはいまわのきわに言ったという。
「諸君、喜劇は終わった」と。
ぼくごときじゃ、喜劇にすらなりはしないんだけど。
確か森鴎外に至ってはこう言ったという。
「ああ、こんなものか」
こんなものだよ。あんたの「こんな」と僕の「こんな」じゃ、月とスッポンだろうけどね。
とりあえず、これで終わりにしようと思う。
それでは皆さん、さようなら。
グッド・バイ(太宰治)。
完
ノンフィクションの荒馬宗海から一言。
改めて諸氏に感謝。とりわけ、太宰治氏(他の皆さんもそうですが、だいぶ軽い扱いをさせて頂きました)に。そして、この話があるのかないのか解らないようなお話(一応、最初にネタ振りをして、最後にオチをつけてるつもりですが)にお付き合いして戴いた読者の方々へ。




