ギフト
実は、最初に「なにを書こうか?」と考えようとして、真っ先に、というか直後に、頭に浮かんだアイデアが、ぼくにはあった。『不幸の星の下に』に辿り着いたのは、その後、いくらか考えてみた末のことだった。
ぼくが、いの一番にカタチにしたいと思ったのは、いわゆる変身ヒーローものだった。
これを「ちゃんとリアルな青少年以上向けに書きたい」と思ったが、「多分、それだと長くになるし、正直、短いやつでもモノに出来るかどうかわからない」と、「いずれ、そのうちにやれれば」って感じで保留扱いにしたのが、その案だった。「なんで変身ヒーローものは子供向けでなければならないのか? どうしてもっとちゃんとリアルじゃダメなんだろう?」とは、ずっと不思議に思ってたことだった。
ぼくは長編でもなんとかモノに出来た。
これに着手することにした。
主人公はごくありふれた平凡な少年ないしは青年だ。いわゆる正義のスーパーヒーローに変身出来る特殊な能力があったことを別にすれは。もっといえば、“光”というとてつもない力を惹きつけ、同化し、意思を反映させる才能を持っていたことを除いては。
変身した彼は強い。とてつもなく強い。ハンパなく強い。むちゃくちゃに強い。強いなんてもんじゃありゃしない。”Second is none(第一回アメリカズカップにて。アメリカ号の快走を称して).”状態。歴代のありとあらゆるスーパーヒーローと比べても、史上最強レベルだ。少なくとも、殺すとか、壊すということに関しては。だから、より強くなるために修行を積んだり、努力をしたりする必要はない。戦略を練ったり、戦術を考えたり、いろいろな駆け引きをする余地もない。必然として、戦闘シーンが盛り上がる、そういうので読む者を惹きつけるということはない。この作品で表現したいのはそういうことじゃない。バトルはメインではないのだ。なにしろ、彼の攻撃は、一発でも当たれば、即決着なのだから。
いわゆる普通の人とというのは、どういう人間のことだろうか?
世界のほぼ全ての人にとっては、その存在すら認知されておらず、何十億という人口に比べれば、ごくごく限られた僅かな人にとってにしかその名前すら知られておらず、ましてや、好かれたり、愛されたり、嫌われたりたりもしてはいない。たいていの人にとっては、どうでもいい人間であり、人の社会全体から見れば、いくらでもかえのきく有象無象の一人でしかない。
彼はそのうちの一人だ。実は、見る人が見れば、とてつもない才能の持ち主ではあるが。
主人公はどういうキャラクターにしようか?
その存在そのものを嫌というほどわかりやすく否定されまくっている人間。人の世では、社会的には、孤独を感じさせられないではいられない者。その他大勢のうちの一人。
超氷河期の売り手市場での就職活動を余儀なくされ、求人に応募した企業にはまるで相手にしてもらえない大学生にすることにした。それだと、ぼくが以前モノにした就活の話も応用出来るし。いわゆる普通の人の話として。
時代はバブルが弾けた後の世界、それなのに、未だに「経済は一流。政治は二流」とまだ相当買いかぶられていた頃がいいと思った。政治家や官僚がやらなければならないはずの一番大切なはずの仕事をいかにちゃんとやっていないから現在に至ってしまっているかを、有象無象だって、有象無象なりに多少の意見をもっていたっていいだろう。偉い人たちの耳にはまったく届いていない―あるいは聞えないふりをしているだけなのか?―としても。
湾岸戦争があって、関西で大震災があって、地下鉄サリン事件があって、現実と思えないようなことが立て続けに起こって、それでもまだなにか良くないことがありそうだった世紀末。ノストラダムスの大予言まであと数年。時代設定は決まった。
ここではない、どこかのニッポンでの物語。
だから、細かいところでは現実とは若干異なる。
ある日、主人公は突然無敵の光の巨人―こう言うと、ウルトラマンを連想する人が大半だと思うが、実際、ぼくがイメージしていたのは、『エヴァンゲリオン』のオープニングでちらっとだけ登場する、輪郭のはっきりしない白く光っている人型のシルエット(という表現は変かな?)―あれってエヴァなのかな? それとも、第一使徒(?)のアダム? 本当のところはなんなんだろ? たしか、肩のところが『すごいよマサルさん』(うすた京介)のマサルさんのチャームポイントチックに出っ張ってて、エヴァのナイフ(プログレッシブ・ナイフとか言ったっけ? あれ)が飛び出すところっぽかったから、エヴァンゲリオンなんだろうとは思ってはいるんだけど。・・・ここでマサルさんを引き合いに出したのは、かえって話をわかりにくくしちゃっただけ?―だった。あれよりもう少し正体がどこかの誰かだとわかりそうなくらいには姿かたちがはっきりしているやつ。もっとも、『エヴァンゲリオン』の監督・庵野秀明はきぐるみを着ないでウルトラマンを演じたことがあるというし、ウルトラマンがなければ、ぼくのイメージしたヒーローもなかったことは確実だけど。で、変身した主人公は、巨大人型白色発光体、白い光の巨人、光の巨人、白い巨人等と表現されるわけだが、実は、これらの呼称で表現されるものは、彼が無意識のうちに当然と認識している自分自身というものが反映されているからであり、そういったものが作用してなければ、そのような形状をとりはしない。主人公が“光”と融合して変化するのは、あくまでも「質・量ともに無限に強大に成り得る可能性を秘めた意思をもつ万能破壊光線の塊」というべきものであり、人型をとるのは、彼が「自分は人間である」と信じて疑ってないからではあり、逆に明確な輪郭をもたないのは、どんな人間であるかという確たる自分自身、「これこそが自分である」というような個性と呼べる類のものをもってはない―少なくとも、彼はそう自覚している。無意識のうちに―からである。色が白いのは独自の色―確固たる“自己”というものをもっていないことの象徴であり、大きさは対峙した相手にあわせて、自分で勝手に調節―正義の味方が戦う相手よりも極端に大きかったり小さかったりということはあまりない。少なくとも、テレビの変身ヒーローものでは―しているだけなのである。
理由はわからないが、変身出来る能力をいつの間にか身につけていて、街を壊し、人々を殺しまくるUMAやUFOが、タイミングよく出現したら、主人公の普通の人はどういう行動をとるだろうか?
きっとやっつけようとするだろう。神にでも授けられた力だと思って。それがごくまっとうな考えだろうし。地球の平和を守っているつもりで。
変身した自分自身があまりにも強いことが本能的にわかっているので、彼には戦うことに対する恐怖はない。意識はしてないけど。桁違いに強いので、実際、軽くこれをひねる。第一、主人公が自分の意志で初めて変身して敵に対峙したとき、彼が気にするのは戦闘の勝ち負けではない。やっつけた後のこと―「相手の体液や臓物、残骸なんかを派手に辺りにぶちまけて汚したりしないようにしないと」なんていかにも小市民的なことを心配しちゃっているくらいなのだから。そして、あまりにも呆気なく勝負は決し、どうしようもなく自身が強いが故に、自分がそれをやったとは実感できない。実はとてつもない脅威を片手間で排除できてしまっていることを、きちんとそれ相応にはわかっていないのである。ちょうど、湾岸戦争の映像がまったく血の通わないテレビゲームのような映像であり、関西での大地震も、地下鉄サリン事件も、まるでどこか遠くの出来事のように身近なものには感じられず、主人公の日常生活にはほとんど影響がなかったように。UMAやUFOが立て続けに出現してるのに、彼の生活自体にはほとんど変化は認められない。
リクルートスタイルに身を包んだ彼は、いままでとなんら変わりのない満員電車揺られながら、思わずにはいられない。
「なんでこうなんだろう?」と。
「これでいいんだろうか?」と。
周りも自分自身も。
変身した主人公はどうしようもなく強い。だけど、敵を倒すこと、そのことはイコール正義を守った、守れたこととは必ずしも一致しない。あくまでも、変身した彼の超能力とは、究極の破壊者としてのそれであり、この点では、ほとんど神とすら見紛うまでのレベルではあるが、人命救助に対してではない。いくら強いからといっても、守りたいものを守れる、救いたいものを救えることを担保するものではないのだ。それは核爆弾を持っていたところで、ばんそうこう一枚の救いですらないこととなんら違いはない。当たり前のことだが。
残酷な殺戮と破壊に接するばかり―苦もなく、あっさりと、それらを退けるのだが―で、彼は苦悩し、うちひしがれないではいられない。
「どうしてこんなにも無力なのか」と。とにかく、助けたいものを助けられないのだ。
クスリとかまではいかないまでも、アルコールに縋ったりはする。地獄絵図のような惨劇の現場に吐いたりもする。
彼の能力がなんの救済にもならないのは当然だった。地球人類よりも遥かに発達した世界における永きに渡る闘争の果てに開発された最終兵器なのだから。そして、知る。UMAやUFOが出現するから力を得たのではなく、力を得てしまったから、UMAやUFOが出現することを。彼は自分自身を責めないではいられない。自らこそ疫病神だったのだ。
主を選ぶ最終兵器“光”。稀人にしか、主人公にしか使えない、この力を、彼は憑きものと呪わないではいられなくなる。憑きもの。『エクソシスト』【ウィリアム・ピーターブラッティ 他】に「スリランカの悪魔祓い」。これらに共通するのは、人は寂しいと、孤独だと憑かれてしまうということだ。主人公は、彼が生まれ育ち、これから先もその端っこででもいいから留まらせていて欲しいと切望し、その一命を賭してまで守ろうとする社会では需要がまったくない。まったく必要とされていない。それだけなら、どこにでもありがちな普通に孤独な大学生だが、実はそれにとどまってはいない。それどころか、正体を知られた日には感謝されるどころか、化物として恐怖され、蔑まれ、差別されるだけだろう。だが、それよりもずっと高いレベルの世界においてはVIP中のVIPとして迎え入れられるべき存在なのだ。主人公は誘われる。「ともに来い」と。
彼は一度は異次元と呼べる高みにある社会への帰順を決意するのだが、その後に彼らによる人類の根絶が企てられることを知り、結局は地球を守るため、敵と認知した存在を殲滅し、元の世界に帰ってくる。
エンディングが見えてきた。
ここで彼にはやっぱりリアルな正義の味方なら絶対避けては通れない、直面しなければならない恐怖に対峙してもらうことにする。多くの人々が殺戮される恐怖、繁栄を誇っていた都市が、文明が壊滅される恐怖、それよりも、もっと根本的な、本来なら真っ先に克服しなければならないはずの恐怖。自分が戦いの末に敗れて殺されるかもしれないという恐怖。最後の最後にはやっぱりこのことに向き合わせさせなければならないと思う。リアルなヒーローならば。
最後に戦う相手は、主人公と同じ“光の主”。しかも、十二人。同じ“光の主”であるが、彼との違いは、その一点だけではなく、それ以外のあらゆる点においても、「特別の中の特別」、「別格の中の別格」とでもいえる存在であることだ。同じ“光の主”でありながら、主人公とは対照的に、持っているのは強大な力だけではない。明確な姿かたち、圧倒的な美、あらゆるもの平伏さずおけないような神々しさのようなものを備えている。
ほとんど確実かもしれない死に直面した人はなにを感じるのだろう? なにを思うのだろう? 親しい人たち(大学の友人や両親、それに、彼女・・・と、言いたいところだけど、性格の良い美人と両想いというのは現実にはあまりないだろうから、片想いの女の子・・・等)に密かに別れを告げた後、主人公にはじっくりと自分自身の内面に向き合ってもらう。
そして、最終決戦。
で、エピローグ。




