後編
縁――というのも妙だが、これも一種の縁なのだろう。
またもや目の前に、例のぶち猫がいるのだった。
玄関の前である。
日曜日だった。リリコは朝刊を取ろうと玄関のドアを開け、ふたたびあのぶち猫に遭遇した。
初めてみたときは白い牝猫と一緒だったが、今日はトラジマだった。
深夜の騒動と同様に、やはり一触即発といったていで二匹はにらみ合っていた。
「……」
まるで示し合わせたかのように、唸るような鳴き声の合唱がスタートする。
ふと、トラジマが隣の家の飼い猫だと気がついた。
名前はなんといったか……人懐こいおとなしい猫で、リリコの足元に擦り寄ってきたこともある、なかなか可愛いやつだ。
「困ったなあ」
このまま放っておくのは忍びない。なんとなく、そう思った。
牡猫同士の喧嘩はけっこう激いと聞く。
ときには怪我をして帰ってくることもあるのだと、猫を飼っている友人が言っていた。
また水をかけてみようか、と考えやめた。
水をかけるのも物を投げるのも、このあいだの夜のように逆効果になる可能性が高い。
二匹の距離はおよそ1メートル。
自らを少しでも大きくみせようと体を弓なりにふくらまして尻尾をピンと伸ばし、ドスのきいた声でフーとかシャーとやっているのだった。
ふと悪戯心とともに、いい考が浮かんだ。
リリコは家の中から座布団を持ってくると睨み合っている猫の視界を遮るように、互いの中央に置いてみた。
相手の姿が見えなくなれば諦めて去ってゆくのではないか、と考えてのことだった。
どんなリアクションが返ってくるかとワクワクしながら待った。
「……」
むなしいかな、なんの効果もない。
そこに座布団などない、はじめからなにもないと言わんばかりに、二匹は相変わらず睨み合っている。
立てた座布団を手で支えながらリリコは交互に猫を見た。
目の前に置かれた障害物どころか、リリコの姿すら見えていないんじゃないかというくらいに無反応の二匹の猫をしげしげと眺める。
面白くない。
ならば邪魔せずにはいられない。
知っている猫が目の前で喧嘩して怪我するのはなんとなく嫌だなー、という最初の考えはどこえやら、リリコの頭の中はまえに交尾の邪魔をしたときそのままに、ふたたび邪魔をしてやるのだ、という思考が占めていた。
リリコは座布団から手を離すと、トラジマに向き直った。
猫の胴体を両手で掴み、そのまま持ち上げる。
なすすべもなく抱き上げられたトラジマの体が、ビヨーンと伸びてぶらさがった。
「……うっ!」
右足に衝撃がきた。
なにか、もの凄く熱いもので刺されたような痛みとともに、頭の中にブスっという架空の音が響いた。
反射的にリリコは振り向いた。
ぶち猫が足に噛み付いていた。
ご丁寧に二本の前脚でリリコの足首を抱え込み、首を傾けてがっぷりと喰らいついている。
トラ猫を抱いたまま、その光景をリリコは呆然と見下ろした。
ぶち猫と目があった。
あ、やばい……!
当然しゃべることは出来ないが、ぶち猫がそう言ったような気がした。
リリコとぶち猫は静かに見つめあった。
たぶん5秒くらいは。
そのあいだもリリコの足には、がっぷりとぶち猫が噛み付いている。
ふとリリコは我にかえり、ぶち猫の尻をぺちんと叩いた。
二回叩いたところで、足にかぶりついていた猫が、やけにゆっくりとした動作で足首から放れた。
突然思い出したように、じくじくとした痛みが耐え難いほど広がった。
「吸血鬼に咬まれるとこんな感じなのかな」
犬歯――いや犬ではなく猫だから、ニャン歯かもしれない。
意味不明なことを考えた。
足首に四つ穴が開いて、びっくりするくらい赤い血が流れ出していた。
「すごい痛いんだけどー」
あいかわらずトラジマを抱いたまま、リリコは情けない声をだした。
「あ! ぶち猫ー……」
角を曲がればすぐ自宅という、家の近所のブロック塀の上でくつろいでいるぶち猫を見つけた。
リリコがぶち猫に咬まれてから一週間が過ぎていた。
あれから病院に行き破傷風の注射を打ってもらったものの、縫うほどの傷ではなく、足首には包帯が巻かれていた。
ぶち猫はリリコに背を向けている。
足音を忍ばして、リリコは猫の背後から近づいた。
感覚の鋭い猫のこと、いつものようにすぐに気づいて逃げていくと思いきや、予想に反してぶち猫が気づく様子はない。
近づけるところまで近づいてやろう、とリリコはなおも猫に接近する。
最終的には手を伸ばせば触れられる位置まで来ていた。
不恰好な短い尻尾と、珍しい無防備な後ろ姿に、リリコはそっと手を伸ばした。
ぺちん、と尻を叩いた。一週間前のように。
「んぎゃあー!」
瞬間、ぶち猫はギャンマンガのワンシーンみたいに塀の上で飛びあがった。
手足をバタバタさせて、30センチはジャンプする猫に、思わず「おおー!」と歓声が漏れる。
ぶち猫が逃げ出した。
脱兎のごとく。
後ろ脚を踏み外した。
塀から落ちそうになるのを、じたばたして踏みとどまる。
ふたたび走り出した。
尚もよたよたしながら角を曲がって走り去る後姿を指さし、リリコは身をよじって大爆笑した。
「ほんっと可愛げというものがないよね、おまえは」
ベッドでまっしろな腹を上に向けたまま、長々と体を伸ばして寝そべる猫を眺めながらリリコは溜息をついた。
あのぶち猫はちゃっかりリリコの家の、家猫に収まっていた。
まあ、いろいろあってのことだが詳細ははぶくことにする。
いつのまにか――名づけたのはリリコではあるが――立派でぴったりな名前も付いていた。
一年たったいまでも、やはり愛想も可愛げもない。
「ブチえもん、起きろー」
猫じゃらしにも無反応、あいかわらず触ろうとすると逃げていくブチえもんに、リリコはむなしくもちょっかいを出しつづけるのであった。
最後まで読んでくださってありがとうございます!
誤字脱字、おかしな所などありましたら、ご連絡くださると嬉しいです。
あと、か、感想とかいただけたら泣いて喜びます(汗