第五話 シカケンの怪
「あ、先輩。化学室に電気が点いてます」
とりあえず南校舎を一階から回ることにした生徒会役員三人組。その中で恵が、唯一照明の点いている化学室を指差して言った。
「教室の使用要請は、誰が?」
和希が書記である優に尋ねると、「確か……、」としばらく考えた後、優が答える。
「自然科学研究部。略してシカケン」
略さなくていい……、と和希が項垂れる。
三人はそのまま化学室の扉をノックし、人がいるのを確認してから中に入った。
しかし入った途端、視界を遮るような煙、煙、煙。まるで霧のようである。
そして、ほんのり香る刺激臭。
「な、なんだっ! またゾンビかっ!!??」
「「は?」」
とっさに口元を両手で押さえた和希がそう叫ぶと、煙の向こうからやけに冷静な反応が二人分返ってきた。
次第に霧、もとい煙が晴れ、視界がはっきりしてくる。
和希達も授業で使ったことのある、実験用の水道完備のテーブルの上には、何やら怪しげな紫色の液体の入った丸底フラスコがこぽこぽとガスバーナーの火を受けて沸騰していた。
その隣に立って試験管に粉状の何かを入れているのは、薄汚れた白衣を着た黒髪の無表情の少年。
「確か三年四組の、斉藤薫…?」と和希は思った。何度か部長会で見た顔である。
そしてその近くの椅子に足を組んで座り、優雅にコーヒーを飲んでいるのはこの学園で日本史を教えている如月雪弥。濃紺のブランドスーツに青いシャツ。落ち着いた物腰で学園一かっこいい先生と女子に大人気だが、こんな煙の中で平然とコーヒーをすすっていられるなんてただ鈍いだけなんじゃないかとこの時生徒会トリオは思った。
「と、とにかく。先生までこんな時間までどうしたんです?」
とっくに下校時間は過ぎているはずですっ、と恵が指摘する。
「ああ、実験がイイトコロだと言うんでな。終わるまで待って、送っていこうかと」
コイツの家俺ン家の近くだし、俺顧問だしな。と如月ははっはっはっと笑った。やっぱりどこかマイペースな人だ。
「っと、それどころじゃないんです。今ちょっと大変なことになってて。一緒に体育館まで来てください」
優が如月、そして薫に詳細を説明する。玄関にゾンビが出たこと、どうやら学校がなにやらおかしいこと。そしてとりあえず体育館に全員集まろうという旨だ。如月は最初こそ冗談だろうと疑ったが、「そういえば……」と何かを思い出したように話し出した。
「確か…お前達が来るちょっと前だったか? なあ斉藤」
「ええ…」
とりあえず座りなさい、と三人に椅子を勧めて、如月は語り出した。
自分が顧問を務めている自然科学研究部の部長である薫から、如月は文化祭に向けて新薬の実験をしたいから化学室を貸してほしいとの要請を受けた。そして化学担当の教師に鍵を借り受け、自分も実験に付き合うことにしたのだそうだ。
「やっぱり火を使うし、コイツは劇薬にも平気で手を出すからな。信頼はしてるが付いてなきゃならん」
如月ははははは、と笑ってコーヒーを一口飲む。
そしていつものように、化学室の水道水とその辺のビーカーでインスタントコーヒーを淹れた彼が椅子に座り、薬の分量を量っている薫を見ていると、 開けてもいないのに、いきなりどばーっ! と水道から水が流れてきたらしいのだ。
「水…ですか?」
恵が恐る恐る、といった感じで尋ねる。
何となく話の先が見えてきた。
「ああ。それも赤錆びたような色の、生臭いヤツな」
それって血じゃないですかぁー!! と恵が涙を滲ませて言う。他の二人も内心心臓がばくばくいっていた。
「いやあ、最初はなあ、水道管が錆びてんのかと思ったんだよ。ほら、金属が錆びた臭いと血の臭いって似てるだろ? なあ斉藤」
あははー、と笑ってすんごいことを言う如月に、薫は表情一つ変えずに頷く。
「ええ。血液にも鉄分が多く含まれていますからね」
そういう問題なんですかー!? と恵ががっくり項垂れて言った。「来年から如月先生の選択授業選んだけど不安だよー」と関係ないことまで不安がっている。
「まあ、とにかくさ。最初は別に怪奇現象なんて思わなかったわけ」
錆びてる水でコーヒー飲んじまったよあははははははー、と、如月は水道管を指差して笑っていたらしい。奇特な人だ。
「それに先生、アレも……」
まだあるのか、と生徒会トリオは思ったが、何はともあれ今度は自然科学研究部(略してシカケン)の部長斉藤薫の話が始まった。
彼は顧問である如月教諭と共に、“文化祭に向けて新薬の開発を行う”と銘打ち、趣味の化学実験に精を出していた。部員は少なく自主行動が多く、しかも顧問は生徒に深く干渉しないマイペースな如月。さあ存分に実験ができるぞ、と顔には出ないがはりきっていたらしい。
そんな時だった。
カタカタ、と音がして、薫が「なんだろう…?」ときょろきょろ辺りを見渡すと、
「ホルマリン漬けが置いてある棚、あるじゃん。……ほら、ソコ……」
化学室でホルマリン、もうすでに十分怖いキーワードだ。生徒会コンビは冷や汗をたらり、と流し、恐る恐る教室の後ろをゆっくりと振り返った。
「ホ、ホルマリンが…どうしたんですか…?」
ホルマリン漬けを凝視したまま、恵が尋ねる。
「……カタカタって揺れて……」
「ゆ、揺れて…?」
ああなんで話し方怖くなってんですかああそして気のせいでしょうか。
本当に、ホルマリン漬けのビンが、揺れている……。
「後ろを向いていたはずのカエルが…」
「カ、カエルがっ…?」
ああ、本当に気のせいなのだろうか。
カエルちゃんの見事な緑の背中がゆっくり、ゆっくりと回って。
「真っ白ーい腹が見えて、カエルと、」
カ エ ル と 目 が 合 い ま し た 。
「目が合っ…」
「ぎゃああああああああああああああああっっ!!!」
薫が皆まで言うより早く、恵の絶叫が木霊する。
優や和希も、叫ばずとも泣きたい気分だった。
「あらら。マジでヤバイんだなこの学校」
はっはっはっと笑う如月とこくこく頷いているが無表情の薫。
ああ今度からは絶対シカケンの予算減らしてやる、と和希はその時思った。
こいつらに金をやって実験されたらいつか爆発するぞこの学校、と。
「っ、とにかく! ここもヤバイみたいです! 早く逃げなきゃ!」
優が怯える恵の腕を掴んで、全員を非難させるよう促す。和希が先に駆け出し、扉を開けてこっちだ! と先導した。その間に化学室ではカタカタという音が次第に大きくなっていき、怪現象がエスカレートしている。ホルマリン漬けの何個かは棚から落ちて、ガシャンガシャンと音がした。
怖いなら見なければいい。しかし人間とは不思議なもので、恐怖を感じているからこそ、見てしまうのだ。
そう、優に引っ張られるように廊下に出た恵は、恐る恐る、化学室の床を見てしまった。
化学室の床を、死んでいるはずのカエルがひたっひたっと内臓を引きずりながら這い出している姿を。
「ひっ」
恵は短い悲鳴を上げて優にしがみついた。 カエルがこちらに向かってきていることに気付いた和希と優が、ぴしゃん! と勢いよく扉を閉める。そして廊下に出してある机で前と後ろ両方の扉を塞いだ。
「…一階には、もう誰もいませんよね?」
焦った様子で和希が尋ねる。
「ああ」
そしてこちらも珍しく真剣な表情で、如月が頷いた。
「じゃあ、一刻も早く二階に上がりましょう」