第三話 乱心
「今の…悲鳴……だよな……?」
冷たい秋の風に髪が揺れ、明治は呟くように言った。そして潤の顔を見ると、彼にもあの悲鳴は聞こえたようで、強張った面持ちで悲鳴が聞こえてきた方向をじっと見ている。
「……なあ、アキ……。も、もう…帰ろうぜ……」
どこか決まり悪そうな、そしてこんな不安げな潤を明治は初めて見た。
「うん…。帰…」
「無理だ」
扉へと踵を返した二人の前、ちょうど扉の前に碧衣が立ちふさがった。後ろを振り返ると、潤の手を翠が捕らえている。
「何すんだよ!! さっきは帰れって言ったじゃないか!!」
ムッとして明治が声を上げると、柊兄弟は声を揃えてしれっと言ってのけた。
「「確かに言った。だがもう遅い」」
「だから、何が遅いって言うんだよ!!」
「見ろ」
碧衣が、空を指差して言った。 その方向。普段と変わらないはずだった夜空を見て、明治、そして潤は愕然とする。
空が、あの何の変哲もない秋の夜空が豹変していた。赤黒く染まった空、紫雲が渦巻いた空は、まるで先ほどまで確かにあったはずの夜空のほうが夢幻だったかのようにはっきりと、邪悪な存在感を醸し出している。おかしい、わかってはいるのに、何故自分がこんな状況に置かれているのか、実感を伴わないこの現実が、まるで夢のように不鮮明に感じられた。
それとも、これは夢なのだろうか。
そう、明治が半ば思いかけたところで、翠の言葉が彼を現実に引き戻した。
「こんな中を帰れるって言うんなら、止めないがな」
明治はぐっと押し黙る。先ほどの悲鳴といい、この空といい、確かに何かがおかしい。
一体何が起こっているのか、さして好奇心の強いほうでない明治でも気になるし、何よりこの状況で家まで無事に帰れる保証がない。
「…………っ、俺…………」
その時、今まで黙っていた潤が俯いたままぼそっと呟いた。
見れば、彼の肩はふるふると震えている。
「…俺……俺……」
「潤? どうしたんだよ、寒いのか?」
気遣った明治が潤の肩に手を置こうとすると、潤は急に、
「お、俺はお化けとか苦手なんだああああああああああああああああああああああ!!」
と叫び、驚いて目を見開いた柊兄弟を押し退ける勢いで屋上から走り去った。
唖然とした三人がぽかんと開け放たれた扉を見つめている時も、階下から潤の叫び声が木霊となって響いてくる。
「………何なんだ…? アイツ」
呆れたように翠が呟いた。その表情は、呆れを通り越してどこか不機嫌そうである。
「とにかく、追うしかないだろう」
屋上から出ようと扉へ向かって歩き出した碧衣の一言に、残りの二人ははっとしてそれに続いた。
「先輩…、今…悲鳴が聞こえませんでした…?」
今まで黙って先輩二人の後について階段を下りていた恵が、前を歩く和希と優に声をかけた。
「悲鳴って言うよりは、叫びって感じだったけどね」
さっきの恵の女の子じみた悲鳴と比較して、と優は言う。和希もそれに頷いた。
今、生徒会役員の三人は二階から一階へ続く廊下を下りている。すでに消されてしまった照明をわざわざ点けずに来た薄暗い廊下に、恵はすっかり怯えている。もっとも、先輩二人は全然気にしていなかったが。
そもそも、こうして早めに仕事を切り上げて一緒に帰ることにしたのも、玄関にゾンビが出たと恵が怯えるからだ。もちろん、そんなものは何かの見間違いだろうと二人は本気にしていない。
「まだ残っている生徒がいたんだろう」
和希は呟くと、階段から一階を見渡した。このすぐ隣が昇降口、左隣が職員玄関になっている。人気は無く、静かだった。
やっぱり、おかしいことなんて何もないじゃないか、恵も疲れてるんだな、と和希がふうっとため息を吐いた。
その時、
「もう嫌だああああああああああああああああっ!!」
三階から、絶叫して潤が全力疾走してきた。しかも、ギャグマンガみたいに涙を垂れ流しながら。
「い、今の…」
「二年の、吉川先輩…?」
唖然とした優の呟きに恵が続く。和希はというと、突然の事態に固まっていた。
案外、こういう予想外の展開に弱いのである。このタイプは。
「待てよ! 潤!!」
走り去った潤を追うように階段を下りてくる音がして、三人の男子生徒が駆け込んできた。有名な柊兄弟、それに、見慣れない生徒。
「ちょ、どうしたんだよ。一体何が…」
「今それどころじゃ…って、あ、先輩?」
優が慌てて声をかけると、転校してきたばかりの明治はそのブレザーの襟に付けられた三ツ星(学年によって星の数が違う)に気付いて、相手が自分より年上であることを察する。
「何がって、今ヤバイじゃないっすか。空見てないんですか?」
「空…? 空って…、ゾンビだけじゃないんですか?」
こちらは襟に一つ星の恵の言葉に、明治は首を傾げる。
「ゾンビ?」
「とりあえず、追いかけるぞ!」
空だのゾンビだの何だのと混乱しかけた場を鎮めたのは、翠の冷静な一言だった。翠と碧衣が同時に駆け出し、それにわずか遅れる形で明治、優、和希、恵と続く。
全速力で階段を駆け下りた六人は、生徒玄関でがちゃがちゃと扉を開けようとしている潤を見つけた。
「潤!!」
明治が親友の名を呼ぶ。そして隣に駆け寄ったが、すっかり落ち着きをなくしている潤は彼に気付かずに、扉が開かないことで尚更焦りを募らせていた。
「「「「「「「!!!???」」」」」」」
突然、玄関の扉がバーン!! と開き、強い突風が吹き込んでくる。
風に混じって、何かが腐ったような生臭い臭いが鼻に突いた。
衝撃に思わず目を瞑った明治は、ふらふらと外に出ようとする潤を慌てて追う。
「潤、どうしたんだよ」
潤は、親友の声がどこか遠くから聞こえてくるような気がした。頭がぼうっとする。それでも…、
それでも、そんな頭でも、ここには居たくないと心が叫び声を上げている。
もう嫌だ。怖い怖い怖い。
そうだ早く、早くここから出なければ…。
一歩、踏み出した足。それは焦る気持ちに反して、どうしてもゆっくりと動く。
ひたり……。
冷たい感触が伝わってくる。何かが、潤の足を掴んでいた。
たら…と汗が頬を伝う。目からはさらに涙が溢れてきそうだ。
見てはいけない。見たくない。けれど…、
潤の顔はゆっくりと下を向き、そして―、
「うっぎゃあああああああああああああああああっ!!」
一瞬の沈黙の後、すさまじい絶叫が木霊した。
潤が向けた視線の先、彼の足を確かにしっかりと掴まれていた。
「ゾゾゾゾゾゾゾ、ゾンビぃー?」
すっかりパニック状態に陥った潤は、己の足を懸命に払った。どろどろと崩れた体。眼球はだらりと垂れて、地が腐ったような悪臭が鼻を突く。
「ヘルプミイイイイイイイイイイィィィィィ!!! 助けてかーあちゃーん!!! 神様今すぐ信者になるから速攻助けに来てくださいぃぃぃぃ!!! キリストでもマホメッドでもムハンマドでもガウダマシッダールダでもいいからさあああぁぁぁぁ!!!」
「っち! どけバカ!!」
キリストでもマホメッドでもなかったが、翠がぐいっと潤の肩を引いた。その隣から、碧衣が玄関の掃除用具用ロッカーから取り出したモップを振り下ろす。
ぐちゅっ、と嫌な音がして、ゾンビの頭がへこみその手が潤の足から離れた。
「「今だ!! 中に入れ!!」」
碧衣と翠に引っ張られ、転がるように逃げ込む潤。全員が中に入ったところで、和希と優が慌てて扉を閉めた。
どん! と扉に何かがぶつかってくる音がして、玄関のガラスにびたびたびたっと一斉にゾンビの手形が付く。外のゾンビ達がわらわらと這い出して、何とか中に入ってこようとしているのだ。一応、他の扉の鍵はちゃんとしまっているようだから、当分は大丈夫だろうが。
「大丈夫か? 潤…」
ゼイゼイと肩で息をしている状態の潤に、明治が声をかける。
「あ…アキ……。俺っ、俺……」
「うん…」
「ごめんっ!! ごめんなっ!! 俺、怖くって、でも、一人で逃げたっ! ホントごめんっ!!」
明治は「気にしてないよ」、とぽんぽんと潤の肩を叩いた。
「アキーぃ」
潤が涙声で(鼻水垂らして)明治にすがりつく。その頭を後ろから翠がスパーンと叩いた。曰く、余計な手間かけさせやがって、と。
「ほら、僕の言った通りだったでしょ?」
明治達の後ろでは恵が、だから言ったでしょうと先輩二人に威張っている。
「そうだね…。未だに信じられないけど、見ちゃった以上は…」
「…何とか対策をとらないとな。とりあえず、校舎に残っている人間を一箇所に集めよう。吉川、お前達も手伝ってくれ」
潤と明治が揃って「はーい」と返事をし、双子が同じ所作で手を軽く上げた。
「…って、吉川先輩怪我してますよっ!?」
潤の足に血が滲んでいるのを見つけた恵が、あっと叫ぶ。
確かに、潤の足には爪で裂かれたような引っ掻き傷があって、制服のズボンが裂け、そこから血が滲んでいた。
「うおっ! マジだ! うああ、気付いたとたん痛ぇよ…」
「じゃあ、吉川達は先に保健室に行け。で、そのまま北校舎を回って欲しい」
いつもの冷静さを取り戻した和希がてきぱきとそう指示した。
「でも、保健室開いてますかね?」
明治が、もうこんな時間ですしと尋ねると、今日の宿直は保険医だからと生徒会トリオが答える。遅くまで仕事で残っている関係上、宿直のローテーションにも詳しいらしい。
「そっかあ、水城先生まだ居るんだぁ。へへ、ちょっとラッキィー」
「何? 美人なの? その先生」
傷口を押さえながらへへへと不謹慎に笑う潤に、明治が首を傾げる。
「それはもう! 超美人!!」
「美人っても、男だからなあ。俺はどっちかっていうと家庭科の石田ちゃんが好きだなあ」
優がははは、と爽やかに笑い、その後ろで恵も「僕もです」と笑った。
「…コホン。じゃあ俺と優、恵が南校舎を回るから」
「「集合場所は?」」
翠と碧衣が声を揃えて尋ねる。
「体育館、だな。じゃあまた後で」
くれぐれも気をつけて、とお互いに声をかけ合い、少年達は二手に分かれた。