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資本主義の怪物


 私は彼を憎み、妬み、蔑み、そして愛焦がれていた。類は友を呼ぶという教養は嫌いであり、また恍惚させるものである。時に彼と同じ性質なのではという恐れが私を襲い、時に自分は彼に近しいのではないかと浮き足立たせる。私が彼より優れている事は在るかと、もし問われる日が訪れるのなら、そのとき私は神様の存在を問われる如く、眉をしかめ、ただ目を瞑っているだろう。もしやまたその時、私が躁で心が満たされているのなら、「彼という存在を彼よりも客観で捉えます。」

そう囁くしかないぐらい、彼は私に無いもの全てをもっていた。



 幼少期を振り返ると私は非常に好奇心あふれる子どもであったように思う。何かにつけては、あれは何これは何と歌のように口ずさんでいた。知ることが至上であった。ところが今やその面影はない。空を眺めると鳥が飛んでいる。鳥という物体に興味をもつという点では相変わらずなのであるが、その鳥が何なのか名前は何なのか、そういうところには立ち入らなくなった。ただ鳥がいて飛んでいることに目と心を奪われているのだ。鳥という物を飛び越えて、空という物を透き通って、まるでベールが剥がれてその先でじんわりと、そして強く心の躍動が広がるのであった。そういうことかと、まるで世界が分かるような感覚である。世間と呼ばれる世の中はそんな私をどこか遠くに払いのけたいように感じる。というのも私自身、世間が無機質な色褪せたように、そして窮屈に感じるようになった。世間の方で変化があったのか、私の中で変化が起きたのかは分からないが、知る好奇心はなくなり、代わりに分かるという情緒に身を委ねるようになった。

 たしか小学生になったあたりからその症状の断片が顔を覗かせていたように思う。国語算数理科社会を教えられたが、そこに心の躍動の広がりは微塵もなかった。この世界に国語も算数も何もないのに、この窮屈な科目なる物は何なのだろうかと。特に国語なんてのは酷かった。やれ、問いで引かれている文のある段落から凡そ何段落後ろに答えがあるだの、やれ、筆者の気持ちを答えろだの。どうでもいいから文学を愉しませて欲しかったのだ。今になって分かるのが、合理化という作業によって変えられた無機物の結晶が体系立てられた理論という物なのだろう。そんなことを今でこそ言っているものの、小学校のテストはいつも高得点であった。というのも、幼稚園の頃から算盤やら何やら通っていたから、周りの同級生よりも早く多くの時間を勉強に割いていたからであった。けれども当時の私は自分が賢い類の人間なのだと、とんだ勘違いをしていた。それが後になってちゃんと自身の失望の引き金になるんだから皮肉なものである。幼稚園に入って算盤などにも通っているのだから察しの通り、親という人種の中でもとりわけ教育熱心な両親であった。父母ともに大卒というお墨付きである。言わずもがな、勉強をしないとか大学に行かないとか定職に就かないとか、そんな概念など生まれるはずのない家庭で育った。母親の口癖は「他人に迷惑をかけたらあかんよ。」であった。母親の下を去るまでしょっちゅう聞かされていたんだから、はっきり言って迷惑であった。父親の説教には「そんなんじゃ世の中の役に立つ大人になられへんぞ。」が決まっていつもどこかに含まれていた。今から考えると父親は占い師の兼業でもしていたのだろう。まさに予言的中なことこの上ない。こんな両親に対する反発なのかひたすらに純粋だったのかは分からないが、絵を描くことや音楽を聴くことが好きだったし、学校でもそれらがある授業は胸踊らせて取り組んでいた。家でも特に絵を描くことが多かったのだが、その時と勉強している時とでは、どこか両親の表情が違って見えた。絵を描いている時間は好きであったが、勉強をすると見れる両親の表情の方が好きであった。いつしかお絵描きは遠慮するようになった。5年生になって中学受験に向けて進学塾に通うことになった。理由は地元の中学が荒れていたことと、やはり大学受験を念頭においてのことだった。大学受験に対して特に抵抗はおろか思う事もなかった。小学校があって中学校があるのと同じように自然な存在であった。むしろその当たり前のことで転びたくはないとさえ思っていたから、塾へ通う成り行きにも素直であったのだろう。塾での成績は中の上でまずまずであった。志望校に関しては、塾長が勧める学校と友人の兄が通っている学校が一致していたのもあって、その中学校に決めた。この学校でのクラス分けは成績順で3段階の分類があった。受験においてもこの3つの志望枠に分けられていた。私の成績では一番上は微妙、真ん中ならまぁいけるだろうといった状態だった。だけれども塾長の意見は一番下の枠で受けなさいとの事で大変不思議であった。母親も塾長と話し合うと母親も同じ意見になった。ともすれば私は反発する意義もないのでそうすることにした。受験当日は緊張でお腹が痛くなり何度もトイレへ駆け込んだのを覚えている。結果は合格であり、晴れて私立の中高一貫校へ入学することになった。 

 中学生になった私の最初の難関は友だち作りである。小学一年生ぶりの友だち作りに私は恐れ慄いていたのだ。だが、そんな不安も虚しくなるほどに、隣の席の男の子が人懐っこく話しかけてくれたのだ。その男の子を中心に他の男の子とも話したり遊んだりしたので、学生生活に支障はないぐらいには友だちに恵まれた。

 それから確か一年生の夏休みに宿題として配られたのだが、ヘミングウェイの小説に胸を打たれた。その余韻が私を哲学的な人生観に触れさせた。それからというものの、小説を漁っては読みこんで、はたまた時代の小説家への羨望などから歴史という学問も唯一私の心に花を咲かせた。

 ある日突然、いや徐々にだったかもしれない。女の子というものが現れた。これまでも所謂男の子ではない人とは接してきたはずなのに、女の子が現れたのだ。私は何故か女の子と普通に話せなくなった。普通という感覚はこれまた難しいが、とにかく男の子と同じように関わることはできなくなったのだった。そんな中、仲の良かった友人がクラスメイトの女子と交際を始めた。友人は暇さえあれば恋人のことを「可愛い可愛い。」と独り言のように私に言うのであった。加えて「お前も早よ恋人作りぃや。世界が変わるで。」と言い放っていた。なるほど新しい世界があるのなら見てみたい。というのも私にも気になっている女子がいた。隣のクラスの女の子であった。友人がそんなことを言うもんだから私もその気になって積極的に話しかけるようになった。2年生の夏、二人で祭りへ出かけ、帰り道で交際が始まった。「僕と付き合ってほしい。」たしかそんなありきたりな告白だったと思う。実のところあまりの緊張で記憶が朧げである。それからは特別二人で何かをするということもなく、登下校を一緒にしたり、時々隣町まで行ってその子のショッピングに連れ添ったり、カラオケに行って時間を潰したりした。ところが、年明けの浮足も落ち着いてきた頃に別れを切り出された。理由を聞くと、「メールの返信遅いし、写真一緒に撮ろうとか言ってきてくれへんし。時々小っちゃいプレゼントみたいなん欲しかったかな。別に良い物が欲しいとか、そういうのんとはちゃうんやけど。なんか、恋人らしいとこ無かったし、愛情を感じへんかった。」との事だった。突然の悲しみに呆然とし、私はただ言われるがままに頷くしかなく、そのまま別れたのであった。

 次の日友人にそのことを報告すると、

「あちゃ〜、そりゃぁあかんよ。日頃からちゃんと愛情は伝えなぁ。まぁええ教訓にはなったんちゃうか。」

とまぁ、陽気な人であった。私もこれを良い教訓にしたかったのだが、簡単ではなかった。メールの頻度が愛情なのだろうか、写真を撮ることが愛情なのだろうか、贈り物をすることが愛情なのだろうか。恋人らしくないと言っても、私は確かにあの子に恋焦がれていた、一人の男の子であったのだけれども。私は別れを切り出されてからこの時までも、どうすれば良かったのか、そうすれば良かったのかと、ぐるぐると考えを巡らせていたが、結局漂流したままだった。それに、どうであれあの子を悲しませてしまった自分を許せない思いも交錯していて、とても中学生の私が解ける団子結びではなかった。そして何となく友人にもそこまでは打ち明けられないというか、愛情のない人間だと判断され兼ねないので打ち明けない方がいいと思い、胸にしまうことにした。それ以来、しばらく恋愛は私には無縁のものとなった。

 高校生になっても相変わらずで、これも相変わらずなのだが周りの友人には恋人がいたりした。みんな一様に小まめに連絡を取り合ったり、好きだの可愛いだのストレートに伝えたり、それこそ手紙まで書いたりしていた。この頃には私はそれが理解できないどころか、この人たちは本当は恋人に対して愛情なんてなくて、だから好きと言ったり手紙を書いたりして、愛情表現をすることで恋人を誤魔化して、いや自分さえも騙しているのだと思っていた。ここまでになるといよいよ病気である。だがこの頃は特に、依然として私は核心をついていると自負していたのであった。

 またこの頃、私の身体はさらに病を患った。大人という生き物が苦手になったのだ。何故だかあの人たちと話していても、あの人たちと話せないのだ。とにかく聴こえない。あの人たちを見ていても、あの人たちと目が合わないのだ。とにかく視えない。あの人たちがどこにいるのか分からなくなったのである。それならそれで、それを貫き通してくれたら良いのだが、稀に突如急に現れて、そうかと思えばまたいなくなるのだ。友人は幽霊をよく怖がっていて私も例から漏れないのだが、一味違って私にとっては世間の全てもお化け屋敷となんら遜色なかった。終には今も尚治らず、私は西洋医学を酷く恨んでいる。ただ大人の中でも取り分け、不思議とお年寄りだけはむしろ心が和んだ。それでもお年寄りの耳の遠さには、時折気が遠くなりそうであった。

 ある時、今でも強く印象に残っている出来事があった。街へ出かけているとクラスメイトの友人が強面の男に絡まれていた。私はその友人の下へ行こうか迷った。取っ組み合いで私に勝算などない。説得も口下手で気弱な私が叶うはずはない。それでも、私は彼の下へ行った。そして状況も把握できぬままに、ひたすら彼と二人で男に頭を下げた。相手方も気が済んだみたいで事なきを得た。とても清々しく、正義感に満たされ、自尊心に溢れた。だが今となっては分かる。私は葛藤の中で、あの男の前に立つ恐怖に打ち勝ったのではない。友を見捨てる自分と対面するのがとても、とても恐ろしく、耐えられなかったのだ。

 高校2年生の時に、酷く打ちひしがれた出来事があった。文理選択である。勿論そういう物があるのは知っていたが、深く考えて来ず、いざ目の前に来ると私は戸惑った。卑しくも十七年ほど自分らしく生きてきたつもりであったのに、世間の評価は、私という存在はこの2種類のどちらかの人間なのだと、酷く傷ついたのをはっきり覚えている。急な二択を迫られ私は焦燥に駆られた。これまた考えをぐるぐると巡らせたが遭難からは抜け出せなかった。結局、理系の方が平均年収が高いという事と、かっこいい印象があったのでそうした。

 高校生活で何よりも苦痛だったのが進路選択のプレッシャーをかけられることだった。周りの大人たちは卒業したら働くのも選択にはあるからね、なんて言いながらその2つの瞳には大学という二文字が映っていた。しかしこの時、私には誤算が生じていたのだ。働くにせよ進学するにせよ、そもそもやりたいことも行きたい学校も、将来の希望(ゆめ)もありはしなかった。そんなことは想定していなかったのだ。小学生のうちから大学受験を見据えていたのだからこれは大問題である。だが慣性の力みたいなのが作用して進学せずに働くというのは想像し辛かったし、大人たちの圧力に逆らうのも体力がいるし、仲が良かった友人が志望していることもあって、神奈川にある名東大学の経済学部をとりあえず目指すことにした。当然そんな理由は周りの大人たちは歓迎するはずもないので、それっぽいことを言って誤魔化した。そしてまた誤算は眼前にやってきた。成績がみるみる下がっていくのだ。初めは何が起きているのか分からなかった。たしかに勉強は熱心ではなかったが、それはこれまでも同じである。つまり私は何も変わっていやしない。それで分かった、周りの人間の成績が私を追い越していったのだ。高校3年生のとき私は一番上のクラスにいたのだが、全国模試の成績が貼り出されると、私は真ん中どころか下3分の1のラインにいた。一番下のクラスの人で私より点数が高いなんていうのも珍しくなかった。ここまで来るともう理解は難しくなかった。私は小さい頃から少しずつ貯めていた学力という貯金を使い切ってしまい、代わりに周りの人間は本気で学力を稼ぎ始めたのだ。これまで気付いていなかったが、私には学力を稼ぐ力は殆どなかった。一番下のクラスの多くは勉強をやっていなかったに等しいが、3年生になって流石にやり始めると、まるでスポンジのように学問を吸収していったのだろう。私は本当の所でいう学ぶ力というものが人並み以下であるという現実を突きつけられ、膝から崩れ落ちた。兎と亀のウサギだねなんて言われるかもしれないが見当違いである。それで言うのであれば私は、かなり早くにスタートを切って、ある程度のところでひたすら休んだ、ウサギだと思っていたカメである。絶望が本物ではあったものの、ふと俯瞰すれば学校での成績は下の中であったが、学校自体が中レベルであったので、全国的な私の成績は中の下であった為に気力は腐り朽ち果てないところで留まれた。

 そうしていざ受験日当日がやってきたが、私はというと足が震えるほどに緊張していた。どこまでも情けない人間である。合格発表の結果は補欠であった。つまり不合格だ。繰り上がりで合格となるのが補欠だが、私は可能性など微塵も感じなかったので、補欠を言い渡されたその日に音楽学校のオープンスクールに応募した。まぁ、所謂現実逃避というものだろう。時折自分の奇人じみた行動力には鼻が伸びてしまう。余談だが高校の友人は法学部の合格を掴み取ったと連絡が入った。数日後、応募したその音楽学校で遊戯程度の作曲ノウハウを教えてもらったが、これがまたとても楽しかったのを今でも覚えている。家のリビングで母親の様子を眺めながら、音楽学校に行くとしたらどう話を切り出そうなんて考えているところで電話が鳴った。受話器を耳に当てた母親は、失くした指輪が見つかったかのような安堵の表情を見せて、私も繰り上がり合格の一報だと察した。意外にも凄く嬉しくて、なんなら少し飛び跳ねていたような記憶がある。

 喜ぶのは程々に、すぐに神奈川で一人暮らしをする家を探しに行かなければならなかった。もう次の日には新大阪で新幹線に乗り込んで新横浜へと向かった。母親が付き添ってくれたのだが、終始所々でどこか淋しげな表情が垣間見えた。教育熱心ゆえに尚更我が子が離れるのを寂しく思ってくれていたのだろうか。新横浜に着くとそのまま電車を乗り換えて相模原の方へと向かった。電車の中では見慣れない風景を眺めながら、聴き慣れない標準語がBGMになっていた。私の性格から言えたもんじゃないが、標準語というのはナヨナヨしい言葉だなと感じたのが正直なところである。そんなこんなで予約していた不動産屋に伺って本格的に家探しが始まったが、特別綴ることはないほどに順調に進んだ。ひとつ迷ったことといえば、キャンパスが最寄り駅から歩いて40分はかかる距離であったので、駅寄りにするか学校寄りにするかであった。とにかく溜まり場みたいになってしまうのだけは嫌だったので、中間あたりのアパートにした。それから印象に残っているのは不動産屋のスタッフとの距離感であった。私の事情に踏み入れすぎず離れすぎずの距離感が何とも心地よかった。ここがもし大阪であったらそうはいかない。よく関西の人は人情あって良いなんて聞くが、私からすればただ馴れ馴れしいだけであった。が故に、ガサツな人間だと敬遠されないよう、神奈川ではなるべく方言を控えて標準語を使うようにしていた。


 いよいよ大学生活が幕を開けた。と言ってもしばらくは変わりのない日々を送っていたのだが、この月並みの学生生活にイノベーションの旋風が巻き起こった。気になる人が出来たのである。それは経営学部の子であった。経済学部の私とは基本的に講義が異なるのだが、重なるものも全く無いわけではなかった。たしか「戦略と市場環境」みたいなテーマだった気がするが、とにかくディスカッションを行う講義があり、そこでその子と同じグループになったことで知り合った。ディスカッションは5回設けられ、最後の6回目の講義で各グループで総括を発表するというものだった。私は1回目の講義でその子に見惚れて、2回目の講義で好きになった。今思えばその外見をもつこの女性を手に入れたいといった所有欲であり、愛と履き違えていたのだが。ただ当時なりに純愛の精神の下にアプローチをしていた私は、最終的に告白するまでに至ったが、想いは叶わなかった。それでもしばらく諦め悪く引きずっていた。気分を変えようと高校の同級生で法学部に入った友人と飲みに出かけた。そこで私は近況を友人に話した。

「へー、それは残念やったなぁ。にしても経営学部にそんな可愛い子おるんやぁ、一回見てみたいわぁ。それで思い出したけどサークルで知り合った経営学部の友達がな、めっちゃおもろいねん。お前も絶対気ぃ合うって、今度3人で飲みに行こうや。」

一瞬気乗りしなかったのだが、経営学部との繋がりはあるに越したこともないので大人しく頷いた。ノリで生きているような友人であったので、「なんなら今日来れるんとちゃうか」と言ってその場で連絡を取って、相手も丁度都合が良かったらしく合流することになった。30分ほど引き続き友人と飲み交わしていたところで店に入ってきたのが、まさしく彼であった。

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