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Songbird  作者: 七日
14/26

第十四章:悪魔との契約

新宿LOFTでのライブから数日後。蛯名の携帯電話が、知らない番号からの着信を告げた。

「……もしもし、私、大手レコード会社『ARTEMIS RECORDS』でA&Rを担当しております、木村と申します。先日、ROCK-FIELDの佐伯さんからご紹介いただきまして……」


その一本の電話が、SoundCrowdの運命を大きく動かすことになる。

蛯名は、緊急でメンバーを招集した。場所は、いつもの柏のマクドナルドだ。


「レコード会社が、俺たちに興味を持ってる」


蛯名から告げられた言葉に、四人の反応は、見事に分かれた。

「すごいじゃないか! メジャーデビューも夢じゃないってことだよな!?」

冬馬が、目を輝かせて興奮する。

その隣で、鈴はポテトを握りしめたまま、俯いていた。より大きな世界に巻き込まれていくことへの、漠然とした不安が彼女を襲っていた。

そして、小鳥は腕を組み、猜疑心に満ちた目で蛯名を睨みつけた。

「……レコード会社なんて、信用できるか。俺たちの音楽を、金儲けの道具にしようって魂胆だろ」


「もちろん、連中はビジネスだ」

蛯名は、プロとして冷静に答えた。「だが、これは間違いなくチャンスだ。連中の言いなりになるつもりはない。マスターの権利はこちらで確保する。まずは、話を聞くだけだ」

その言葉に、小鳥は渋々頷いた。



後日。

メンバーは、東京・青山にある『ARTEMIS RECORDS』の本社ビルを訪れた。

蛍光灯に照らされた会議室の空気は、ライブハウスの熱気とは正反対だった。机の上のミネラルウォーター、均等に並んだ紙コップ、時計の針の乾いた音。その整いすぎた光景が、四人を落ち着かない気分にさせていた。


やがて、A&Rの木村と、彼らのデビューを担当するというプロデューサーの中田が現れた。物腰は柔らかいが、目は笑っていない、典型的な業界の人間だった。


「本日はお越しいただきありがとうございます」


スーツ姿のA&Rの木村は、柔らかな笑みを浮かべながらも冷たい視線を隠さなかった。その隣に座るのは、無精髭を蓄えたプロデューサー。彼は退屈そうに書類をめくりながら、彼らを値踏みしている。


「率直に言いましょう。我々はSoundCrowdに可能性を見ています」


冬馬の心臓が跳ねた。鈴は喉を鳴らし、ペンを強く握りしめた。小鳥は腕を組んだまま、言葉を返さない。


沈黙を破ったのは、プロデューサーの田中だった。

「ただな……君たちの曲は熱い。だが――少し尖りすぎてる。もう少し“分かりやすいフック”を作れないか? サビで誰でも口ずさめる一行とかさ」


小鳥の視線が鋭くなった。

「……分かりやすい、ね」

低く絞り出すような声だった。


「そうだ」田中は頷いた。「難しいことじゃない。観客はシンプルな言葉に惹かれるんだよ。例えば“自由になりたい”とか。そういう誰にでも届く言葉が必要なんだ」


冬馬は不安と期待の間で揺れていた。鈴は視線を下げたまま、ただ空気を震わせる緊張を感じ取っていた。


小鳥は椅子から前のめりになり、机に肘をついた。

「……俺たちの音楽は、安売りのキャッチコピーじゃねえ。血を吐くみたいに掴んだ言葉を、お前は軽く“分かりやすさ”なんて言葉で切り捨てるのか」


会議室の空気が一瞬にして張り詰める。

田中は薄く笑った。

「理想は分かるよ。だが君たちがここに座っているのは、もう“商売”の話をしているからだ。夢だけじゃ飯は食えない」


「飯のために歌ってるんじゃねえ!」

小鳥が机を叩いた。その反響音が、冷たい会議室に鋭く響く。

「俺たちの音は、俺たちの魂だ。観客に媚びるくらいなら、最初からギターなんか弾いてねえ!」


木村が慌てて両手を上げる。

「まあまあ、落ち着いてください。誤解のないように……我々は君たちの個性を尊重するつもりです。ただ――より多くの人に届かせる工夫は必要だと、そう言いたいんです」


蛯名がゆっくりと咳払いをした。

契約書に目を通す蛯名が、一つだけ、鋭く指摘を入れた。

「契約内容は、基本的には問題ない。だが、一点だけ。マスター音源の所有権は、我々アーティスト側に帰属させていただきたい」

その、プロとしての揺ぎない要求に、木村は一瞬顔を曇らせたが、隣の中田が「いいよ、それで」とあっさり頷いた。


木村は笑みを取り戻した。

「もちろんです。君たちの未来に期待しています」


だが、小鳥の拳は震えていた。

契約書にサインする瞬間、彼の胸を焼くのは勝利の高揚ではなく、暗い予感だった。


会議室を出るとき、小鳥は唇を歪めて吐き捨てた。

「魂を売る契約をしちまったかもな」


その言葉が、廊下の冷たい空気に溶け、冬馬の昂揚を打ち消し、鈴の胸に影を落とした。

SoundCrowdの未来に、初めて深い亀裂が走ろうとしていた。


都内某所。大手レコード会社が所有するレコーディングスタジオ。

自動ドアが開いた瞬間、SoundCrowdの四人は思わず足を止めた。

分厚いカーペット、壁に吸音材が貼られたコントロールルーム。ガラス越しには、無数のマイクとケーブルが張り巡らされたブースが見える。天井から吊るされたライトが、冷たく銀色に機材を照らしていた。


「……すげえ」

冬馬が思わず声を漏らす。下北のリハスタとは次元が違う。

鈴は緊張で胸が締め付けられ、背中に汗がにじむ。蛯名は場に慣れたような顔をしていたが、その目は真剣に機材を見渡していた。

小鳥だけは、腕を組んで黙ったまま、何かを見透かすような目でスタジオを睨んでいた。


「よし、じゃあまずはドラムから録ろうか」

田中が軽い口調で指示を出す。

「ガイドに合わせて叩いて、後でギターと重ねる。細かいアレンジは後で詰めればいいから、とりあえずシンプルに頼むよ」


「……シンプルに?」

小鳥の眉がわずかに動いた。

「曲は、ライブで鳴らしてきたそのままを刻むんだ。余計な削ぎ落としなんて――」


「小鳥」蛯名が低い声で制した。

「まずは流れに従え。ここは俺たちのステージじゃなく、スタジオだ」


小鳥は唇を噛み、黙り込む。だが胸の奥で炎が燻っていた。

この空間に漂うのは、音楽の熱ではなく「商品としての匂い」だ。


ブースに入った蛯名がスティックを握り、カウントを取る。

「ワン、ツー、スリー、フォー!」

轟くドラムの音がブースを揺らし、ガラスの向こうで冬馬の指が無意識に弦をなぞった。鈴は息を殺し、音に耳を澄ませた。


――だが小鳥は、ただ拳を握りしめていた。

「俺たちの音が……削られていく」

その予感が、彼の喉を焼いていた。


ドラム録りが一通り終わると、次はギターの番だった。

ブースの中に立った冬馬は、肩にレスポールをかけ、緊張した面持ちでヘッドフォンを耳に押し当てる。

「じゃあ、リズムから。小鳥くんの曲、君が先に弾いてガイドを作ろう」

プロデューサーの声がガラス越しに響いた。


冬馬は深呼吸し、ピックを弦に走らせた。スタジオの空気を震わせる轟音。だがコントロールルームからは、すぐに冷たい声が飛ぶ。

「……悪くない。ただ、もっとタイトに。余計な揺らぎはいらない。メトロノームに吸い付くように合わせて」


冬馬は苦笑しながら頷いた。ライブの熱気ではなく、完璧に制御された正確さを求められている。それは理解できる。だが隣で腕を組んで見ていた小鳥の表情は、明らかに不満げだった。


「次は小鳥くんの番だ」

ギターを持ち替え、ブースに入る小鳥。ヘッドフォンをかける仕草からして、すでに苛立ちが滲んでいた。

カウントが始まり、彼の指が弦を叩きつける。

――荒々しく、火花を散らすようなリフ。ライブハウスで何百回も叩き込んできた、魂の咆哮だった。


しかし録音が終わるや否や、プロデューサーが首を横に振った。

「……勢いはいい。でも、もう少し整理しようか。このフレーズ、半分に削って、サビ前はもっとシンプルに。観客は複雑なリフより、乗りやすいコード進行を求めるから」


ガラス越しに、小鳥の目がギラリと光った。

「削る? 俺のリフを?」

「そうだ。売れる曲ってのは、分かりやすさが命なんだよ」

プロデューサーは軽く言い放つ。


小鳥はギターを下げ、マイクに向かって吐き捨てた。

「ふざけんな。俺は“売れる曲”なんて弾いてねえ。俺が鳴らしてんのは俺の魂だ。お前の言う“分かりやすさ”で切り刻むくらいなら、最初からこのスタジオになんて来なかった」


冬馬が慌てて立ち上がる。

「小鳥、落ち着け!」

鈴はペンを握ったまま顔を伏せ、震える肩を隠そうとした。蛯名は額を押さえ、深くため息をつく。


プロデューサーの笑みは消えていた。

「……君がどう思おうと、商品にならなきゃ意味がないんだ。会社は慈善事業じゃない」


沈黙を裂いたのは、蛯名の低い声だった。

「……もうやめろ」


スタジオの空気が一瞬にして張り詰める。

小鳥はまだマイク越しに睨みつけていたが、蛯名の声には抗えない圧があった。

「小鳥。気持ちは分かる。だが、ここは戦場だ。敵のルールで戦わなきゃ勝てねえ時もある」


「でも――」小鳥が食い下がる。

「分かってる!」蛯名の声が鋭く響いた。「お前の音が本物だってことは、誰より俺が知ってる。だからこそ――今は飲み込め。全部ぶちまける場所は、ステージで残ってる」


小鳥は奥歯を噛みしめ、ゆっくりとギターを持ち直した。

その姿を見て、冬馬は胸が痛んだ。

鈴は震える指を握りしめ、「何かが壊れてしまった」と心の中で呟いた。


プロデューサーは椅子に背を預け、鼻で笑った。

「……やれやれ。じゃあ続けようか。時間は限られてる」


ガラス越しにプロデューサーが声をかける。

小鳥は無言でマイクの前に立ち、ヘッドフォンを装着した。

カウントが流れる。鼓動のようなクリック音に合わせ、彼は深く息を吸い込み、シャウトを叩きつけた。


――轟音。

スタジオの空気が震えた。

だが、録音が終わるとすぐ、プロデューサーは首を横に振る。


「……悪くない。でもね、もっと“爽やか”に歌えないかな。シャウトは少し控えめにして、ラジオで流しても聴きやすい感じに」


小鳥の手が震えた。

「……爽やか?」

「そう。誰にでも分かりやすく。ラブソングみたいに、シンプルで耳に残る感じで」


次の瞬間、マイクスタンドが倒れる音が響いた。

小鳥が蹴り飛ばしたのだ。

「ふざけんな! 俺の声は飾りじゃねえ!」


彼はギターを掴み、弦を叩きつけるようにかき鳴らした。

歪んだリフが轟音となってミキサーに流れ込み、レベルメーターが真っ赤に振り切れる。

エンジニアが慌ててフェーダーを下げるが、ブースの中の小鳥は止まらない。


「これが俺の声だ! 俺の音だ! 分かりやすさだ? フックだ? そんなもんで俺の魂を殺すな!」


ガラス越しに見える小鳥の顔は、獣のように歪んでいた。

冬馬は立ち上がり、ガラスを叩く。

「小鳥! やめろ!」

鈴は両手で耳を塞ぎ、涙をこらえる。

蛯名は低く怒鳴った。

「ブースを開けろ!」


スタッフが駆け込み、必死に小鳥を押さえつける。

だが彼はなおもマイクに向かって、喉を裂くようなデスボイスをぶちまけた。

「これが! 俺たちの音なんだよ!!」


プロデューサーが顔を歪め、怒鳴る。

「録音を切れ! 二度とこんな連中にスタジオを使わせるな!」


ようやく蛯名がブースに飛び込み、小鳥の肩を掴んで力ずくで引きずり出した。

暴れる小鳥の姿は、まるで檻に閉じ込められた獣だった。


廊下に放り出され、荒い息を吐きながら小鳥は呟いた。

「……魂を売るくらいなら、俺は全部壊す」


冬馬はその背中を睨みつけた。

「……俺はお前に憧れてきた。でも、これは違う」


鈴は何も言えなかった。涙でにじむ視界の中、小鳥の姿が揺れていた。

蛯名はただ黙って煙草に火をつけ、深く息を吐いた。

「……これがメジャーの現実か」


スタジオの外に吹く夜風は冷たく、誰の胸にも重い影を落としていた。

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