第十四章:悪魔との契約
新宿LOFTでのライブから数日後。蛯名の携帯電話が、知らない番号からの着信を告げた。
「……もしもし、私、大手レコード会社『ARTEMIS RECORDS』でA&Rを担当しております、木村と申します。先日、ROCK-FIELDの佐伯さんからご紹介いただきまして……」
その一本の電話が、SoundCrowdの運命を大きく動かすことになる。
蛯名は、緊急でメンバーを招集した。場所は、いつもの柏のマクドナルドだ。
「レコード会社が、俺たちに興味を持ってる」
蛯名から告げられた言葉に、四人の反応は、見事に分かれた。
「すごいじゃないか! メジャーデビューも夢じゃないってことだよな!?」
冬馬が、目を輝かせて興奮する。
その隣で、鈴はポテトを握りしめたまま、俯いていた。より大きな世界に巻き込まれていくことへの、漠然とした不安が彼女を襲っていた。
そして、小鳥は腕を組み、猜疑心に満ちた目で蛯名を睨みつけた。
「……レコード会社なんて、信用できるか。俺たちの音楽を、金儲けの道具にしようって魂胆だろ」
「もちろん、連中はビジネスだ」
蛯名は、プロとして冷静に答えた。「だが、これは間違いなくチャンスだ。連中の言いなりになるつもりはない。マスターの権利はこちらで確保する。まずは、話を聞くだけだ」
その言葉に、小鳥は渋々頷いた。
後日。
メンバーは、東京・青山にある『ARTEMIS RECORDS』の本社ビルを訪れた。
蛍光灯に照らされた会議室の空気は、ライブハウスの熱気とは正反対だった。机の上のミネラルウォーター、均等に並んだ紙コップ、時計の針の乾いた音。その整いすぎた光景が、四人を落ち着かない気分にさせていた。
やがて、A&Rの木村と、彼らのデビューを担当するというプロデューサーの中田が現れた。物腰は柔らかいが、目は笑っていない、典型的な業界の人間だった。
「本日はお越しいただきありがとうございます」
スーツ姿のA&Rの木村は、柔らかな笑みを浮かべながらも冷たい視線を隠さなかった。その隣に座るのは、無精髭を蓄えたプロデューサー。彼は退屈そうに書類をめくりながら、彼らを値踏みしている。
「率直に言いましょう。我々はSoundCrowdに可能性を見ています」
冬馬の心臓が跳ねた。鈴は喉を鳴らし、ペンを強く握りしめた。小鳥は腕を組んだまま、言葉を返さない。
沈黙を破ったのは、プロデューサーの田中だった。
「ただな……君たちの曲は熱い。だが――少し尖りすぎてる。もう少し“分かりやすいフック”を作れないか? サビで誰でも口ずさめる一行とかさ」
小鳥の視線が鋭くなった。
「……分かりやすい、ね」
低く絞り出すような声だった。
「そうだ」田中は頷いた。「難しいことじゃない。観客はシンプルな言葉に惹かれるんだよ。例えば“自由になりたい”とか。そういう誰にでも届く言葉が必要なんだ」
冬馬は不安と期待の間で揺れていた。鈴は視線を下げたまま、ただ空気を震わせる緊張を感じ取っていた。
小鳥は椅子から前のめりになり、机に肘をついた。
「……俺たちの音楽は、安売りのキャッチコピーじゃねえ。血を吐くみたいに掴んだ言葉を、お前は軽く“分かりやすさ”なんて言葉で切り捨てるのか」
会議室の空気が一瞬にして張り詰める。
田中は薄く笑った。
「理想は分かるよ。だが君たちがここに座っているのは、もう“商売”の話をしているからだ。夢だけじゃ飯は食えない」
「飯のために歌ってるんじゃねえ!」
小鳥が机を叩いた。その反響音が、冷たい会議室に鋭く響く。
「俺たちの音は、俺たちの魂だ。観客に媚びるくらいなら、最初からギターなんか弾いてねえ!」
木村が慌てて両手を上げる。
「まあまあ、落ち着いてください。誤解のないように……我々は君たちの個性を尊重するつもりです。ただ――より多くの人に届かせる工夫は必要だと、そう言いたいんです」
蛯名がゆっくりと咳払いをした。
契約書に目を通す蛯名が、一つだけ、鋭く指摘を入れた。
「契約内容は、基本的には問題ない。だが、一点だけ。マスター音源の所有権は、我々アーティスト側に帰属させていただきたい」
その、プロとしての揺ぎない要求に、木村は一瞬顔を曇らせたが、隣の中田が「いいよ、それで」とあっさり頷いた。
木村は笑みを取り戻した。
「もちろんです。君たちの未来に期待しています」
だが、小鳥の拳は震えていた。
契約書にサインする瞬間、彼の胸を焼くのは勝利の高揚ではなく、暗い予感だった。
会議室を出るとき、小鳥は唇を歪めて吐き捨てた。
「魂を売る契約をしちまったかもな」
その言葉が、廊下の冷たい空気に溶け、冬馬の昂揚を打ち消し、鈴の胸に影を落とした。
SoundCrowdの未来に、初めて深い亀裂が走ろうとしていた。
都内某所。大手レコード会社が所有するレコーディングスタジオ。
自動ドアが開いた瞬間、SoundCrowdの四人は思わず足を止めた。
分厚いカーペット、壁に吸音材が貼られたコントロールルーム。ガラス越しには、無数のマイクとケーブルが張り巡らされたブースが見える。天井から吊るされたライトが、冷たく銀色に機材を照らしていた。
「……すげえ」
冬馬が思わず声を漏らす。下北のリハスタとは次元が違う。
鈴は緊張で胸が締め付けられ、背中に汗がにじむ。蛯名は場に慣れたような顔をしていたが、その目は真剣に機材を見渡していた。
小鳥だけは、腕を組んで黙ったまま、何かを見透かすような目でスタジオを睨んでいた。
「よし、じゃあまずはドラムから録ろうか」
田中が軽い口調で指示を出す。
「ガイドに合わせて叩いて、後でギターと重ねる。細かいアレンジは後で詰めればいいから、とりあえずシンプルに頼むよ」
「……シンプルに?」
小鳥の眉がわずかに動いた。
「曲は、ライブで鳴らしてきたそのままを刻むんだ。余計な削ぎ落としなんて――」
「小鳥」蛯名が低い声で制した。
「まずは流れに従え。ここは俺たちのステージじゃなく、スタジオだ」
小鳥は唇を噛み、黙り込む。だが胸の奥で炎が燻っていた。
この空間に漂うのは、音楽の熱ではなく「商品としての匂い」だ。
ブースに入った蛯名がスティックを握り、カウントを取る。
「ワン、ツー、スリー、フォー!」
轟くドラムの音がブースを揺らし、ガラスの向こうで冬馬の指が無意識に弦をなぞった。鈴は息を殺し、音に耳を澄ませた。
――だが小鳥は、ただ拳を握りしめていた。
「俺たちの音が……削られていく」
その予感が、彼の喉を焼いていた。
ドラム録りが一通り終わると、次はギターの番だった。
ブースの中に立った冬馬は、肩にレスポールをかけ、緊張した面持ちでヘッドフォンを耳に押し当てる。
「じゃあ、リズムから。小鳥くんの曲、君が先に弾いてガイドを作ろう」
プロデューサーの声がガラス越しに響いた。
冬馬は深呼吸し、ピックを弦に走らせた。スタジオの空気を震わせる轟音。だがコントロールルームからは、すぐに冷たい声が飛ぶ。
「……悪くない。ただ、もっとタイトに。余計な揺らぎはいらない。メトロノームに吸い付くように合わせて」
冬馬は苦笑しながら頷いた。ライブの熱気ではなく、完璧に制御された正確さを求められている。それは理解できる。だが隣で腕を組んで見ていた小鳥の表情は、明らかに不満げだった。
「次は小鳥くんの番だ」
ギターを持ち替え、ブースに入る小鳥。ヘッドフォンをかける仕草からして、すでに苛立ちが滲んでいた。
カウントが始まり、彼の指が弦を叩きつける。
――荒々しく、火花を散らすようなリフ。ライブハウスで何百回も叩き込んできた、魂の咆哮だった。
しかし録音が終わるや否や、プロデューサーが首を横に振った。
「……勢いはいい。でも、もう少し整理しようか。このフレーズ、半分に削って、サビ前はもっとシンプルに。観客は複雑なリフより、乗りやすいコード進行を求めるから」
ガラス越しに、小鳥の目がギラリと光った。
「削る? 俺のリフを?」
「そうだ。売れる曲ってのは、分かりやすさが命なんだよ」
プロデューサーは軽く言い放つ。
小鳥はギターを下げ、マイクに向かって吐き捨てた。
「ふざけんな。俺は“売れる曲”なんて弾いてねえ。俺が鳴らしてんのは俺の魂だ。お前の言う“分かりやすさ”で切り刻むくらいなら、最初からこのスタジオになんて来なかった」
冬馬が慌てて立ち上がる。
「小鳥、落ち着け!」
鈴はペンを握ったまま顔を伏せ、震える肩を隠そうとした。蛯名は額を押さえ、深くため息をつく。
プロデューサーの笑みは消えていた。
「……君がどう思おうと、商品にならなきゃ意味がないんだ。会社は慈善事業じゃない」
沈黙を裂いたのは、蛯名の低い声だった。
「……もうやめろ」
スタジオの空気が一瞬にして張り詰める。
小鳥はまだマイク越しに睨みつけていたが、蛯名の声には抗えない圧があった。
「小鳥。気持ちは分かる。だが、ここは戦場だ。敵のルールで戦わなきゃ勝てねえ時もある」
「でも――」小鳥が食い下がる。
「分かってる!」蛯名の声が鋭く響いた。「お前の音が本物だってことは、誰より俺が知ってる。だからこそ――今は飲み込め。全部ぶちまける場所は、ステージで残ってる」
小鳥は奥歯を噛みしめ、ゆっくりとギターを持ち直した。
その姿を見て、冬馬は胸が痛んだ。
鈴は震える指を握りしめ、「何かが壊れてしまった」と心の中で呟いた。
プロデューサーは椅子に背を預け、鼻で笑った。
「……やれやれ。じゃあ続けようか。時間は限られてる」
ガラス越しにプロデューサーが声をかける。
小鳥は無言でマイクの前に立ち、ヘッドフォンを装着した。
カウントが流れる。鼓動のようなクリック音に合わせ、彼は深く息を吸い込み、シャウトを叩きつけた。
――轟音。
スタジオの空気が震えた。
だが、録音が終わるとすぐ、プロデューサーは首を横に振る。
「……悪くない。でもね、もっと“爽やか”に歌えないかな。シャウトは少し控えめにして、ラジオで流しても聴きやすい感じに」
小鳥の手が震えた。
「……爽やか?」
「そう。誰にでも分かりやすく。ラブソングみたいに、シンプルで耳に残る感じで」
次の瞬間、マイクスタンドが倒れる音が響いた。
小鳥が蹴り飛ばしたのだ。
「ふざけんな! 俺の声は飾りじゃねえ!」
彼はギターを掴み、弦を叩きつけるようにかき鳴らした。
歪んだリフが轟音となってミキサーに流れ込み、レベルメーターが真っ赤に振り切れる。
エンジニアが慌ててフェーダーを下げるが、ブースの中の小鳥は止まらない。
「これが俺の声だ! 俺の音だ! 分かりやすさだ? フックだ? そんなもんで俺の魂を殺すな!」
ガラス越しに見える小鳥の顔は、獣のように歪んでいた。
冬馬は立ち上がり、ガラスを叩く。
「小鳥! やめろ!」
鈴は両手で耳を塞ぎ、涙をこらえる。
蛯名は低く怒鳴った。
「ブースを開けろ!」
スタッフが駆け込み、必死に小鳥を押さえつける。
だが彼はなおもマイクに向かって、喉を裂くようなデスボイスをぶちまけた。
「これが! 俺たちの音なんだよ!!」
プロデューサーが顔を歪め、怒鳴る。
「録音を切れ! 二度とこんな連中にスタジオを使わせるな!」
ようやく蛯名がブースに飛び込み、小鳥の肩を掴んで力ずくで引きずり出した。
暴れる小鳥の姿は、まるで檻に閉じ込められた獣だった。
廊下に放り出され、荒い息を吐きながら小鳥は呟いた。
「……魂を売るくらいなら、俺は全部壊す」
冬馬はその背中を睨みつけた。
「……俺はお前に憧れてきた。でも、これは違う」
鈴は何も言えなかった。涙でにじむ視界の中、小鳥の姿が揺れていた。
蛯名はただ黙って煙草に火をつけ、深く息を吐いた。
「……これがメジャーの現実か」
スタジオの外に吹く夜風は冷たく、誰の胸にも重い影を落としていた。