第十三章:業界の視線
ライブ当日、新宿へ向かう常磐線の車内は、平日の昼下がりらしく、どこか気怠い空気が流れていた。
冬馬は、向かいの席でヘッドフォンをして窓の外を眺めている鈴を、それとなく観察していた。彼女が手にしているのは、当時、一部の音楽好きの間で話題になり始めていた、携帯MP3プレイヤー『Rio 500』だった。
その時、隣でMDプレイヤーをいじっていた小鳥が、ふと鈴の手に気づき、それまでの不機嫌なオーラを霧散させて目を輝かせた。
「お前、それ……Rio 500じゃん!マジかよ、いいな! 俺も欲しいんだよ、それ!」
普段の尊大な態度はどこへやら、小鳥は子供のように興奮して鈴に詰め寄る。「なあ、音どうなんだよ? 俺のMDとどっちがいい音する? ちょっと聴かせろよ!」
突然のことに、鈴は驚いて肩を震わせながらも、おそるおそるイヤホンを片方外して小鳥に渡した。小鳥は自分のMDとRio 500を何度も聴き比べ、「やっぱMP3は高音がクリアだな……でもMDの低音も捨てがたい……」などと、一人でブツブツとマニアックな分析を始めている。
冬馬は、その光景を、初めて見る小鳥の無邪気な一面に驚きながらも、自分には入れない、二人の特別な空気を感じて、少しだけ胸がチクリと痛んだ。
***
新宿LOFTの楽屋は、独特の熱気と緊張感に満ちていた。
「……いつも通りやれ」
ステージへと向かう直前、蛯名が三人の背中を叩いた。「お前らの音は、本物だ」
フロア後方の壁際で、音楽雑誌『ROCK-FIELD』の編集者・佐伯は、腕を組んでステージを眺めていた。旧知の仲である蛯名に「面白い新人を見つけた」と誘われ、義理で顔を出したものの、内心では「どうせよくいる、勢いだけの若手だろう」と、全く期待していなかった。
やがて、SEが鳴り、ステージに現れたのは、奇妙な編成のバンドだった。
圧倒的な存在感を放つ、金髪で中性的なボーカル。その隣には、優等生然としたギタリスト。そして、俯きがちだが、その瞳には確かな意志を宿した、小柄なベーシスト。
(……なんだ、このチグハグなバンドは)
佐伯が冷笑を浮かべた瞬間、一曲目の『硝子壁のノイズ』が始まった。
そして、彼の表情は、一曲終わる頃には驚愕に、そして興奮に変わっていた。
なんだ、こいつら……!?
ボーカルのカリスマ性が異常だ。金髪に中性的な見た目、囁きから天使のようなクリーンボイス、そして地獄の底から響くデスボイスまでを完璧に操る喉。
ギターも二人とも、レベルが異常に高い。優等生みたいな顔のやつは、理論に裏打ちされた完璧な速弾き。金髪のボーカルは、感情のままに弾き倒す、暴力的な速弾き。その対比が凄まじい化学反応を起こしている。
そして、ベースだ。V-Bassシステムを使っているのは分かる。だが、その使い方のセンスが尋常じゃない。ただ奇抜な音を出すのではなく、曲の展開に合わせて和音を奏でたり、シンセのように空間を埋めたり、全ての音が楽曲の感情を増幅させるために完璧に計算されている。
リズム隊の安定感も、蛯名がいるからというだけではない。新人離れした、完成されたアンサンブル。
佐伯は、確信した。
蛯名め、とんでもない原石を、いや、すでに磨き上げられた凶器のようなバンドを隠し持っていたな……!
***
興奮冷めやらぬ楽屋。
SoundCrowdのメンバーが機材を片付けていると、この日のトリを務める、蛯名が紹介した格上のバンドのメンバーたちが入ってきた。
相手のバンドのボーカルが、値踏みするような目で小鳥を見た。彼は、シーンの顔役として知られる、カリスマ的な男だった。
「噂は聞いてるよ。SHELTERで暴れてるヤバい新人がいるってな。まあ、今日のライブも、勢いはあったんじゃねえの」
彼は、自分の喉を指差しながら、仲間たちに聞こえるように言った。
「やっぱ、最後は喉の強さだよな。俺の今日のロングシャウト、多分自己ベスト更新だわ」
その、魂ではなく「記録」を語るような言葉に、小鳥の眉がピクリと動いた。
相手のボーカルは、小鳥の視線に気づき、挑発するようにニヤリと笑う。
「なんだよ、金髪ちゃん。お前も叫んでたみたいだけどよ。何秒持つんだ? 10秒か? 15秒ってとこか?」
冬馬が「やめろよ」と小鳥の腕を掴む。だが、小鳥は静かに立ち上がった。
「……いいぜ。聴かせてやるよ。どっちが本物か、ここで決めようじゃねえか」
空気が、凍りついた。
まず、相手のボーカルが自信満々に叫んだ。テクニックに裏打ちされた、パワフルで、驚異的な長さのシャウト。
次は小鳥の番。
小鳥は、静かに息を吸う。そして、口を開いた瞬間、楽屋に響き渡ったのは、もはや「シャウト」というより「絶叫」だった。
それは、技術や長さを競うための声ではない。痛み、怒り、悲しみ、全ての感情が叩きつけられたような、魂を直接殴りつけるような、本物の叫び。
相手の記録を、余裕で超えるほどの長さ。そして、何よりもその声が持つ圧倒的な「本物」の迫力に、楽屋にいた全員が、水を打ったように静まり返った。
叫び終えた小鳥は、息を切らすでもなく、呆然としている相手のボーカルに、静かに言い放つ。
「長さじゃねえんだよ。何を叫ぶか、だ」
その直後だった。
「───その通りだ」
楽屋の入り口に、編集者の佐伯が立っていた。彼は、蛯名と共に、今の一部始終を見ていたのだ。
佐伯は、他のメンバーには目もくれず、汗だくの小鳥の前に立った。
「君が、このバンドのフロントマンか。いくつか聞きたい。君が影響を受けた音楽は? あの歌詞は、何を歌っている?」
プロとしての、鋭い質問。
だが、小鳥は、そんな業界人然とした態度を鼻で笑った。
「はっ。あんたに教える義理はねえよ。聴いて分かんねえなら、あんたの耳が腐ってんだろ」
一触即発。冬馬と蛯名が慌てて止めに入る。
だが、佐伯は怒るどころか、面白そうに口の端を吊り上げた。
「……そうか。違いない」
彼は、この生意気で、誰もコントロールできそうにないボーカルこそが、「本物」のスターの証だと確信した。
楽屋を出た後、廊下で、佐伯が蛯名に伝える。
「いや、参ったよ。蛯名さん、とんでもないバンド作ったな」
「だろ?」
「ああ。……なあ、あいつら、俺の知り合いのA&Rに紹介してもいいか? 大手のやつだ。多分、絶対に食いつくぞ」
蛯名は、黙って頷いた。
「……頼む」
メンバーたちが知らないところで、次のステージへの扉が、静かに、だが確実に開かれようとしていた。