第十二章:新宿への狼煙
下北沢SHELTERでの初ライブから、三ヶ月が過ぎた。
SoundCrowdは、あの夜の衝撃的なデビューをきっかけに、SHELTERの企画ライブの常連となっていた。彼らが出る日には、噂を聞きつけた音楽ファンや他のバンドマンたちが、必ずフロアに集まるようになっていた。ライブを重ねるごとに四人のアンサンブルは研ぎ澄まされ、そのパフォーマンスは「下北沢に、正体不明のヤバい新人がいる」という噂となって、インディーズシーンの狭いコミュニティの中を駆け巡り始めていた。
その日も、彼らはSHELTERでのライブを成功させ、終電間際の柏のマクドナルドに集まっていた。
「今日のライブも良かったな」
冬馬がポテトを頬張りながら言うと、小鳥が不満そうにストローを噛んだ。
「SHELTERは居心地いいけどよ。いつまでも、ここの王様でいるつもりはねえぞ」
その言葉を待っていたかのように、蛯名が口を開いた。
「……だよな。次のステージに行く頃合いだと思ってたところだ」
彼は、テーブルの上に音楽雑誌を広げる。そこには、新宿のライブハウスの特集が組まれていた。
「次は、新宿だ。SHELTERの5倍のキャパシティを持つ、あのハコを落とす」
新宿LOFT。
その名前に、冬馬と鈴はゴクリと喉を鳴らした。それは、インディーズバンドにとって、一つの大きな壁であり、憧れの舞台だった。
しかし、現実は甘くなかった。
無名の新人に対する、冷たく、分厚い壁。メンバーの間には、焦りと苛立ちが募り始めていた。
数日後。いつものスタジオで、重い空気が流れる中、ついに蛯名が動いた。
「……埒が明かねえな。お前らは、新曲作りに集中してろ。交渉は、俺が直接行ってカタをつけてくる」
そう言い残し、彼は一人、新宿へと向かった。
***
新宿LOFTの、雑然とした事務所。
ブッキングマネージャー(ブッカー)の男は、目の前に座る蛯名を、面倒くさそうに見ていた。
「……だから、ウチは誰でも出られるハコじゃないんですよ。SHELTERでちょっとウケたからって、ウチで通用するとは……」
「分かってる」
蛯名は、冷静に男の言葉を遮った。「ウチのバンドは、まだ無名だ。動員も見込めない。だがな、あんたの店に箔がつくぜ。最初にこいつらを見出したのは、LOFTのブッカーだったってな」
ブッカーは、その自信過剰な言葉を鼻で笑った。
だが、蛯名は不敵な笑みを崩さず、切り札を出す。
「もし、俺が、今インディーズで一番客を呼べる、あのバンドを引っ張ってこれる、と言ったらどうする?」
蛯名が挙げたバンドの名前に、ブッカーの目の色が変わった。それは、今まさに人気が爆発し、メジャーデビューも噂される、シーンの寵児だった。
「……本気か? 彼らを、本当にこのイベントのためだけに呼べるっていうのか?」
「ああ。俺のドラムの教え子でな。昔、世話になったからって、一つ貸しがあるんだよ」
ブッカーは、しばらく蛯名の顔を睨みつけていたが、やがて大きく息を吐いた。
「……分かった。そこまで言うなら、信じてやる。そのバンドを本当に呼べるなら、話は別だ。平日の夜だが、一番いい時間帯をくれてやる」
「契約成立だな」
***
スタジオに戻った蛯名は、事の顛末を報告した。
新宿LOFTでの自主企画ライブ決定。そのニュースに、小鳥と冬馬は拳を突き合わせ、鈴も、前髪の奥で小さくガッツポーズをした。
「ただし、トリは俺が呼ぶバンドに任せる。お前らは、残り二枠を埋める、最高のバンドを探してこい」
蛯名の言葉に、三人の顔が引き締まる。
そこから、彼らの対バン相手を探す日々が始まった。
小鳥と冬馬はライブハウスに乗り込み、鈴はインターネットの海を泳ぐ。
そして、その夜。蛯名は一人、自宅で電話をかけていた。相手は、大手音楽雑誌の編集者。
「……ああ、ご無沙汰してます。ええ、実は最近、面白い若い連中とバンドを始めましてね。……ええ、めちゃくちゃ生意気で、めちゃくちゃ才能あるやつらです。近々、新宿LOFTで初企画をやるんで、もし良かったら、こっそり見に来ません?」
狼煙は、上がった。
SoundCrowdの本当の戦いが、今、始まろうとしていた。
***
その夜も、下北沢のいくつかのライブハウスを回り、収穫のないまま終電の時間を迎えていた。
「腹、減ったな。なんか食って帰るか」
小鳥の提案で、二人は駅前の、カウンターしかない小さなラーメン屋に立ち寄った。
湯気の向こうで、小鳥が忌々しそうに呟く。
「今日の一個目のバンド、ギターは上手かったけど心がねえな。ただの指運動だ」
「でも、あのフレーズは技術的に凄かったと思う」
冬馬が理論的に分析しようとすると、小鳥は「だから、それがダメなんだよ」と一蹴する。
「技術なんて、魂を運ぶためのただの器だ。器だけ立派で、中身が空っぽじゃ意味がねえ」
その言葉に、冬馬は何も言い返せなかった。
しばらく沈黙が続いた後、小鳥が、珍しくポツリと漏らした。
「……まあ、あそこのベースラインは、悪くなかったな」
その一言で、二人の間の空気が少しだけ和らぐ。
冬馬は、ずっと気になっていたことを、思い切って尋ねてみた。
「……学校とか、どうしてるんだ? バイトもしてるみたいだし……。いつ、そんなに音楽のことばっかり考えられるんだ?」
それは、音楽から一歩踏み込んだ、私生活への質問だった。
小鳥は、ラーメンをすする手を止め、少しだけ遠い目をした。
「学校なんて、とっくの昔に辞めたよ。俺には、あんな場所は必要ねえ」
「バイトは、生活のためだ。家賃と、スタジオ代と、機材代。それ以外に金を使う趣味もねえしな」
その、あまりにもシンプルな答え。
親の敷いたレールの上を歩き、大学進学のことしか考えていなかった冬馬にとって、それは衝撃だった。
小鳥は、本当に、音楽のためだけに生きている。
「……お前は、いいよな」
今度は、小鳥が冬馬に尋ねる。「ちゃんとした学校行って、親も心配してくれて。俺とは大違いだ」
その声には、いつものような棘はなく、少しだけ、羨むような響きがあった。
「そんなことない! 俺は……君が羨ましかった。ずっと。自分のやりたいことだけを、まっすぐにやれてる君が」
初めて、本音をぶつけられた。
小鳥は、少し驚いたように冬馬の顔を見ると、ふい、と視線をそらして、照れ隠しのように言った。
「……馬鹿言え。ラーメン、伸びるぞ」
二人は、それ以上何も話さず、ただ黙々と麺をすすった。
だが、カウンターの下で、二人の距離は、確実に、ほんの少しだけ縮まっていた。