第十一章:SHELTERの壁を叩け
初ライブを明日に控えた夜。
鈴は、自室の姿見の前に立っていた。手には、使い慣れた工作用のハサミが握られている。
鏡に映るのは、長い前髪で顔の半分以上が隠れた、臆病な少女。この髪は、いつだって世界から自分を隠してくれる盾だった。
(……でも)
脳裏に、仲間たちの顔が浮かぶ。
自分の言葉を、魂で歌ってくれる小鳥さん。
自分の音を、天才的なギターで彩ってくれる冬馬くん。
自分の居場所を、確かなリズムで守ってくれる蛯名さん。
あの人たちと同じステージに立つ自分が、このままではいけない。
もう、画面の向こうに隠れている自分じゃない。
鈴は、震える手で、長く伸びた前髪を掴んだ。
そして、意を決して、ハサミを入れる。
ザク、という乾いた音と共に、床にぱらぱらと髪束が落ちていった。
少しだけ短くなった前髪の隙間から、これまで隠れていた自分の瞳が、まっすぐに鏡の中の自分を見つめ返していた。
***
ライブ当日。下北沢SHELTERの、薄暗い地下へと続く階段の前で、四人は合流した。
「……鈴ちゃん、髪……」
冬馬が、驚いたように声を上げる。
短くなった前髪から覗く鈴の瞳は、まだ少し不安げだったが、以前のような怯えはなかった。蛯名は、何も言わずに「似合ってるぞ」というように、優しく頷いた。
小鳥は、ただじっと鈴の顔を一瞥すると、「行くぞ」とだけ言って、ライブハウスの重い扉を開けた。
楽屋は、タバコと汗と、独特の埃っぽい匂いがした。いくつかのバンドが機材を広げ、談笑したり、ストレッチをしたりしている。その中に、見知った顔があった。
小鳥が以前組んでいたバンド、『METAL THUNDERS』の元メンバーたちだった。
「……よう、小鳥。まだこんなことやってたのか」
元ギタリストが、嘲笑うような目で話しかけてくる。「また素人集めて、お山の大将ごっこか? お前の独裁には、誰もついていけねえって、まだ分かんねえのかよ」
小鳥は、何も言い返さず、ただ冷たい目で彼らを睨みつけていた。その肩を、蛯名がポンと叩く。
「行くぞ。準備だ」
やがて、出番が来た。
フロアの照明が落ち、鈴がV-Bassで作り出した、雨音のようなSEが流れ始める。
SoundCrowd、初めてのステージだった。
客席の最前列で、元メンバーたちが腕を組んで、値踏みするようにステージを見ている。
一曲目は、『硝子壁のノイズ』。
静かなイントロから、サビで全ての楽器が爆発する。小鳥のシャウト、冬馬と小鳥のギターバトル、そして鈴の変幻自在のベース。その、絶望と希望が渦巻く圧倒的な音の塊に、フロアの空気が一変した。観客は、ただ息を呑んでステージに釘付けになっている。
ブリッジで小鳥がデスボイスを轟かせた瞬間、客席から、畏怖にも似たどよめきが起こった。
間髪入れずに、蛯名のカウントから二曲目、『星の輝きのベロシティ』へ。
BPM200を超えるブラストビートと、冬馬と小鳥が奏でるツインギターの美しいハーモニーが、フロアを熱狂の渦に叩き込む。拳を突き上げ、頭を振る観客たち。
そして、熱狂が最高潮に達した中で、唐突に演奏が止まる。
静寂の中、冬馬の弾く、あまりにも悲しく美しいアルペジオが響き渡った。
三曲目、『砕けた鏡のセレナーデ』。
激しい曲が続くと予想していた観客は、その意表を突く選曲に、再びステージへと意識を集中させる。小鳥の、全てを洗い流すような、透き通るクリーンボイス。
鈴が、自分と小鳥の関係を綴ったその歌詞は、まだ誰も知らない、二人だけの秘密。だが、その痛切なメロディは、全ての観客の心を締め付けた。
アウトロの、一本のクリーンなギターの音が静かに消えていくと、フロアは完全な静寂に包まれた。
一瞬の後、割れんばかりの拍手と歓声が、SHELTERの壁を揺らした。
客席で、元メンバーたちは呆然と立ち尽くしていた。
悔しさ、嫉妬、そして、決して自分たちではたどり着けなかった、圧倒的な才能への敗北感。彼らは、もう小鳥に声をかけることなどできなかった。
小鳥は、そんな彼らを一瞥することもなく、静かにステージを後にした。
***
興奮冷めやらぬ楽屋。
「……最高だったぜ、お前ら」
蛯名が、心からの笑顔で言った。
そこに、ライブハウスの店長が駆け込んでくる。
「君たち、凄いな! 次、うちの企画に出ないか!? もっと良い時間帯を用意するから!」
名刺を渡され、メンバーは顔を見合わせる。
成功だ。
初めてのライブは、文句なしの成功だった。
小鳥が、おもむろに鈴の頭に手を置いた。そして、短くなった前髪を、少しだけ乱暴に、だけど、どこか優しく撫でた。
「……いい顔、してんじゃんか」
その言葉に、鈴は、今日初めて、はっきりと顔を上げて、はにかむように笑った。
SoundCrowdの、本当の物語が、今、始まった。