第十章:血と汗とマクドナルド
『SoundCrowd』が結成されてからの一ヶ月、彼らの生活はスタジオ練習を中心に回り始めた。
場所は蛯名の行きつけだという、柏の少し外れにあるリハーサルスタジオ。学校やバイトが終わると、四人はそこに集まり、夜遅くまで音を鳴らし続けた。
その日も、練習を終えて近所のマクドナルドで作戦会議をしていた時だった。
鈴が、珍しく自分から、おずおずと口を開いた。
「……あの、蛯名さん」
突然、名前を呼ばれた蛯名は、少し驚いたように鈴を見た。
「ん? どうした、鈴ちゃん」
鈴は、俯いたまま、自分の携帯電話の画面をテーブルの上に置いた。そこには、彼女が以前書いた、古い英詞が表示されていた。
「この詞……前に、小鳥さんが曲を付けてくれたんですけど……アコースティックの、バラードなんです」
それは、二人が出会うきっかけになった、あの『砕けた鏡のセレナーデ』だった。
「小鳥さんの曲も、声も、すごく綺麗で……宝物なんですけど……」
鈴は、一度言葉を切ると、意を決したように続けた。
「もし……もし、この曲をバンドでやるなら……蛯名さんなら、どんなアレンジにしますか? その……ドラムとか、ベースとか……」
それは、鈴が初めて、小鳥以外のメンバーに音楽的な意見を求めた瞬間だった。
小鳥は、何も言わず、ポテトを齧りながら興味深そうにそのやり取りを見ている。冬馬は、固唾を呑んで鈴の言葉に耳を傾けていた。
蛯名は、鈴が見せた歌詞をじっくりと読み込むと、プロのスタジオミュージシャンの顔になった。
「なるほどな。いい詞だ。……バラードか。今の俺たちにはないタイプの曲だな」
彼は、ナプキンの裏にペンで五線譜を走り書きしながら、アイデアを口に出し始める。
「元がアコースティックなら、バンドでも静かなパートは活かしたいな。Aメロはリムショット中心で、ベースはルート弾きでシンプルに。サビで一気に景色が広がる感じがいい。冬馬のギターは、アルペジオ主体で、ディレイを深めにかけると綺麗だろうな」
その言葉に、鈴の目が、前髪の奥でキラキラと輝き始めた。自分の頭の中にしかなかった漠然としたイメージが、プロの言葉によって、みるみるうちに具体的な「設計図」に変わっていく。
「……すごいです」
鈴は、感嘆の息を漏らした。
「あの……お願い、できますか? この曲のアレンジ、蛯名さんに……」
その、か細いが、はっきりとした「お願い」に、蛯名は満足そうに笑った。
「任せとけ。次のスタジオまでに、最高の譜面、作ってきてやるよ」
そのやり取りは、SoundCrowdが、もはや小鳥のワンマンバンドではなく、四人の才能がぶつかり合う、本物の「バンド」になったことを示す、確かな一歩だった。
***
新曲の制作プロセスは、この一件でさらに加速した。
鈴が送ってくる詞に、まず蛯名がドラムとコード進行の土台を作り、そこに小鳥が衝動のままにリフとメロディを乗せる。その荒削りな音源を元に、スタジオで全員がアイデアをぶつけ合い、冬馬がギターで彩りを加えていく。
彼らは、猛烈な勢いで曲を量産していった。
そして、ある日の練習後。蛯名が、一枚のフライヤーをテーブルの上に置いた。
「お前ら、初ライブ、決まったぞ」
そこに書かれていたのは、下北沢の老舗ライブハウス『SHELTER』の名前。
そして、約三週間後の日付。
それは、いくつかのバンドが共演する、対バン形式のイベントだった。
「俺の知り合いに頼んで、新人枠でねじ込んでもらった。持ち時間は30分。3曲が限界だな」
蛯名は、淡々と告げる。「対バン相手は、最近ちょっと名前が売れてきてるやつらだ。……しくじるなよ」
彼らの武器は3曲。
バンド結成のきっかけとなったアンセム『硝子壁のノイズ』。
蛯名がアレンジを手がける、唯一のバラード『砕けた鏡のセレナーデ』。
そして、マックでの会話から生まれた、BPM200超えの高速チューン『星の輝きのベロシティ』。
残された時間は、三週間。
フライヤーを見つめる四人の顔には、喜びよりも、プロの世界へ足を踏み入れる覚悟と、武者震いにも似た緊張の色が浮かんでいた。
SoundCrowdの、最初の戦いが始まろうとしていた。