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たった一つだけついた嘘

 苦手な夏が終わってあっという間に秋が過ぎて、そして長い冬がやって来る。

 それでも今は秋の終わり頃で昼は日向にいればそこまで寒くない。でも夕方はもう十分寒くて僕はもうマフラーを持ってきてしまっている。

 夏が苦手だからといって冬が得意という訳ではない。でも僕は冬という季節が好きだった。


「斉藤また明日なー」

「うん、またね」


 一日の授業が終わりクラスメイト達が部活に行く頃僕はそのまま教室に残って本を読んでいた。今日も人がいなくなるまで本を読んで適当なところで図書室に行こう。

 文化祭以降僕には友人が増えたけれど日々のルーティーンはほとんど何も変わらない。相変わらず家族との親密な会話も苦手だし、騒がしいのもやっぱり苦手だ。だけど友人が増えるだけで学校生活は何倍も楽しくなったなと、少し本から意識を逸らしてふと思う。

 窓の外には帰宅する人や部活動に励む人が見える。その中に親密な距離で帰路に着く二人組を見つけて僕は目を細めた。


 ──羨ましい?


 自分が頭の中で問いかけてきた気がした。


「…わかんない」


 仲睦まじく帰路に着く男女の姿を見て思い出すのはやっぱり桐生の事なんだ。

 僕が同性愛者だってバレた以上もうきっと桐生と関わりを持つ事は無いし、それを狙って告白した所だってある。だからこれは僕が望んだ日常の筈なのに、ふとした拍子に思い出してしまう自分の情けなさに小さく息を吐いた。

 カタン、と誰かがまだ教室にいる音がして思わず肩を跳ねさせる。もしかして独り言を聞かれてしまったかもしれないと羞恥を覚えつつ、本を読むふりをして人の姿を確認しようとして、ぎゅっと心臓が縮こまった。


「………」


 疑いようが無いほどしっかりと目が合った。体感にして数十秒、でも実際はきっと3秒にも満たない時間。その沈黙に耐えられなくなったのは僕だった。


「……なに…?」

「…その」


 窓際の僕の席と廊下側の桐生の席の間には机が4列もある。

 二人で話すにはあまりに遠い距離だけど、僕はこれ以上近付けない。それは多分桐生も同じなんだと思う。だって僕よりもずっと「気まずいです」って空気を醸し出しているから。それなのに絶対に目を逸らさない姿勢に僕は少したじろいだ。


「話し掛けていい…?」

「…ぇ?」

「、だから、俺も玉田達みたいに話し掛けていいのかって聞いてるんだけど」

「…なんで?」


 純粋な疑問がそのまま口に出た。すると桐生は徐に立ち上がってずんずんと僕の方に歩いてくる。全然状況が掴めなくて硬直している僕の前の前で桐生が立ち止まって見下ろしてくる。常に上がっているはずの口角が今は下がっているし、眉尻も少し下がっている。

 怒っているというには随分寂しげな顔に僕はますます意味がわからなくなった。


「仲良くなりたいから、じゃ、だめなの」

「…えぇ…?」

「そんな嫌そうな顔しないで」

「いや、その、嫌っていうか…本当に意味がわからないんだけど」


 意味が分からないという思考は混乱という精神状態に変わる。この男は何を言っているんだろう、どんな意図があるんだろう。混乱を極める頭の中でただ一つ明確にわかっているのは、僕をその混乱に叩き落とした張本人が今にも死にそうな顔をしているという事だ。


 絶対に精神的にキツいのは僕の筈なのに、その僕を差し置いてそんな顔をされたんじゃおちおちと混乱していられない。自分を落ち着ける為に視線を下げて深く長く息を吐くとまた顔を上げて桐生を見た。


「…僕が桐生に言ったこと覚えてないの?」

「…覚えてる」

「桐生ならわかると思うけど、僕ああいうの冗談じゃ言わないよ」


 今日は天気が良いから外の部活動の声が良く聞こえる。その賑やかさとは対照的に僕たちの間には緊張が張り詰めていた。


「僕はゲイだよ」


 ナイフを突き立てるような心地で声に出すと桐生がほんの少し動揺したのがわかった。

 それに安堵している自分と、酷く傷付いている自分がいる。


「気持ち悪いでしょ。だから」

「そんな事思ってない!」


 大きな声と一緒に両肩を掴まれて目を丸くした。


「あ、ごめん」


 ぱっと手が離れて、桐生が自分を落ち着かせるみたいに息を吐きながら僕の隣の席に座った。ほんの少しだけ距離が出来て、その分僕も息がしやすくなった。


「雪穂の事、気持ち悪いなんて思った事ない。告白してくれた時も、そんなの思ってなかったよ。……驚きはしたけど」

「まあ普通は無いだろうからね。同性から告白されるなんて」


 また沈黙が落ちる。

 桐生はずっと難しそうな顔をしている。まるで必死に言葉を探している様に見える、そんな顔だ。その姿を見て僕はやっぱり分からなくなる。

 この時間は僕たちにとって苦痛以外の何ものでも無い筈で、生産性だってない。もう互いに何も無かった事にして良い状態の筈なのに、どうして桐生は蒸し返そうとするんだろうか。


「…俺の趣味というか、性癖だって普通じゃないじゃん」


 長い沈黙の果て、紡がれた言葉に僕はゆっくりと一度瞬きした。


「むしろバレた時ヤバいのはどう考えたって俺の性癖の方じゃん。雪穂のは諸々置いといてメジャーだし、ネットで少し検索すれば当事者の人だって結構出て来る。だけど俺のはもう、なんていうかアングラにも程があるじゃん。だけど、雪穂は俺に気持ち悪いなんて言わなかったでしょ」


 もう随分昔に思えるけど、まだ半年にも満たないくらい前の事。初めて桐生から女装の事を言われた時、僕は何を考えただろうか。もちろん驚いたし、興奮した桐生の顔が怖くて引いた。でも僕を見てほんの少し揺れた顔を良く覚えてる。その時湧いた感情だってもちろん覚えている。


「…自分を否定されるのは、つらいから」


 気持ち悪いとは思わなかった。だけど理解は出来なかった。でも僕はその状態でシャッターを下ろされる悲しさを知っているから。


「だから嘘ついたんだよ」


 桐生が真っ直ぐに僕を見てる。綺麗に澄んだ水みたいな目だ。


「僕、女装に興味なんてないよ」

「うん」

「だって僕は男で、このままの僕で生きていかないといけないから」

「うん」

「女の子だったら普通になれたのになって思って苦しかったよ」

「…うん」

「だから桐生にキスされた時、嬉しかったけど消えたくなるくらい悲しかった」


 僕にとっては一生に一度の奇跡みたいな出来事の連続だった。でもそれは全部桐生の好奇心だけで構成されていたもので、そこに僕の望む夢物語みたいな感情は伴っていない。

 そのギャップが苦しくて、求めてはいけない人にその先を求めてしまいそうになるのが辛くてしょうがなかった。


「かなしかったよ」


 男が二人膝を突き合わせて話す構図はきっとどこにでもある普通の景色。

 だけど僕の目の前にいるのは何をどうやって忘れられそうにない好きな人だ。この感情一つあるだけでこの景色は普通から異常に変わる。それくらい僕のこの感情は忌避されるものだ。僕の中ではそうなんだ。


 だけど今の僕はどうにも『普通』になれないみたいだ。

 鼻の奥が痛くて目の奥が熱い。視界がぐにゃりと滲んでたった一回瞬きをしただけで雨粒みたいな涙が頬を滑り落ちた。


「すごく、かなしかった…っ」

「ごめん」


 すぐ側で声が聞こえた。体があたたかいものに包まれている。僕はこの温度を知っている。


「…ごめん」


 桐生は僕を抱きしめたままもう一度そう言った。


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