文化祭準備その2の裏
雪穂が体育館裏にまで来るルートはいくつかある。その選択肢を間違ったらもう捕まえられない。それなら確実に通る場所で待てば良いんじゃないかと判断して俺は体育館裏近くの空き教室に入った。
普段あまり使用されない教室のカーテンは閉め切られていて埃っぽい。今まで感じた事のない衝動を抑える為に何度も呼吸を繰り返しながら適当に座る。その間もスマホは震えていて多分文化祭関連の連絡が流れているんだろうなと思った。一応確認しないといけないけれど、もしそこに雪穂に対する反応があったらと思うと想像しただけで苛ついてしょうがない。
奥歯を噛み締めて爪が食い込むくらいに強く拳を握る。
気持ち悪くなるくらいの苛立ちに頭のどこか冷静な部分が違和感を察知する。いくら自分が一番に見つけたものだからってこんなにも苛つく物なんだろうか。自分の子供の頃はどうだっただろうか、お気に入りのおもちゃを取られた時こんな気分だっただろうか。そう思った所で子供の頃の自分と今の自分では捉え方がまるで違うんだから比較対象にならないと思考を放棄する。
苛立ちも何もかも全部吐き出す様に息を吐くけれど胸の中のヘドロみたいな塊は抜けてくれない。こんなにも自分の感情が制御できないなんて初めてでぐしゃりと前髪を掴んだ所で誰かが廊下を歩く音がした。
その瞬間俺の意識はそっちに集中して、音を立てないように扉に向かう。まるで試合中のような緊張感が全身を包んでいて、その時を今か今かと待ち侘びた。そしてその人が扉を横切る瞬間、学校ではあり得ないシルエットを確認したと同時に俺は手を伸ばした。
掴んだ腕は着物のせいで普段より質量がある筈なのにそれでも細く感じた。完全な不意打ちとはいえ簡単に引き寄せることの出来る軽さに苛立った。夢中で掻き抱いて、扉を閉めて自分と雪穂の境界を0にする。
「…きりゅう…?」
何より心地いい香りと、久しぶりに自分に向けられた雪穂の声が嬉しくてもっと強く抱きしめた。そのまま座り込むと俺は雪穂の首筋に顔を寄せる。顔も見せていないのに俺だってわかってくれるのが嬉しくて、確かに腕の中に雪穂がいるってわかるとどうしようもないくらい安心してそれまで俺の中にあった嫌な感情が流れて行く様な気さえした。
そうだ、この状況なら仲直りだって出来るかもしれない。どうして雪穂があの日泣いたのか理由を聞いて、俺に悪いところがあれば直せばいい。そうしたら元に戻れるし、俺ももうこんなに苛つかなくて済む。名案だと思った。
だけど雪穂は俺を苛つかせる天才なんだ。
「…委員長のとこ、行かないといけないから」
浮上していた気分が一気にマイナスにまで下がる。そのセリフに続く言葉はあまりに想像しやすくて、どうしても言わせたくなくて俺は噛み付くみたいにキスをした。驚いているのがわかる。どうにか抵抗しようとしているのもわかったけど、雪穂は絶対に力で俺に勝てない。
逃げられない様に顎を掴んで細い腰を引き寄せる。一度口を離して少し雪穂の体から力が抜けたのを感じてまた塞ぐ。いつもと違う香りが僅かにするのはきっとメイクのせいで、でもその香りも雪穂の体温が上がるといつもの匂いに上書きされる。
柔らかな唇を割って、もっと奥へと熱を捩じ込んだ。雪穂の体が震えて、鼻にかかった甘えている様な声にもならない吐息が鼓膜を震わせる。
女よりも低くて男の声だってわかるのに、でも何物よりも興奮する。
俺のものだって、なんの疑いもなく思った。
だけど雪穂はそうじゃない。理由も明かさずに俺から離れていった上に他の奴らに触らせて、写真まで撮らせた。そして何より本当に俺しか知らなかったかわいさを他のやつらになんの抵抗もなく見せびらかした。
この意識の違いがどうしようもなく苦しい。だってこんなに可愛い姿は俺だけの物だったのに、どうして。
「そんなかわいい格好、俺以外の前でしないでよ」
早く「わかった」って言って欲しかった。だって雪穂は押しに弱いし、優しいから、きっと俺がこう言えばまた拗ねたみたいな顔して前みたいに戻ってくれるって思ってた。
「桐生は僕をどうしたいの」
冷水を頭の上から掛けられた気がした。氷みたいな、俺の聞いた事のない声だった。
どうしたい…? 言われた言葉の意味がわからなくて顔を上げるとそこには声と同じくらい冷たい目をした雪穂がいた。そこに夏祭りの時やそれから少しの間触れ合った時みたいな甘い熱はなくて俺はそこでようやく焦燥感に駆られた。
でもまたあの時みたいに俺の喉は張り付いたみたいに声が出なくて、初めて雪穂を認識した時の意思の強い声と怒りに震える目が俺を貫いた。
「僕はお前のオモチャじゃない」
どん、と強く胸を押された。
するりと雪穂は俺の腕の中から抜け出した。扉が開く音と雪穂が去っていく足音が聞こえる。俺はただ呆然と雪穂が出ていった扉を見ることしか出来なかった。
怒らせた、そして全身で拒絶された。それまで感じていた苛つきなんてもう微塵も残っていなかった。あるのは激しい喪失感と、またやってしまったという後悔。雪穂の「オモチャじゃない」その声が頭の中をリフレインする。
「……」
おもちゃじゃない、なんてどの口が言えたんだろう。俺は確かにそう思っていた。お気に入りのおもちゃが人に見つかったのが気に入らない感じなんだろうって自分を納得させていたし、それ以外に感情の選択が無かった。
だけど実際に雪穂の口から言われると自分でも信じられない程心が傷付いているのがわかる。許されるなら追い縋って、謝って、許して欲しいとまで思った時、過去の自分を思い出して俺は目を見開いた。
(「ねえ待って! ごめんなさい、謝るから! 謝るから別れるなんて言わないでよぉ!」)
かつて恋愛関係だった女が浮気か何かして面倒臭いと思って振った時だ。女は泣き喚きながら俺に縋って来て、それが心底面倒臭かった。
けど俺の今の状況は、多分その女と酷似している。
繋ぎ止めたくてこっちを見て欲しくて必死になっている。
ああでも、それじゃまるで田中が言った通りじゃないか。
「…俺、雪穂の事好きなの…?」
大罪を犯している様な、そんな気分だった。




