文化祭準備その2
メイクが終わるとようやく眼鏡を返して貰えたがそれを掛けると楠木さんのご満悦だった表情が不満げな物に変わる。
「…ねー雪ぴコンタクトにしなよ。もしくはお洒落眼鏡にしよ」
「……か、考えとく」
いつもは前髪がチラつく視界だが今日は何ともクリアだ。その理由は至って簡単で楠木さんが僕の前髪をまとめて止めているから。視界に遮るものが無いのは不安だが今回ばかりはしょうがないと腹を括る。
「はいメイク終わった男子から着替えー! 服飾の人に聞きながら着替えてねー!」
クラス委員がパンパンと手を叩きながら的確に指示を出して来る。まだ本番でも何でも無いのにテキパキとみんなに指示を出す姿は素直にすごいと思えた。
「斉藤くん入りまーす!」
「よ、よろしくお願いします」
「うんよろしく。じゃあ早速着て行こうか、脱いでー!」
「ぇ、わ、じ、自分でぬぐから!」
団結した女子ほど怖いものはないと、僕はその時初めて知った。
服飾部に所属している女子達はどちらかといえば僕寄りのあまり目立たない人が多いのに、この強引さは何なんだ。あっという間に服を脱がされてあれよあれよと言う間に服を着せられる。どうやらコンセプトは大正時代のようで、着せられた服装は何だか歴史の教科書で見たことがあるものだった。
「…え、すご…」
「でしょう! 男子が着る想定で考えた時骨格が目立たない代表格の服といえばやっぱり和服。でも本当の和服にしちゃうと歩くのが大変だと考えて下は袴! 靴はブーツでも対応可能だし何より可愛い。斉藤君ともう何人かは問題無く着こなせると思うけど、問題は運動部…」
「あー…、胸板とかすごいよね」
「パッツンパッツンになったらどうしよう…!」
どうやら僕の服はサイズも色も問題無かったらしくすぐに解放された。服飾部の彼女達は僕の後に控えている筋肉の鎧をまとった男達を想定して目に闘志を宿していて、これって戦いだったっけって思いながらもう一回楠木さんのところに戻ると彼女は彼女でまた新しい筋肉と戦っていた。
「いのうえ〜〜! エラどうにかしてー!」
「削れってか⁉」
「マジ男子スキンケアして! お願いだからして‼」
阿鼻叫喚というのはきっとこういう事をいうのだろうなと思った。
「あの、楠木さん」
「ええん雪ぴおかえ、かっわい!」
「……ありがとうございます」
自分よりも遥かに可愛らしい女子に可愛いと言われて喜ぶ男なんてこの世にいるんだろうか。居たとしても僕はその枠組みにまず入らない。僕は男だし、どちらかと言えば格好いいとか言われたい。…自分の見た目がどれだけそれと乖離していても思うのは自由だ。
「あはは、雪ぴって意外に表情豊かだよね。あ、ちょっと一回眼鏡外してー。そんで着物見せるみたいに腕伸ばしてー、はいストップ!」
言われるがままに腕を伸ばすとシャッター音が聞こえた。
「オッケー、じゃあこれグループに載せとくね」
「ぇ、」
事態を理解するよりも今教室にいる生徒全員のスマホが震える方が早かった。さすがギャル、行動の何もかもが早くて僕はもうお手上げ状態だった。
「既読やば。あ、雪ぴ今委員長外居るから一回確認させてだって」
「ん、わかった」
外していた眼鏡を掛けて頷くと教室から出た。まだ文化祭本番では無いけれど学校はずっとお祭りムードだし一人くらい僕みたいなやつが紛れても目立たない。だって昨日なんてどこかのクラスのやけにハイクオリティなゾンビが歩いてたし、それに比べたら僕達のクラスの個性はまだ優しいものだと思う。
「…体育館裏で作業してるんだっけ」
案の定どのクラスも文化祭一色になっていてどこもかしこも賑やかだ。その中でも聞こえてくる吹奏楽の音にそういえば文化祭で発表があるんだよな、なんて思いながら体育館への近道を選んで歩いて行く。
当然だが生徒達が集中する棟を抜けると辺りは静かになり異世界に迷い込んだのかなって思うくらい空気感が変わる。でも相変わらず吹奏楽の音は聞こえていて「あ、この曲知ってる」って思いながら歩いていれば体育館に続く廊下が見えてきた。あそこを抜ければもうすぐだなと、空き教室の前を通った時だった。
「!」
右腕を強く引かれて体が倒れる。気が付いたら扉が閉まる音が聞こえて、扉に押し付けられるみたいに何かが僕の身体を締め付けてる。あまりに強く驚きすぎると人は声も出ないらしい、頭が真っ白になって次には混乱が襲ってきたのも束の間、僕の嗅覚は忘れられない匂いを拾った。
それは夏祭りの後、家に帰って洗い流したものと同じ。
「……きりゅう…?」
ほとんど声になってない筈なのに僕を締め付けるそれにもっと力が入った。
ずるずると桐生の体から力が抜けて、それに合わせて僕も床に座り込む。空き教室のカーテンは閉まっていて電気も付いていないせいで薄暗い。僕は混乱していた。こうなっている理由がわからないからだ。でも混乱していても、否混乱しているからこそ僕の脳は必死に違う事を考えていた。
「…委員長のとこ、行かないといけないから」
はなして、その言葉は声にならなかった。
「んんっ!」
顎を掴まれて、後頭部がドアに当たった。すぐ側に桐生の顔がある、柔らかい物が触れている。それが何なのか、僕は知っている。
心臓が大きく跳ねて全身が一気に熱くなる。抵抗しようにも桐生の方がずっと力が強くて僕はただ胸を押すくらいしか出来ない。なんでこんな事になってるんだろう、どうして、何で、混乱し切った状態で僅かに桐生の口が離れる。
でもすぐにまた塞がって、今度はもっと深くなった。
誰もいない教室に耳を塞ぎたくなる音が響く。どれくらいそうしてたかわからないけど、唇が離れた時僕の息は上がっていたし体にはもう力が入らなかった。
「…なんで」
僕の肩に顔を埋めて今にも死にそうな声で桐生が囁く。
そう問いかけたいのは間違いなく僕であってお前じゃない。そう言いたいのに何だかもう喋る気力もなくてただ耳を傾ける。
「そんなかわいい格好、俺以外の前でしないでよ」
──…。
すとん、と誰の足跡もない雪原に雪玉が落ちた音がした。
腑に落ちる。それはもしかしたらこんな心地なのかもしれない。
「…桐生は、僕をどうしたいの」
思ったよりも平坦で温度の無い冷たい声が出た。意識が自分でも異常だって思う程クリアで心は凪いでいる。少し前の僕なら桐生のこの言葉に舞い上がっただろうけど、でももうそうじゃない。
「僕は」
凪いでいるけど腹の奥から沸々と小さな気泡が上がって来る感覚がする。
桐生が顔を上げた。迷子の子供みたいに揺れている目をしているけれど、そんなの僕には関係無い。──ああそうか、僕は怒っているんだ。
良い様に扱われている事に、桐生の態度に、それを今までよしとしていた自分に、僕は怒っている。
「僕はお前のオモチャじゃない」
思い切り腕を突っぱねると意外な程簡単に身体が離れた。すぐに立ち上がって扉を開けて外に出る。
後ろを振り返る事はもうしなかった。




