知らない感情
日誌事件から俺と斉藤雪穂はたまに挨拶を交わす仲になった。
そう、挨拶を交わす仲。つまり知人である。
本当はもっと仲良くなりたいと思っていたのだが俺は自分の欲望に従う前にブレーキを掛けた。じっくり考えなくても彼は俺との接触を嫌がる事は確定しているからだ。
斉藤雪穂は目立つ事を嫌悪さえしている節があるし騒がしい物や事が嫌いだ。その証拠に休み時間の度に馬鹿騒ぎする連中に対して冷ややかな視線を向けていた事は一度や二度では無いし、昼休みなんかは一人でそそくさとどこかへと向かっている。
自慢ではないが俺は目立つ、そして俺は多分話題の中心になり得る。そんな俺が斉藤雪穂に積極的に話し掛けたらどうなるのかなんて想像に難くない。
つまり俺は話し掛けたくても話し掛けられないのだ。
一応あの日誌事件の後ちゃんとお礼を伝えたが、あの時見せてくれた微かな笑顔は無く寧ろ「なんでお前話し掛けてくるんだよ」とどんな水面より凪いでいる目が如実に語ってくれた。
斉藤雪穂の人生において桐生空という存在は邪魔なんだろうなとなんとなく察した瞬間だ。
だけど俺は彼を見るのをやめなかった。もうそれは意地とかそういうのじゃなくて日常で、日々彼が同じ空間にいてくれる事に安堵すら覚えていた。これって推し活みたいなもんなのかなって思っていた。
「…僕もああなりたい」
本当に偶然だった。
雨のせいで部活が早く終わって帰り支度を整えていたら教室に忘れ物をしたのがわかって友人達に「先帰って」そう言って人の気配がほとんどしない校舎に戻ると教室に彼がいた。頬杖をついて窓を見る後ろ姿はなんというか儚くて、頼りなくて、瞬きしたら消えてしまうんじゃないかってくらいで、そんな彼の雪みたいな声は驚くくらい俺によく届いた。
「斉藤好きなやついるの?」
斉藤雪穂の人生において桐生空という存在は邪魔になる。そう理解しているのに考えるよりも先に声を掛けてしまったのは説明の出来ない衝動に突き動かされたからだ。
見た事ない顔をしている彼の横を通り過ぎて窓に寄ると見えたのは元気が良くて素直で頑張り屋だと男子の中でもそれなりに人気のある女子と、その彼氏。他に人影はなく、つまり斉藤雪穂はこの二人を見てあの発言をした事になる。ほとんどカマ掛けみたいな言葉だったのに急に信憑性が出てきた事に胸の奥がざわついた。
「あの子の事好きだったの?」
「え、あ、ちが」
彼はわかりにくいようでわかりやすい。だからその言葉に嘘は感じられなかった。だとしたらあの呟きの意味が分からなくなる。だから俺はからかうつもりで問いかけた。
「じゃあもしかして男の方?」
その後の彼の顔はまさしく絶望と言っていいものだった。でもそんな顔をする意味が分からなくて、聞いた事がないくらい大きな声で否定された事にも驚いた。それと同時に少し興奮している自分もいた。
斉藤雪穂の感情が大きく揺れている。波紋ひとつない水面みたいな彼が、自分の言葉に動揺している事実にえも言われぬ快感を覚えた。そしてこの斉藤雪穂という人物をずっと観察してきた俺は、この時とんでもない賭けに出たんだ。
「…じゃあ、女の子になりたいってこと…⁉︎」
案の定、斉藤雪穂はまた俺の知らない顔をした。
だけど俺は知っている。
彼は押しに弱く、情に流されやすく、そしてやさしい性格だという事を。
「ああなりたいって事はさ、斉藤は女子の、女の子の格好に興味があるって事だよな…⁉︎ マジか、マジか、まさかこんなところに理解者がいるなんて…え、もしかして、違う…?」
わざとらしく哀しげな表情と声を出して、肩を掴む指から力を抜いた。
すると斉藤雪穂はハッとした顔で俺を見て、そして慌てて口を開く。
「違わないっ」
ほんの少し罪悪感はあった。だけどそれを遥かに上回る高揚が俺の全身を包んでいて浮かんだ言葉は「捕まえた」だった。例えばそれは子供の頃に見た大きなカブトムシだとか、鬼ごっこで逃げている子に追いついた感情に近いかもしれない。
だけどこの感情はそんな純粋な物に分類するにはドロドロしていて、でもどんなものよりも一等きれいだった。
なんて言いつつも女装した斉藤雪穂は控えめに言っても最高だった。あまりに最高過ぎて祈ったこともないのに神様に感謝したくらいには最高だった。あんな意味不明のゴリ押しで騙される彼が少し心配になるがこの件に関してはゴリ押しした自分を褒め称えたい。
それに無理矢理俺の人には言えない趣味に引き摺り込んだおかげか彼の新しい表情をたくさん知れて俺の心はとんでもなく満たされていた。
思った以上に細かった首とか、腰とか、手首とか、名前の通り白い肌だとか、そこらの女子より細いとか、そんな彼の親くらいしか知らない物を知れて俺の人生はその時最高に盛り上がっていた。
あと以外に口が悪かったり表情が豊かだったりするのも良い。学校の誰も知らない斉藤雪歩を知れているという優越感が俺を何よりも満たしていた。
雪穂と過ごす時間は俺にとってなくてはならない物になっていた。
だってきっと一生誰にも打ち明ける事なんて出来なかった筈の性癖をゴリ押ししているのに加えてずっと前から彼に着て欲しくて集めた服を本人に着て貰えて、更にはそれを撮影出来ている。メイクだってさせて貰えるようになったし、始まりはどうであれ雪穂が俺に懐いてくれているのはなんとなく肌で分かった。
その時も俺はこの感情がファン心理から来るものだって思ってた。アイドルからとんでもないファンサを貰っている人だとか、ホストに入れ込む女の子はこんな気持ちなのかも知れないなんて思った。
そして過去最高に待ち侘びて迎えた夏休み、夏祭り、俺の隣には最高に可愛い雪穂がいた。全世界に自慢したいくらい可愛い姿で、顔で、俺の隣を歩いていた。いっそのことSNSアカウントに本当に載せてやろうかなんて血迷った考えが浮かぶくらいその日の雪穂はかわいくて綺麗だった。
でもそうしなかったのは雪穂を独り占めしたかったからだ。だからお面も買って、運悪く田中と遭遇した時だって絶対に見せてやるかって抱き締めた。そんな行動する時点でおかしいのに、俺はきっと浮かれていた。
花火を見る雪穂があんまり綺麗で、見惚れて、気がついたらキスをしていた。
でも、雪穂なら許してくれると思った。
だって俺達は普通の関係じゃない。きっとお互いがお互いを一番に考えているってわかっていた。だから大丈夫だって思って、間違えた。
「──はなして」
梅雨の日の放課後と同じ声だった。
でも俺は泣いている雪穂を初めて見た。
雪穂のならどんな表情でも見たいって思った。怒ってる顔も困ってる顔も恥ずかしそうな顔も、俺が知らない表情なんて無ければ良いのにとすら思っていた。
だけどつらそうに、叫び出したいのを堪えてるみたいなその顔は、見たくないって思った。だからどうにかしたくて口を開けたのに喉が張り付いたみたいに声が出なくて、ドアが閉まる残酷な音を聞いてその時初めて理解した。
これはファン心理なんかじゃない。でも、俺はこの感情の名前を知らない。