鈍色の泡沫
「あゃ…………?」
夕暮れの教室に、アクルのウィスパーボイスがこだました。
机から上半身を起こして、寝惚け眼で周囲を見渡し小首を傾げる。
────学校?何で???
アクルはぼんやりとした頭を軽く捻る。……夢を、見てた?寝てたの?
学校に来た覚えは無いのだが……いや、帰る前に眠ってしまったのだろうか?
だとしたら、身投げするまでは随分とリアルな夢だったなとアクルは机から席を立つ。もう生徒の姿は見えない。
「…………」
ふぅ、と息を吐いて……アクルは窓から落陽の空を見上げた。
綺麗だと思う。今日という世界が終わる直前の赤き色。じきに、滲む蒼い霧が空を埋めつくし、黒く染まり、月や疎らな星々に火が灯るだろう。
この街なら多少は星も見れるが、田舎ならもっと見えるだろうか?
都会ならば、全然見えないのだろうか?
そんなどうでもいい事を考えながら、ふぅ、とまた小さな溜め息。
「……ッ」
次の瞬間、体が硬直した。眉が強張る。
教室の扉から。廊下の窓から自分を見る目。帰ったと思ったニヤニヤ嘲笑う生徒達の姿。
やめて、やめて……あたしが悪いのは解ってるから。産まれて来た、あたしが悪かったから。だから、ちゃんと明日になったらもう死ぬから。
アクルは両手で頭を抑え、踞り目を閉じる。フラッシュバックする記憶。蹴られたり、悪口を言われたり、殴られたり、水をかけられたりゴミ箱にいれられたりロッカーに閉じ込められたり靴を隠されたりされたりされたりされたりされたりされたりされたりされたりされたりされたりされたりされたり。
ギュッ……と目を閉じる。お前なんて産まれて来なければと、母が耳元で囁いた。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。
…………。もう嫌だ。誰も、誰も……あたしを必要としてくれない。愛して、くれない。辛い、苦しい、哀しい……。
薄目を開けて隣を見ると、母の憎悪の目。慌ててアクルは目を背けまた目を閉じる。耳に響くのは、生徒達のクスクスと笑う声と自分の心臓の音。
「……いやっ、だ……」
それでも、必死に生きて来た。懸命に生きていた。
明けない夜は無いとか、終わらないトンネルは無いとか、そんなどこぞで聞いたような下らない綺麗事を杖に歩いて来た。
誰も愛してくれないなら、せめて自分だけは自分を愛して生きていようと。でも、それも限界だ。綺麗事なんて、大した役に立たなかった。
そもそもトンネルに出口はあるの?撃たれた雨で病気にでもなったら、晴れても仕方無いよ。
そうやって生きてみて、気付けば自分すらも自分を嫌いになりそうになっていた。ほら、その証拠に母の後ろに、あたしがいる。
呆れる様な目で、あたしを見ている。だから、もうバイバイしなくっちゃ。
あたしがあたしを見捨てる前に……。
「おーい! 誰かいるのかー?」
「え?」
気付けば、雨降る森の中。目の前には、ハイエナ顔の巨大なライオン。大きな口を開けている。
嗚呼……獣に貪られてくたばるなんて、相応しい死に方だよ。
それはそうだろう。あたしみたいな奴が、楽に死ねる筈が無い。さぁ、終らせてよ。
もう、いいから。もう沢山だから。 だから……さぁ、殺して。あたしを殺して。
───もう、なにも、見たくないし聞きたくないよ。
「アンタ、とりあえずまだ死ぬな? 死のうとしてたのは知ってるけど、まだ死ぬな?
アンタが必要なんだって!」
ふと耳に響く、どこか間の抜けたハスキーボイス。
「え……?」
誰? とアクルは呟く。目をゆっくり開くと、優しく自分を包む黒い霧。
「あたしが、必要……?」
確かに、そう言った。確かに聞こえた。あたしには、ちゃんと届いた。空耳じゃない。嘘じゃあない。ちゃんと、ちゃんとそう聞いた。
気付けば、母も生徒の姿も無い。獣も死んでいる。
手には鈍い光りを放つ銀色の大剣。自分を隠せるくらい大きな、鍔の無い剣。
強く、強くアクルはその大剣の柄を握り締めた。
気付けば真っ暗な闇の中。それでも、この大剣はそれさえも斬り裂いてくれる気がした。
……ならば、進もうじゃあないか。あたしを必要としてくれるならば、あたしはそれに応えたいのだ。初めてのそれに、応えたいのだ。
この無価値な命に、やっと、意味が産まれるのなら───。