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恐ろしい獣を目の前に、アクルはゴクリと唾を呑み込む。
「食べるって……」
あたしを? という声は、アクルの小さな口からは発せられなかった。
怖かったのがひとつだが、コロコッタという猛獣がハイエナの様な口を目一杯に開き襲いかかって来たからだ。
「ひっ……!」
その白くギラギラ光る牙を見て、アクルは身を守ろうと反射的に両手を前に出して……その両手は、アクルの体の一部では無くなった。
「あっ……あぁっ!? あギィああァァあャやあぁァッ!!!?」
森の一部に響く、小柄な少女の絶叫。食われて噛み千切られた両手からは、壊れた水道管の様に血液が暴れまわる。
今までの人生で感じた事もない激痛。もはや現実感が無いくらい痛くて、その痛みは確かに現実のものであると突き付けられてしまう。
痛い、痛いとのたうちまわる中、アクルは何処か冷静に考える。
死に方が変わっただけだ。飛び降りから餓死。そして、獣に喰われて死亡に変更。
忙しないなぁ、と笑ってしまいそうになる自分がいた。自分の中にもう一人自分がいるかのようだった。
「おう、デンジャー………」
頭の中の声がぼやく。ああ、本当にもう一人(?)いるんだった。じゃあ、二人くらいいるのかなぁ、なんて事をもう一人の自分が言った気がした。もがき苦しむ、あたしを見ながら。
イタイ、いたい、痛い……朦朧とした意識のなかで──両手が泥を掴む感触。
「……え?」
確かにある両手の感覚。泥を掴む両の掌。
「あ……れ……?」
なんで?とアクルは思う。そういえば、もうまったく痛く無い。意識もハッキリとしていた。
ふとコロコッタの方を見ると、コロコッタはやや離れた所にいた。
数メートルくらい離れた所で、警戒したようにこちらを見ながら『何か』を咀嚼している。
「ひっ……!」
短い悲鳴をあげるアクル。咀嚼している『何か』が人間の両手であると気付いたからだ。
「あれ、アンタの両手だぜー」
頭の声が相変わらず軽い口調でそう告げる。
「アンタの両手が有るのは再生したから。コロちゃんがちょい離れた所で警戒してんのは、アンタが両手噛み千切られた際に、どさくさに紛れて蹴り飛ばしたから」
「……ッ」
アクルが疑問に思っている事を、先回りするように頭の声は告げる。再生? 蹴り飛ばした?
…………あたしが??
「ナイスキック……いや、Nice! キックだったぜアンタ!」
言い直す意味があったのかどーかは知らんが、頭の声が張り切った様な声色でそう言って、アクルはますます困惑した。
しばし此方を睨んでいたコロちゃん改めコロコッタだったが、ゆっくりと前足を前方に動かして近寄る。アクルは跳ねる様に起き上がる。
「あ……あぅ……」
何が起きているのかサッパリである。ただ、簡単に死ねないという事はなんとなく解った。
頭の声が、「致命傷くらっても大丈夫!もーまんたい! 小指だけになったって再生してみせるぜぃ!」 なんて事を愉快そうに言っているからだ。
当たり前だが、アクルはまったく愉快じゃない。
雨が激しさを増して体温を奪って行く。頭の中の声が、『だいじょうぶ』と『たいそうぶ』って似てるよな。とか言っていたがそんな事はどうでも良かった。
それは文字が似てるだけだろうが。
「う……ぁ……。」
アクルはよろよろしながら、おもむろに素人が見よう見まねでボクシングの構えしました! 的なファイティング・ポーズをとる。
獣から逃げられる自信が無いのと、獣に背を向けるのはよろしくないという事を、昔なんかで読んだ事を覚えていたからだ。
獣というのはあれでいて結構臆病だし、威嚇していれば逃げてくれるかもしれないという考えである。
「お? 中々に冷静な判断じゃあないか。パニクって背中見せながら逃げるんじゃあないかとヒヤヒヤしたぜ。襲ってー! 僕は獲物だよー! 抵抗する力なんかありませんよー! って言ってるよーなもんだからな、アレは。」
しかし……もっとマシな構えは出来ないのかと笑いつつも、頭の声は助言をする。
そういう頭の声こそ、もっとちゃんとした……空気を読んだアドバイスをするべきだろう。
「右手出してー。掌開いてー」
「……?」
アクルはおずおずと言われた通りにした。
「わっ……!?」
その刹那、右手が銀色に輝きアクルは短い悲鳴をあげた。
かと思えばその手には鍔の無い大きな剣。
銀色の輝きを放つ剣。それは、軽く地面に突き刺せばアクルくらいならすっぽりと隠れてしまえそうなくらい大きかった。
「どうだい、我のこいつは……凄く、大きいだろ?」
頭の声がそう言って、続ける。
「光り輝く不敗の剣――――そいつの名は『クラウ・ソラス』だ。」
そんな畜生なんざ一刀両断だぜ。オーバーキルだと頭の声は自信満々得意満面に告げる。多分、こいつ今めっちゃドヤ顔してる。姿が見えないのが惜しい。
コロコッタは、急に薄暗い森を照らす光りに驚いたのか、少し後退っていた。
「さぁーアンター! 反撃開始だー! やっちまいなアッ―――!」
テンション高い頭の声とは裏腹に、テンション低いアクルは少し大剣を軽く振ってみる。
実に軽い。自分の枯れ枝の様に細く弱々しい腕で。それも片手で軽々しく振り回せる重さに戸惑う。偽物なんじゃあないかこの剣と訝しげだ。
だが、偽物なら偽物で構わないとばかりにアクルは大剣を振りかぶり。
「わっ……わぁぁああぁあぁああぁあぁあ!!!」
大剣をがむしゃらに振り回しながら、コロコッタに向かって走り出す。
別に斬り殺したい訳では無い。威嚇である。
獣は臆病だし、実際にコロコッタは警戒してくれているらしい。
ならこうしたら、追っ払えるかもしれないという期待をもって。