プロローグ【下】
やがてアクルは、頂上の辺りにいた。海が見える、崖の上。後ろにはまだアスファルトの道が続いている。
思い出の場所。小学校を卒業した際に、記念にと母が車で連れて来てくれた場所。アクルにとって、数少ない楽しい記憶。
アクルの覚えている限りでは、一度も車に乗っていないはずなのにゴールド免許の母の運転は、それはもう素晴らしいものだったという。
どのくらい素晴らしかったのかというと、サイドブレーキをしたまましばらく車を走らせていた程である。
少し、辺りを見渡すと。キラキラとしたあの日が散らばっている気がした。それらを吸い込む様に、アクルは深呼吸をする。
少し冷たい空気を吸い込んで、吸い込んで、吸い込んで……。
「……ンッ、ケホッ、ケホッ、ケヘッ。」
苦しくなって、少しむせた。
誰も見てなくて良かったなぁ。なんて事を考えながら、アクルは周囲をまた見渡す。そこには思い出があった。確かに思い出があった。いつまでたっても思い出があった。それが何だか嬉しくて、アクルはまた笑う。
ああ、良いことだとアクルは思う。この決断をして良かったと。今日の自分は、よく笑うじゃあないか。
いつもと違って、こんなにも。夢ではなくここにいて、こんなにも真っ直ぐに笑えるのだ。自分はまだ、笑えたのだ。
それが本当に、本当に……。
「……あ?」
その大きな目から、ポタポタと雫が溢れた。
「あ、あれ……?」
どうしてだろう。なんだろうかこの感情は。嬉しいはずなのに。悦んでいるはずなのに、なんでだ?
ポロポロ涙が止まらないよ。停まらないよ。可笑しいな。
ふと、夕焼けの海と空をアクルは見た。橙と蒼が交わった、美しい景色に感動している。あの日と同じ色。
……世界は綺麗だと、アクルは思った。
そして。泣き顔のままで笑って、アクルは崖っぷちに立つ。そして両手を広げて体から力を抜いて目を閉じる。
「お母さん……今まで、ありがとう。ごめんなさい。さようなら。」
机の引き出しにいれておいた、遺書にかいてある言葉を述べて……小さな体が舞い上がる。その表情は、この美しい空模様さながらに晴れ晴れと、活き活きと生き生きと。
嗚呼、落ちる墜ちる堕ちる。世界が回る廻るまわる。
風の音だけがその耳に聴こえる。終わるんだなぁ、とアクルは暢気に考えていた。
これでいい。これで、良かったんだ……。
「……風、気持ち良い。」
――でもよ、ちょっと勿体無いだろそりは。――
「……え?」
突然聞こえた声に、アクルの思考が止まる。
そりはってなんだろう。それはって言いたかったのかな? なんて、どうでも良いことを考える自分がいた。
――捨てちゃうんならさ、有効活用した方がいいよな? うん、間違いないぜぃ。つーわけでちょいと我に付き合って貰うぞあんた。――
邪悪な雰囲気のハスキーボイス。女性の声。
周囲を見渡すと、色とりどりの景色はセピア色に。そしてアクルは、空中で止まっていた。
「……え? え??」
目の前にあるどす黒い、霧状の球体。どうやら、自分に話し掛けて来ているのは『これ』らしい。
――うん、いいな! よーし決まりだ決定だっ! そんなわけで……あなたと合体したい――
フュー……ジョン! なんていう妙にテンション高いハスキーボイスと共に、どす黒い霧状の球体はアクルにまとわりつく。
それを最後に、アクルの意識は途切れ――――。