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「それでリーリエ嬢、お話があるのですが……私と結婚していただけませんか?」
絵本から飛び出した王子様のような男性にそう言われて、動揺せずにやり過ごすにはどうしたらいいのだろう。
リーリエは無意識に空いているグラスを手に持ち、勢いよく煽るが、喉元に何も流れてはこないので生唾をごくりと飲み込んだ。
それでももう片方の手はしっかりとクラディスに掴まれたままだ。
グラスを持っているのと同じはずなのに血流量が明らかに違う。
冷や汗のような脂汗のような、何かが一気に噴出しているのでこれは本格的にまずい気がする。
一旦深呼吸をすると、周囲のざわめきがよく聞こえてきた。
動揺からか五感の一部をシャットダウンしていたらしい。
「あのクラディス様が……!!」「嘘……いやよ!!」「よりにもよってなぜリーリエ様なの?!」
より大きく聞こえる声は若い女性のもので、あまり良い内容ではない。
自然にリーリエとクラディスを中心に出来上がっていた人混みのクレーターの外からでもしっかりと耳に入ってくるその言葉の多くはリーリエに向けられた負の感情だ。
"リーリエ"であるという自覚があまりなくても、これは少し堪える。
思わず目を伏せたが、すぐに握られている手に力が込められたことで反射的に繋がれた先の人を見上げた。
「リーリエ嬢、ここは少々騒がしいね。
庭に出ようか。今だとジャスミンの花がちょうど見頃でーーー」
「このようなやり方は感心しませんよ。ヴェルエン公爵」
重く、下腹部に響くような低音に思わず胸がときめいてしまう。
一言で人混みがぱっくりと割れて、その声の主が倒れるように道を開けた。
ゆっくりと歩いてきたその人物は、顔はとても笑顔だ。
目は少し垂れ目がちでイケメンというよりはハンサムと表現したほうが適切だろう。
年齢は40代頃だろうが、これはこれで固定のファン層がいそうだなぁとぼんやりと眺めていた。
隣からは「……チッ」と、舌打ちのようなものが聞こえた気がしたが、それすら耳に入らないほどに見張れてしまっていた。
「これはこれはネフェル家当主であられるロデリック様。
大切な一人娘のリーリエ様に求婚するなら、まずはお父上からでしたね。大変失礼致しました」
クラディスの右手は先ほどからリーリエの手を掴んでいるため、左手で胸元を押さえながら軽く頭を下げた。
またもやクラディスがしっかり説明してくれるおかげで、目の前の人がリーリエの父なのだとわかった。
(ありがたい……クラディス様はこの世界のチュートリアルで出てきて説明してくれる妖精ポジなのかもしれない)
「……相変わらず白々しいな君は」
「お褒めに預かり光栄です」
「褒めていると考えられるその頭に敬意を表するよ。
そして、その薄汚れた手を今すぐ退けなさい」
お互いに笑顔で話しているけれど、何が面白いのかわからない。
何これ、公爵ジョークか何かなの?
リーリエはどんな顔をすれば良いか分からず、とりあえず笑顔を貼り付けることにした。
笑顔は万国共通言語だ。
ロデリックの眼光が一段と鋭くなると、やれやれと、クラディスがやっとリーリエの手を離してくれたので、やっと一安心だ。
「一人にさせてしまってすまないリーリエ、飲み物を取りに行く際に他の出席者から声をかけられてしまって。
怖かっただろう。さぁ、帰ろうか」
肩をロデリックに抱かれると、ひぇっ、っと小さく声が漏れてしまった。
今日着ているドレスは全体的には露出は控えめだが、肩の部分が一部出ている。
そこを直に触れられ、ロデリックは父なのだ。自分の父なのだと言い聞かすけれども胸の高鳴りは抑えられない。
「お待ちください。リーリエ嬢、これを」
言葉数は少ないものの、その声は先ほどまでの優しさはなく、はっきりと、それでいて有無を言わせない力を持った声に、びくりと肩を震わせてしまった。
思わず歩みをとめて、その声の主の方へと振り返る。
「夜は冷えます。どうかお使いください」
差し出されたものを一度受け取ってから気付いた。
手渡されたのは先ほどまでクラディスが着用していた上着だ。
「こ、こんな物お借りできません……!!」
「貸すのではありませんよ。リーリエ嬢が寒さから身を守られたらその服も本望です」
返す、受け取らないの押し問答の末、肩にふわりとかけられてしまえば恥ずかしさから、どうすることもできない。
クラディスはにこりと満足気だ。
こんな少女漫画みたいなシチュエーションで耐えられる人はそういないだろう。
「……ありがとう、ございます……」
「いえ。貴女が健やかに過ごしてくれることが私の喜びですよ。愛しい人」
クラディスはリーリエの右側の髪の毛を一房掴むと小さく口付けを落とした。
その自然な流れで何が起きたのかを理解するのに体感で1分はかかった。
(今日は乙女成分の過剰摂取だ……もう無理……)
リーリエの思考が4/5止まったところで、
「ところでリーリエ嬢、明日伺っても?」
もうとにかく家に帰らせてくれと、リーリエはコクコクと頷いた。