アスファルトと雪解雨
雨の音が屋根に触れるように部屋に響く。
「今日は、雨か」
ここ数日、残業続きで体が休まっている気がしない。鉛の体を起 こしカーテンを開けると、雨が降っていた。聴覚と視覚で雨を感じ た俺は、何かが頭の中を這いずり回っている感覚に陥った。その得 体の知れない何かが、分からないまま時計を見る。出張に出かける 三時間前だった。
「睡眠負債でも返しますか」
雨は好きだ。一定のリズムで響く雨の音が心地よく、底に落ちるかのように二度目の就寝をした。
「転校生を紹介するから、お前ら席に着けー」
担任の前川が朝から声を張る。前川は、うちの高校で国語を教えつつ、サッカー部の顧問をしている。サッカー部の顧問。これが大問題だ。俺は去年の冬休みから、人間関係を拗らせ、無断で部活を休むようになり、前川からの電話で 部活を辞める事を告げた。そんな、後ろめたさと気まずさで、心に ぽっかり穴が開いていた。こんな新学期は初めてだと思いながら、窓から揺れる桜の枝を眺めていた。
「じゃあ、音坂さんは、加藤のとなりで」
気まずい前川に名前を呼ばれて、視線を桜の枝から黒板に移す。 黒板には、音坂雨と書いてある。黒板の前は、肌が雪のように白 く、華奢なショートカットがよく似合う女の子が立っていた。その 子と目が合い、軽く会釈をした。
「加藤明です。よろしく」
「うん、よろしくね」
席に着くとお互いに挨拶を交わした。
その後、休み時間や授業中に色々な話をした。趣味の話、好きな 食べ物の話、好きなバンドの話、前の学校での話。意外にも気が合 い、話が尽きなかった。凍っていた時間が少しずつ溶けていくのを感じた。帰り道の方面が同じで、一緒に下校するのが二人の日常になりつつあった。
「明君は、雨が好き?」
「え、お前のこと?」
「違う。天気の話」
「あぁ。普通かな。可もなく不可もなくって感じ」
「私は、雨が好きだよ」
「名前の由来を話したっけ?」
「いや聞いたことないな」
「大雨の日に生まれたの。その日は、ここ数十年で一番の雨って言 われてて、車も走れないくらいだったらしい。でも私が生まれるか らってお父さんがお母さんを背負って病院まで行ったの、そこで無 事に生まれて、みんなに平等の優しい雨を降らしてほしいって想い があるんだって」
「なんか映画みたいだね」
「それに、雨の音ってなんか落ち着かない?」
「それは、すげーわかる」
「やっぱり俺も雨が好きかもしれないな」
「仲間が出来てうれしい」
こんな話をしながら帰るのが一番楽しかった。永遠に続けばいい と思っていた。けれど、そう強く望むほど手の平から零れ落ちる事を高二ながら知っていた。
六月になると、梅雨が始まり一週間近く雨が続いている。そしてそれと同時に、音坂は学校に来なくなった。
俺の中で日常が非日常になって、その非日常が日常になっていくのを感じた。その変移に抗おうとしたが、非力にも押しつぶされた。ただ、毎日、音坂の事を考えていた。どうして学校に来なくなったのか、今は何をしているのか。そんな事を考えていると、音坂がいた時の日常にいる錯覚がした。間違いなく恋をしていた。
大雨のなか、今日も一人で帰っていた。ゆっくりと確実に歩いて いた。しかしある公園の前で足が止まった。そこには、音坂がいた。
彼女は、傘を差さずに子供用のベンチに座っていた。その姿は、この世のものではないような感じがした。不思議と神秘的だった。 俺は耐えきれず彼女に近づいた。 「こんなところでなにしてるの?」
「あ......。久しぶり」
彼女は、驚いていた。しかし、どこかわざとらしい。傘を渡して話を続ける。
「どうして学校に来なくなったんだよ」
「ごめん。色々あって福岡の児童施設に行くことになったの」
心臓の音で傘を叩く雨の音が聞こえなくなった。怖くて詳しくは 聞けなかった。
「じゃあ......なおさら学校に来て話したかったよ」 「これ以上、一緒にいたら好きになっていた気がしていたから、辛 くて」
「なんだよ、それ......」
雨ではない温かい何かが頬に伝わるのを生々しく感じた。
「ごめん。今まで本当に楽しかった」 彼女は、傘を渡しどこかへ走っていった。その姿を目で追うこと
しか出来なかった。
それから雨の中をただひたすら、無心で歩いた。家に着くころに は、夜になっていた。雨は、すっかり止んでいて傘を差しているの は俺だけだった。
家の前のアスファルトから、全てを忘れさせるような、包容力の ある温かい匂いがした。俺は、今日の出来事を忘れないように、こ の匂いを身体全身で嗅いだ。いつかこの匂いが思い出として、リンクするように。
目が覚めると家を出る三十分前だった。気持ち急ぎ目で、出張の 準備をする。
「なんか、昔の夢を見た気がするなー」
深い睡眠だったのか、夢の内容を思い出せない。顔を洗い、歯を 磨き、飲みかけのコーヒーで記憶障害の薬を流し込む。もう昔の記 憶は、ほとんど覚えていない。その分、今を全力で生きることにし ている。
玄関を抜けると天気は、晴れていた。
「じゃあ、福岡への出張がんばりますか!」
家の前のアスファルトから、どこか懐かしい匂いがしていた。