第90話 葉野菜を切る音
――ちゃぷ……ちゃぷ、ちゃぷ……
キラキラとした陽光溢れる外の景色とは対照的に、神聖パルテニオス神殿の敷地内に建てられた東屋の中は、淫靡と言う言葉でしか形容のしがたい音色で満たされていた。
「どうだ、サロスも弟のタロスを見習ってそこに座れ。たまにはこういった趣向も良いものだぞ」
最近では乗馬での遠乗りもめっきり減って、移動の殆どは馬車か人の担ぐカゴとなってしまった。
その所為なのだろう。
鍛え上げられた腹筋は既に厚い脂肪の中へと埋もれてしまい、ティカップの持ち手にすら指が入らなくなる始末。
アゲロスは女性の頭に乗せていた右手を目の前へと掲げ、まるで不思議なモノでも観察するかの様に、ぼんやりとした目で見つめはじめた。
「まぁ美姫たちを喜ばすには、このぐらいの太さが丁度良いのだよ、色々とな。うむ……色々となぁ」
時折、脊髄を通して甘美な感覚が駆け登って来るには来るが、彼自身を満足させるには到底及ばない。
それでは何の為にこんな事を?
彼にとっての性交は、息を吸い、息を吐く。そんな自然な行為と何ら違いはないのだ。
なぜ息を吸うのか?
なぜ息を吐くのか?
……愚問である。
「そうだぞ兄者、残り物とは言え南国の女もなかなか、どうして、どうして。それにしてもあのカモサカ卿とやら言う男も堅物よなぁ。これだけの見目麗しい姫たちを前にして、アゲロス様の饗応を断るとはなぁ。ガハハハハ」
弟の下品な言葉など、完全に無視。
アゲロスの背後で直立不動。
目の前で繰り広げられる数々の痴態にすら、我関せずを貫き通すサロス。
そんな彼が、アゲロスの耳元へと静かに話し掛けた。
「アゲロス様は、いかがお感じになられましたか?」
「そうだなぁ……サロス。お前だったらどう見る?」
「はっ、あえて私の意見を申し上げるとするならば、取るに足らぬ男……かと存じます」
「取るに足らぬ男かぁ……」
「はい。野心も野望も私には感じられませんでした。そんな男は信用するに足りませぬ」
「ほっほっほ。サロスは上手い事を言う」
恐らくアゲロスも同じ意見だったのだろう。
人知れず、彼の左の口角がゆっくりと持ちあがって行く。
「信用は出来ぬ。信用は出来ぬし、信用するつもりも無いが……ヤツは我々に無いモノを持っている」
「我々に無いもの……とおっしゃいますと?」
「ふぅぅ……」
アゲロスは深い溜息とともに、先程まで掲げていた右手をもう一度自分の股間に顔を埋める女の頭へと戻した。
「……情報だ」
「情報……で御座いますか」
「あぁ、そうだ。この世で一番大切なモノ。そして、その重要性を理解せず、皆が蔑ろにしてしまうもの。それが情報だ」
「なるほど、御指摘の通りでございます。戦場においても情報は最優先に確保すべきものと心得ております」
「うむ。そうだな。流石はサロスだ。……時にサロス、お前はこの世にどれ程の人が居ると思うか?」
「人……でございますか」
いまだ、『全世界』と言う概念の乏しいこの時代において、全世界の人口を知る者が居る訳も無く。
現代日本で考えてみれば、銀河系にはいったいどれだけの人が居るのか? との問いに等しい質問であった。
「今だ南方大陸には未開の地も多く、その全てを把握する事は難しいかと存じますが、帝国を含む周辺国家の規模を勘案すれば、少なくとも一千万は下らないかと」
「うむ、そうだな。せいぜい、そんなものだろう」
「せいぜい……でございますか?」
少し訝し気な表情を浮かべるサロス。
主人が彼の回答に不満を持った……と言う事だろうか?
それとも、まさか本気で一千万と言う途方もない数字を、せいぜいと言う矮小な言葉で片付けようとでも言うのだろうか?
サロスにはアゲロスの真意が掴み切れない。
「あぁ、せいぜいだ」
そう言いながら、再びアゲロスの口角が上がり始める。
「そうだなぁ、サロスよ。もう一つ聞いてみよう。お前は神界にどれほどの人が居るか知っているか?」
「いいえ、存じ上げません」
「神界にはなぁ、七十億の人が居るそうだ」
――ピクッ!
アゲロスの股間で女の頭が微妙に揺れる。
「七十億でございますか。それはまた大きく出ましたなぁ」
「そうだな、物見の言葉は三掛け……と言う諺もある。初めて見る敵は強大に見えるものだからなぁ……ほっほっほ。仮に、本当の数字がその三分の一だとしよう。それでも、およそ二十億以上の人が居ると言う計算だ」
「二十億でございますかぁ……我らのおよそ二百倍。これでは、マロネイア軍だけでの占領は難しゅうございますな。早々に帝国の方も併呑する必要があるかと」
「ほほっ、帝国の併呑かぁ……」
アゲロスには分かっていた。
サロスがこの数字を眉唾な情報であると信じ切っている事を。
智は深く理に明るいサロスですら、この程度なのである。
この世界の全ての人間の認識は、推して知るべし……であった。
「いやいや兄者、なにを弱気なっ! 二百倍と言っても、しょせん司祭や司教などの青瓢簞ばかりであろう? 俺に任せろ。そんなヤツらの二百や三百、片手だけでも討ち取ってくれるわっ! ガハハハハ!」
「うむうむ。タロスは良いのぉ、良いよい。流石はタロスじゃ。その際にはワシの矛として、十二分な活躍を期待しておるぞ」
「ははっ、是非このタロスにお任せ……おぉっと、これはっ!」
豪快な言葉を急に呑み込んだかと思えば、今度はその熊の様な手で女の頭をガッシリと固定。
「うぐっ、ぶふぅっ! ぶふぅぅぅっ!!」
頭の両側を掴まれた女は身動きすら取れず、意味不明な呻き声を上げる事しか出来ない。しかし、タロスの方はそんな事など全くお構いなしだ。
「おぉっ……これは……これはっ!」
小刻みに痙攣してはいるものの、既に殆ど動かなくなった女の頭を、己が腕力で何度も何度も動かし続けるタロス。
やがて……。
「くうっ! ……ぷはぁ!」
虚脱したかの様に四肢を弛緩させると、タロスは椅子の背にぐったりともたれ掛かってしまった。
女の方は完全に気を失っているのであろう。
身動ぎ一つせず、いまだタロスの股間から顔を離すそぶりすら見受けられない。
「うぅぅむ。なかなかで御座いました。まぁ、性技としてはエレトリアに遠く及びませぬが、南国は南国なりの味わいと言うものがあり、これがまた、何とも言えませんなぁ」
「ほっほっほっ、タロスは意外にグルメじゃからのぉ。サロスと違って、良い舌を持っておる」
「ははっ、お褒めいただき、ありがとうございます」
「うむ、うむ。……さて、サロスよ」
突然、何事も無かったかの様に、サロスに向かって話しはじめるアゲロス。
先程までのまったりとしたムードは影を潜め、傍目から見てもビジネスモードに切り替わった様な印象を受ける。
サロスはそんな雰囲気を即座に理解。
主人の言葉を一言一句聞き漏らさぬ様にと、傾聴の構えを取った。
「カモサカ卿の事だが、しばらく様子を見るとしよう。何人か付けて、様子を探らせよ。万が一に備え、船の準備を怠るな。それから、街中に草を放て、使う事があるやも知れん」
「御意」
サロスは短い返事で命令の承諾を伝え、アゲロスの方はと言えば、深々とお辞儀をするサロスには目もくれず、いまだ股間に吸い付く女の髪を強引に掴むと、力任せにテーブルの横へと放り捨てた。
「キャッ!」
「おぉ、悪いわるい。痛かったか? 申し訳無いが、ちょっと急用を思い出したのでな。なかなかに良かったぞ。其方たちには褒美を取らそう。タロス、タロス!」
「はっ、ここに」
つい先ほどイッたばかりにもかかわらず、いつの間にやらその身には甲冑を纏い、右手には大ぶりの両手剣が握られていた。
「うむ。この者たちに褒美を取らせる」
「はっ、承知仕りました」
アゲロス自身は、新しく用意されていたトガを一気に纏うと、その足で東屋の外へと歩き出して行く。
日頃のゆったりとした優雅な身のこなしとは裏腹に、その本質はかなりセッカチな性質なのかもしれない。
「あぁ、タロスよ。一つ言い忘れておった」
「はっ」
「お前も楽しませてもらったのだ。苦しませぬ様に」
「御意」
陽光溢れる神聖パルテニオス神殿の敷地内に建てられた東屋。
――バシュ! バシュッ!! バシュ!
歩き始めたアゲロスの背後からは、大ナタにて丸まると肥えた葉野菜を切る様な音がたて続けに聞こえて来た。
当然ながらアゲロスの望み通り、女たちの悲鳴が彼の後を追って来る事もない。
「うむうむ。世は万事太平、問題無し……だな」




