第59話 セカンドヴァージン(前編)
「ご、ごめんなさい。急に押しかけちゃったりして」
少し俯き加減のまま、玄関先に佇む一人の少女。
軽く編み込んだ髪からは冷たい雫が滴り落ち、淡いパステルブルーのワンピースもすっかり濡れて、薄っすらと下着が透けて見える。
「いっ、いや! そそそ、それは構わないけど。そんな事より、びしょ濡れじゃないか。とっ、とりあえずこのタオルで頭を拭いて」
「う、うん。わかった」
僕は彼女から目を背けつつも、洗いざらしのタオルを手渡したんだ。
あっ……失敗したぁ。
あのタオルって適当に洗ってるヤツだし、何だったら室内干しの生乾き臭がするかもなぁ。
こんな事になるなら良い香りのする柔軟剤とか買っておくんだったな。
後悔先に立たずとはまさにこの事だ。
でもまぁ、高校生の一人暮らしで、出てきたタオルがフカフカのフローラルの香りって言うのもどうなんだ?
それはそれでドン引きするんじゃないかな?
うん。そうさ、そうだな。そうだよ。そうに違いない。
そんな事は誰も望んじゃいないさ。
ここは多少男っぽく。ワイルドな犾守くんで行く事にしよう。
って言うか、もうそれ以外に方法が無いしな。
「で、どうしたの? このままだと本当に風邪をひいちゃうから、とりあえず落ち着いたら家まで送るよ。あぁ、でも雨が降ってるからタクシー呼んだ方が……」
と言いかけたところで。
「たっ、武史お兄ちゃん!」
「え!? な、なに?」
彼女からの突然の呼びかけに、思わず『ビクッ』としてしまう。
何をビビってんだか。我ながら少々情けない。
「ちょっと……相談があって……」
「相談?」
何かよっぽど言い出しにくい事なんだろうか。
依然俯いたままの恰好で、今度はスカートの裾を持ち上げてモジモジし始める彼女。
「うん、そう……相談。相談だよ。えぇっと、武史お兄ちゃんと会って、もうすぐ一年になるよね」
「あぁ、うん。そうだな。もう、そのぐらいになるかな」
僕と飯田は小さい頃からの幼馴染と言う訳では無い。
僕のもともとの実家は神奈川にある。
今の学校へも通えない距離じゃないけど、どうしても一人暮らしがしてみたくって。
高校入学を切っ掛けに、父親に無理を言ってこの街で一人暮らしを始めさせてもらったんだ。
飯田の家族も、アイツが小学生の頃にこの近くの街へと引っ越して来たらしい。
だから、僕と飯田が出会ったのはこの学校に入ってからと言う事になる。
人見知りでヲタク気質の僕に対して、社交的で誰とでも仲良くなれる飯田。
そう言えば入学式の時に初めて声を掛けてくれたのも飯田だっけ。
その後、こんな僕にも表面的な友達は何人か出来はしたけど、互いの家に遊びに行ったり家族ぐるみの付き合い……と言っても、僕が一方的に飯田の家におじゃましてるだけなんだけど……をさせてもらっているのは飯田ぐらいだ。
「でね。ウチのお兄ちゃんからも言われてたんだ。もし何か困った事があったら、武史お兄ちゃんに相談しろって」
「おっ、おぉう。そうか、そう言う事か」
素直と言うか、真面目と言うか。
それとも『箱入り娘の世間知らず』と言った方が良いんだろうか?
いくら兄の友達で仲が良いとは言え、夜中に男性の家へ一人訪れるなんて、一般常識からかなり外れている様にも思える。
それはすなわち、兄である飯田の言葉は茜ちゃんにとって絶対で、一般常識を覆すに十分値する! って事の表れなのかもしれない。
それに僕自身、彼女から信頼してもらっているとなれば、それはそれで、もちろん悪い気はしないけども。
「でも……突然私なんかが来て、迷惑だよね」
「いやいや。親友の妹がわざわざ来てくれたのに、迷惑だなんて事があるもんか」
「うっ、うん。私……親友の妹……なんだよね」
「え? あ、あぁ……だよねぇ」
あれ? 少し表情が曇った様な。
僕、何か返答間違えたか?
「そう、その親友の妹からお願い事があるのっ!」
何かを振り払うかの様に、急に元気に話し始める茜ちゃん。
「おう、何でも言ってみな。この武史お兄ちゃんが何とかしてやるぞぉ!」
うん。ここは調子を合わせておこう。
もともと気さくで元気の絶えない良い娘なのだ。
何の相談かは分からないけど、まずは彼女のペースに合わせてあげた方が良いだろう。
って言うか、武史お兄ちゃんって言うのは、いつ聞いても何だか照れくさいよな。
何て言うんだろう。
こう、胸の奥が締め付けられるって言うかさ、口の奥深くが甘酸っぱい何かで満たされるって言うかさぁ。
僕は一人っ子だから、当然兄もいなけりゃ、妹もいない。
そう言う意味では、生まれてこの方『お兄ちゃん』って呼んでくれたのは、茜ちゃんただ一人だ。
しかも、この一年で成長したって言うか、成熟したって言うかさぁ。
もちろん、まだまだ子供らしさもある反面、身長も少し伸びたし、身に着ける物も急に大人びて……げへ、げへへへ。
「……お兄ちゃん、武史お兄ちゃん? どうしたの? 急に黙っちゃって?」
おおぉっふ!
イカン、遺憾。
ひとり妄想の世界に旅立つところだった。
「と、とりあえず部屋に入ってよ。いつも通り散らかってるけど、全然気にしないで。あぁ、それからネコ……そう、ネコを飼ったんだ。茜ちゃんはネコ、大丈夫?」
「え、うん。ネコちゃん全然平気。でも私が部屋に入ったら怒るかな?」
「あぁ、大丈夫だよ。とっても人懐っこいネコなんだ!」
『人懐っこいネコで悪かったな』
少し棘のある思念が……。
くっ、クロぉ、まぜっかえすなよ。
社交辞令だよ、社交辞令。 飯田の妹さんなんだぞ。
仲良くしてあげてくれよ。
『あぁ、別に構わんさ。私はお前の主人であるとは言え、この姿でいる時はどうやらお前のペットとしての位置付けらしいからなぁ』
クロぉぉ!
『ふっ。冗談だ、冗談。早く部屋の中に入れてやれ。濡れたままの娘をそんな玄関口に立たせておいては本当に風邪をひかせてしまうぞ。それから、その娘と交尾をするのであれば私は席を外すが、どうする? ただなぁこの雨模様の中、外に出るのは少々気が滅入る。せめて廊下に暖房を入れてだな……』
いやいやいや。
しないって、交尾なんてしないって!
『しかし、夜中に娘が訪ねてくると言う事は、そう言う事ではないのか? 確かこう言うのを夜這い……と言うのだろう?』
なんでそんな事知ってんの!?
って言うか、誰に聞いたのそんな話っ!
『あぁ香丸から聞いたぞ。それがこの国の文化だとも言っていたな。それに香丸はお前がなかなか夜這いに来てくれないと嘆いていたぞ、お前も文化を理解する男なら、たまには香丸の所にも行ってやれ』
もぉ! 香丸先輩ったら、クロに一体何を教えてるんだか。
……はっ!?
もしかしたらそれって、この前悪夢に行ってた時じゃなないの?
『ん? あぁ、そうだな。確かあの豪華な部屋にいた時だ』
もぉ、先輩ったらお酒が入ると、そっち方面のタガがすぐに外れちゃうんだよなぁ。
ヤバいなぁ。絶対に一人で飲みに行かせちゃ駄目な人だよね。
やっぱエロエロな先輩になるのは僕と一緒の時だけ……って、そんな話じゃないよ。いま問題なのはそんな話じゃないんだよっ!
『なんだタケシ。そんな話じゃなければ、一体どんな話なんだ?』
とにかく、茜ちゃんはそんな事する娘じゃないのっ!
もっと天真爛漫で純真で清廉で、潔白な娘なのっ!
そうなのっ! そう言うものなのっ!
『そうか? そう言うものなのか。ふぅん。まぁ、私にはそんな事どうだって良い。私はこちらの世界のしきたりには疎いからな。そこはお前に任せるとしよう』
もぉ、クロぉ……。
クロが変な事言うから、めちゃめちゃ意識しちゃうじゃんよぉ!
僕の想いとは裏腹に。
意識せずとも肥大化して行く邪な感情。
「どうしたの? 今日の武史お兄ちゃん、ちょっと変だよ?」
「はは……そっ、そう? はは、はははは……」
僕はそれを精一杯の作り笑いで覆い隠しながら、少し大人になった茜ちゃんを部屋の中へと招き入れる事にしたんだ。




