第58話 春の夜の雨
『どうした、タケシ。大丈夫か……』
クロの憂いのこもった思念が脳内に響く。
「……。あぁ、いや、何でもない。大丈夫、大丈夫さ」
一瞬の沈黙。
その後、僕はテーブルの上に置いてあったペットボトルを取り上げると、底に残った僅かな水を口の中へと一気に流し込んだのさ。
窓の外は夕方から降り出した雨が未だ地雨の様に降り続いている。
もう四月も半ばだと言うのに、外の気温は一桁台らしい。
「少し……寒いな」
僕は物憂げに、エアコンの設定温度を二度ほど上げてみる。
飯田への闇の洗礼は意外と簡単に事は済んだ。
なにより、入院している部屋が重篤患者用の個室だったし、看病の為に来ていた飯田のお母さんが丁度自宅へ荷物を取りに行くと言う事で、思いがけず二人きりになる時間を確保することができた所為だ。
もちろん、洗礼の時の記憶は見てもいないし、残してもいない。
「はぁ……。そんな事より、飯田の記憶の事だよなぁ……」
不幸な家庭事情を持つ人間なんて何処にでも居る。
アイツの境遇なんてその中で比べれば、まだまだマシな方なのかもしれない。
いや、きっとそうなんだろう。
ただ、それが自分の知り合い。
しかも、親友とも言うべき男の事だと思うだけで、胸の内に何やら重苦しいナニかが圧し掛かって来る。
飯田は幼い頃に父親が他界。
母親は昼も夜も無く働いて、アイツと妹、二人の子供を育てて来た。
そんな苦労する母親の背中を見て、ただ一人苦悶する親友。
おばさんもさぞ辛かったんだろうな。
アイツがまだ中学校の頃、新しい父親を迎えるかどうかって話になって。
泣きながら「嫌だ!」と繰り返すアイツの声。
子供の頃から聞き分けが良くて、大人びていて。
当時の家庭事情を思えば、恐らく頭の中ではそれがベストとは言わないまでも、ベターな選択であった事は理解出来ていたはずだ。
ただ、どうしても忘れられない亡き父親の面影。
自分の母親が他の誰か知らない男に奪われるのでは無いかと言う漠然とした不安。
何もわからず、ただ悲しそうな顔をする妹。
色々な想いが綯交ぜとなって、そんな行動を取ってしまったのだろう。
その記憶を見た直後。
僕は思わず探索を中断し、大きく深呼吸せずにはいられなかったのさ。
繰り返すけど、アイツだけが特別じゃない。
わかってる。そんな事はわかってるんだ。
……でも。
記憶を最近の事柄まで飛ばそう。
あの温厚な飯田がどうして不良に絡まれる事になったのか?
そして、その相手とは一体?
そう、問題はここさ。
僕は別に飯田の過去、全てをあからさまにしようとしている訳じゃない。
復讐を。
僕は、僕の親友を傷つけた、その相手に復讐がしたいだけなんだ。
それは本当に飯田のためになる事なのか?
ふと、そんな疑問が胸を過る。
確かに。
飯田はそんな事、全く望んじゃいないかもしれない。
いや、アイツの性格から考えると、きっと望んでなんていないだろう。
自分の運命は素直に受け入れ、他人の不幸には否応なく介入する。
そんな……そんなヤツだからな。
でも……いま僕には『力』がある。
そして、アイツには語り尽くせない『恩』もある。
これが恩返しになるかどうかは分からないけど。
でも、でも。
少なくとも僕の親友をこんな目に合わせたヤツが、いまも普通に暮らしていると思うだけで……。
「くっ!」
腹の底から熱いモノがこみ上げて来る。
それだけは絶対に、絶対に許すことなんて出来ないっ! できるもんかっ!
ふぅ……。
落ち着け、落ち着くんだ。
記憶の探索を続けよう。
話はそれからだ。
春休みも後半。
軽い苛立ちを感じている飯田。
時刻はすでに夜九時を過ぎている。
日頃から真面目で、夕食時を過ぎて帰宅する事など殆ど無い妹。
そんな彼女が外出したまま、まだ家に帰って来ない。
名前は確か……茜……ちゃん。
人懐っこく、笑顔の可愛い女の子だ。
そう言えば、僕のアパートにも飯田と一緒によく遊びに来てたな。
いま時で言うシスコンってヤツだ。
まぁ、お父さんを早くに亡くしているから、アイツが父親代わりと言えなくも無いか。
とにかく仲の良い兄妹だ。
彼女は飯田とは年子で、今年公立高校に入学したんだったよな。
そうか。高校入学が決まって、中学の時の友達と遊びに行ってるんだな。
そんな妹からSNSでの連絡が。
あぁ、駅前のファストフードで友達とまだしゃべってるんだ。
僕だったら別に気にも留めないんだけど……どうやら飯田は駅前まで迎えに行く気らしい。まさに父親代わりって所か。
自宅を出て、自転車に乗り、近所の小さな商店街を抜けて。
明かりの消えた問屋街から、私鉄のガード下を通り抜けようとしたその時。
暗闇の中に何か蠢くモノが……人影か?
このあたりは最寄りの駅からも少し遠いし、日中はある程度往来はあるものの、夜になると人通りは殆どない。
こんな夜中に誰が?
「飯田ぁ、意外と早かったなぁ」
前を見つめたまま、緊張で体を固くする飯田。
「だ、誰ですか?」
「俺かぁ? お前の友達に犾守ってのが居るだろう? 俺はそのまた友達さ」
暗闇の中から聞こえてくる野太い声。
こいつ……。
「お前が俺の犾守とあんまり仲良くするもんだからさぁ。ちょっと嫉妬しちまってよ。折角だから俺も遊んでもらおうと思って来てみた訳さ」
ゆっくりと近づいてくる男。
一人じゃない。二人……三人居るな。
やがて、その姿は街灯に照らし出されて。
「佐竹さん、コイツっスか? 例の犾守の友達って言うのは? なかなか良い体格してますねぇ」
「あぁ、確かサッカー部なんだよな」
「それじゃあ、サッカー部の武田さんから何か言われませんか?」
「ソコん所は心配するな。ちゃんと真塚さんから話通してもらってるからよ。ただ、将来のレギュラー候補らしいからな。あんまり手荒な事はするんじゃねぇぞ」
「えぇ、わかってますよ」
やっぱりお前かぁ!
佐竹めぇ……。
腕の方はまだ神々の終焉での負傷が後を引いているんだろう。
右腕に巻いた包帯がかなり痛々しい。
だけど、その両脇に控える男たちの手には、携帯用の警棒が握られている。
完全に襲う気満々の様だな。
「軽く腕の一本もイワシておけばそれで良い。それから飯田ぁ。犾守に良く言っておけや。犾守が調子に乗れば乗るほど、周りのヤツに怪我人が増えるってよぉ」
と、ここで飯田は力任せに自転車を反転させると、いま来た道を勢いよく駆け戻ろうとする。
そうだ、それで良い。
こういう輩とは係わり合いにならないのが一番だ。
三十六計逃げるに如かず。
しかも、自転車に乗るのは脚力自慢の飯田である。
僕は飯田が無事逃げ切る事を確信し、安堵のため息を一つ。
だけど。
「おいっ飯田ぁ。逃げるのか? 今逃げたらお前の妹がどうなるんだろうなぁ?」
――キキィィィィッ!
半ば飛び出しかけた自転車が、けたたましい音をたてて急停止する。
「妹を……茜をどうしたんだ!」
初めて聞く、ドスの利いた飯田の声。
余りの怒りに、語尾が少し震えている。
「おぉ、確かにあの娘茜ちゃんって言うんだったよな。お前も兄貴だったらちゃんと注意しとけよ? 中学生のくせにあんな大人びた下着なんざ履いてるもんだから、変な野郎どもに目ぇ付けられるんだぞってなぁ。あはははは! いやいやそう言えば今年から高校生だって言ってたっけなぁ。まぁ、高校生だったらあのぐらいの下着、まぁ普通か。ただ残念なのはおっぱいの方だよな。こっちはもう少し時間が掛かりそうだったぞ。とは言え、それはそれでなかなか……」
――ガシャン!
「うっ、うおぉぉぉぉ!」
跨っていた自転車を放り捨て、雄叫びをあげて佐竹に掴み掛って行く飯田。
飯田っ! ヤメロ、飯田ぁ!
それは佐竹の罠だっ!
ヤツらは三人だ。しかも武器まで持ってる。
お前一人でどうにかなる相手じゃないっ!
そう心の中で叫んではみたけど、もちろん僕の声が飯田に届くはずもなく。
何しろこれは飯田の記憶の中の出来事でしか無いのだから。
――ガッ! ボクッ!
「うぅっ!」
案の定。
背後に回った仲間の一人が、飯田の後頭部を思い切り殴りつけた。
こうなっては万事休す。
――ガッ、ドカッ! ボクッ! ドガッ!
もはやどうする事も出来ない。
あとは一方的に殴られ続けるだけだ。
「あっ、茜っ! 茜ェェ!」
……
飯田の記憶はここまでだった。
恐らくこの段階で意識を失ってしまったんだろう。
『……ケシ……タケシ』
「あぁクロ。ごめん、気付かなかったよ」
ふと我に返れば。
いつの間にかクロは僕の膝の上に。
そして、その妖し気なアンバーの瞳で、静かに僕の事を見つめている。
『お前の考えている事は大体わかる。今、お前と私の意識はかなり同期しているからな』
「……」
『おかしな事は考えるな。確かにお前が事件の引き金になっているのは間違い無いだろう。しかし、佐竹が飯田に暴力を振るった話とは別問題だ』
「いや、違うよクロ。別問題な訳がない。僕が佐竹とイザコザさえ起こさなければ、飯田はこんな目に合う事なんて無かったんだ。そうさ、そうなんだ。飯田に茜ちゃん。そして、飯田のお母さん。三人の運命を変えてしまったのは、間違い無く僕自身なんだ」
『だからと言ってどうする? お前が死んで詫びを入れた所で飯田の怪我は治らんし、他の家族も納得はすまい?』
「あぁ、分かってるよ! わかっちゃいるさ……でも」
――ピンポーン
ん? 誰だろう? こんな時間に。
時刻は二十二時を少し回った所。
さすがにこの時間では押し売りが来る事も無いはずだ。
僕は思案顔のまま、部屋の隅に設置されたインターフォンのカメラを覗き込んだのさ。すると。
「あのぉ……飯田……です。武史君はご在宅でしょうか?」
「え? あ、茜ちゃんっ!」
「おっ、お兄ちゃん? 武史お兄ちゃん?」
「あぁ僕だよっ! どうしたの、こんな時間に? いま鍵を開けるから、ちょちょ、ちょっと待ってて」
僕は玄関ドアの自動ロックを急いで解除。
更に彼女を出迎える為、玄関ホールへと飛び出して行ったのさ。
「茜ちゃん、どうしたの? びしょ濡れじゃないか!?」
この春雨の中、傘もささずに歩いて来たとでも言うのだろうか。
少し涙ぐんだ様子の彼女は、寒さの所為もあってか、まるで小動物の様に小さく震えている。
「お兄ちゃん、私、私……」
「と、とにかく部屋へ。こんな所にいたら風邪を引いちゃうよ」




