第53話 百メートル走
「あぁぁ……調子悪い……」
そう言えば、今日は朝から何も食べて無い。
なのに、胸のムカつきは収まる所か酷くなるばかり。
それに加えて、極度の頭痛が僕のメンタルを容赦なく削って行く。
「チクショウ、一体僕が何をしたって言うのさ……」
学校は新学期が始まって早や二日目。
春休みに起きたアノ惨劇以降、僕は謎の体調不良に悩まされ続けていたんだ。
「よぉし、次は百メートル測るからな。計測係以外はスタートラインに並べぇ」
なんでこんな新学期早々から体育の授業があるんだよぉ。
こんな体調で体育なんて、マジ無理。
ただまぁ、不幸中の幸いなのは、授業の内容が個人種目の身体能力測定が中心だって事ぐらいか。
一年の三学期以降、クラスの全員からハブられてた僕にとっては、いきなりバスケやサッカーの様なチーム競技をさせられるより、よほど精神的な安定が保ちやすい。
実際、今だってそうさ。
僕の周りには誰も近寄らない。明らかに僕を避けているのが手に取る様に分かる。
まぁ、特に女子がな……。
あぁ、構わないよ。別に。
元々ヲタクだし。
一人で居るのには慣れてるし。
――ピッ!
体育教師の山崎が吹く笛。
その合図に合わせて、五人一組のグループが百メートル先のゴール目掛けて駆け出して行く。
事件の翌日。
例のビジネスホテルがどうなったのか気になった僕は、綾香に電話して、一緒に見に行かないか? と誘ってみたのさ。
……すると。
『あの現場に行くですって!? あなたバカなの? 刑事ドラマでも良く言うでしょ! 犯人は必ず現場に戻るってっ!』
いやいやいや。
僕、犯人じゃないし。
だいたい、ビル自体を破壊したのは僕じゃなくって、教団のヤツらだからね。
でも、綾香の言う事にも一理ある。
もしかしたら、僕が舞い戻って来る事を予想して、教団の誰かが近くで張っている可能性も考えられなくは無い。
もしその場で見つかれば、今度こそ僕の命は無いだろう。
やべぇ、やべぇ。
自分から死地へと入り込む所だった。
――ピッ!
「おいっ! 犾守何してる? 早く走れっ!」
山崎の野太い声が、僕を現実へと引き戻す。
「あっ……はい。スミマセン」
僕はそう答えると同時に、百メートル先のゴール目掛けて走り出したのさ。
そう言えばあの時……。
僕たち三人と一匹は屋上伝いで三つ隣のビルへと移動。
ビルの端に併設された螺旋状の非常階段を使って、無事地上へと下りる事が出来たんだ。
当然、非常階段への出入り口にはアルミ製の扉が取り付けられていたんだけど、鍵の部分……いや、扉の取っ手自体が何者かの手によって捩じり切られていたんだよな。
もちろん、先生の仕業に間違いない。
常人とは思えぬ握力を持つ者のみが成せる技って所だな。
まぁ、先生自身もこの階段を使って屋上へと上がって来てたんだろうけど。
そんな非常階段の出口からそっと外を伺う僕たちの目の前で、突然大型のワンボックスカーが停車したんだ。
やべっ! もう、教団の連中に見つかったっ!?
壱號をBootするかっ?!
どうする? どうするっ!?
判断に迷う僕の目の前で、静かに開き始める電動スライドドア。
「犾守様、お迎えに上がりました」
車から静かに降りて来たのは、礼儀正しくお辞儀をする黒服の青年。
「くっ、車崎さん!」
「ブラッディマリーさんから話は伺っております。どうぞ車の中へ。さぁ、早く」
確かに。
ブラッディマリーは神々の終焉の看板ファイターだ。
先生であれば半グレ集団悪夢に対しても、ある程度の融通が利くって事なんだろう。
「あっ、ありがとうございます。助かります」
僕たちは車崎さんに促されるまま、早速車へと乗り込んだのさ。
結局その後、僕たちは悪夢に保護される形で、事なきを得たって訳だ。
それにしてもスゴイな。悪夢。
半グレ集団とは言え統率力が半端無い。
なにしろ、こんな訳の分からない状況の僕たちに対して、何の疑念も挟まず手を差し伸べてくれるんだからな。
教団の持つ脅威ですら、彼らにとっては日常茶飯事って感覚なんだろう。
個の力……であれば、僕の持つ魔獣の力はかなり強大だと思う。
あはは、かなり……なんてレベルじゃないよな。既に自衛隊レベルだ。
だけど、個の力にはどうしても限界がある。
今回の様に人質を取られたらどうする?
しかも、僕一人で二十四時間、三百六十五日、延々と戦い続ける事なんて出来やしない。
仲間が増え、守るモノが増えた今。
どうしても、個の力だけでは対処しきれないのは明白な事実だ。
力が……欲しい。
今まで考えもしなかった欲望。
一度生まれたその思いは、僕の心の中で大きく育ちこそすれ、決して小さくなって行く事は無い様に思える。
あぁ……でもあの時。
僕たちは無事帰る事が出来たけど、現場に残った先生はどうしたんだろう?
そう言えば、新学期になってからまだ先生には会ってないな。
まさか、教団に捕まったりとかしてないよな……。
「……ずもり……おいっ! 犾守! 聞いてるのかっ!」
「あっ、あぁ……先生、どうしたんスか?」
山崎ィ!
お前の声は頭に響くんだよっ!
話し掛けるんだったら、もうちょっと小さい声で言えよっ!
僕は不機嫌そうに山崎先生の事を睨み付ける。
「……ううっ」
一瞬、山崎先生がたじろいだ様に見えたけど……。
いやいや。
良いよ。そう言うのいらないから。
そう言う冗談、余計に面倒臭いから。
何しろ山崎先生は全日本選手権にも出場した事のある柔道の猛者だ。
身長だって百八十センチを優に超えている。
僕と比べれば正に大人と子供。
僕が睨んだぐらいで、ビビる訳が無い。
「何か……?」
僕はぶり返して来た頭痛に顔を歪めつつ、もう一度先生に聞き返したんだ。……すると。
「いっ、いやぁ、犾守……。ちょっと話があるんだ、こっちの方に来てくれないか」
「はぁ……」
思わず僕は不満タラタラな生返事をしてしまう。
いやいや。
話があるんだ……じゃねぇよ。
お前の所為で、頭痛がぶり返して来てんだよ、こっちはっ!
って言うかさぁ、何か言いたい事があるんだったら早く言えよぉ。
その代わり、小さい声、小さい声で頼むぞ。
お前の野太い声はマジ頭に響くんだからなっ!
と、そこまで思った所で、ふと我に返った。
あぁ、そうか。そう言う事か。
分かった、分かったぞ。先生の言いたい事が。
要するに、僕の走る態度が気に入らなかったって事だな。
今日は気分が悪かったし、しかも、考え事もしてたからなぁ。
やべ、かなり生意気な態度取っちゃったな。
新学期そうそう、先生に目を付けられるのは避けたいし……。
「あぁ、スミマセン、ちょっと気分が悪くて、それに頭痛がしたものですから……」
確かに手を抜いてたのは僕が悪かった。
でも、それは体調の所為だからな。別にワザと手を抜いてた訳じゃ……。
そんな少し不貞腐れた様子の僕の眼前に、先生のぶっとい腕が差し出されて来た。
しかも、その手に握られているのは、不釣り合いなぐらいに小さなストップウォッチ一つ。
「犾守っ、ちょちょちょ、ちょっと見ろっ! とにかくこの数字を見てみろっ!」
「はぁ……。十秒……四……七?」
別に悪いタイム……じゃ無いよな。
確かに手は抜いてたけど、そんな叱られる様なタイムか?
一体何がダメだって言うんだ?
「そうだっ! 十秒四七! わかるか? 犾守! お前、高校二年生で十秒台叩き出したんだぞっ! 確かお前、部活には入って無いよな。ちょっと待ってろ、今、陸上顧問の先生呼んでくるから……」
ってオイオイオイ!
盛り上がってる所悪いけど、マジ、そう言うのいらないから。
ちょっと、頼むから事を大げさにしないでくれよ。
一人大盛り上がりの先生とは裏腹に、クラスの連中ときたら、何か化け物でも見るかの様な目つきで僕の事を見つめているじゃないか。
あぁ、シクッた!
悪い方じゃなく、良い方で驚いてたって訳かぁ。
考え事してたおかげで、ついうっかり普通の力で走ってたみたいだ。
「せっ、先生! スミマセン。僕、本当に気分が悪いんで、ちょっと保健室に行って休んでても良いですか?」
「あっ、あぁそうか。そうだな。もしかしたら、どこか痛めたのかもしれんからな。よし、おいっ、誰か犾守一緒に保健室に行ってやれ!」
そう、先生がクラスの連中に呼び掛けるけど、誰も前に進み出ようとはしない。
マジか。先生。
僕がクラスでハブられてるって事、マジで分かってねぇんじゃねぇの?
これ、分かっててやってたら、単なるイジメだよ。
先生って言う公権力を使った、公開処刑と何ら変わらないからね。
「あぁ、あの。先生、大丈夫です。僕一人で行けますので。すみませんが、少し休ませて頂きます」
「あっ、あぁ、犾守……」
僕は先生との会話もそこそこに、一人覚束ない足取りで保健室へと向かって歩き始めたのさ。




