第51話 血まみれのマリア
――フォォンッ! フォォンッ! キィィィィン!
耳障りな風切り音。
――シュバッ! バシューッ!
見えない敵からの斬撃は止まる事を知らず。今もなお僕の体に致命傷を負わせ続ける。
グアツッ! 右目がッ!
ヤツからの斬撃により潰された右目。
その奥では万力で締め付けられるかの様な鈍い痛みが走る。
思わず腕で庇おうとしたけど、体の奥底から漏れ出す痛みには対処のしようも無い。
ただただ、居ても立っても居られないと言うもどかしさだけが募って行くばかり。
今では自慢の嗅覚や聴覚ですら殆ど機能せず、辛うじて見える左目にも血が滲み、視界が赤く染まったままの状態だ。
ブラックハウンドの持つ自動治癒も万能では無い。
当然回復するまでには時間差が発生するし、なにより今は結界の影響で魔力自体が底を尽きかけている。
魔力の喪失は命の喪失。
まさにそれを実感させるかの様に、僕の体からは刻一刻と力が抜けて行くのが分かる。
このまま行けば、あと一分と経たずに僕の魔力は底をつく事だろう。
すでに体中から噴出していた蒸気はその殆どが鳴りを潜め、始めの頃はものの数秒もあれば塞がっていた傷口も、今ではダラダラと血を垂れ流し続けている。
『タケシッ! タケシィッ!!』
悲痛なクロの思念。
まだ僕の近くに居るんだろう。
でもクロ。
流石にもう駄目だ。
僕がヤラれている間に、クロだけでも逃げてくれ。
でないと、『僕の死』自体が無意味になってしまう。
クロ……。
出来れば、先輩と綾香を。
それから、もし、もしも、生き残る事が出来たなら。
僕の親友である飯田の事も。
アイツの事も何とかしてやって欲しい。
クロ……本当に……本当にごめんなさい。
僕、結局何にもしてあげられなくて……。
『タケシィッ!!』
最後の最後。
自分の想いを少しでも伝えられて……良かった。
死ぬ間際。
僕の目に映るのは、ビルの屋上で不敵な笑みを浮かべる老人が一人。
その周囲からは禍々しいばかりのドス黒い渦が立ち昇っている。
あぁ、あれが結界の元となる魔力ってヤツか。
今更そんな事が分かったとしても、時既に遅し。
しかし、僕の人生最後の景色が、あんな老人のニヤけた笑い顔って……実にシュールだなぁ。
はは……。
嫌われ者のヲタクには、これがお似合いかぁ。
……はは、ははは。
僕は諦めの中にも多少の満足感を抱えたまま、自ら『生への執着』をそっと手放そうとしたのさ……でも。
「うっ……グハッ!!」
その時突然、老人の口元から大量の鮮血が溢れ出したんだ。
何事かと大きく目を見開き、苦痛に顔を歪める老人。
更には両手を広げ、小刻みに震え出したかと思うと、今度は鬼の様な形相で自らの腹部へと視線を向けたんだ。
「あがっ……!」
視線の先。
金糸銀糸で彩られた純白の司祭服。
その中央には赤黒いシミが徐々に広がって……。
「あぐっ! あぁぁぁぁ……」
老人は驚嘆の表情を浮かべたまま、己が背後を振り返ろうとした様だけど……既にその力は残されておらず。
瞳は裏返り、両腕はダラリと垂れ下がったまま。
やがて老人はその場で跪く様に崩れ落ちて……落ちて……崩れ……落ちずに浮かんでいるっ!? え?!
「はいはいはい。いきなり呼び出されて来てみれば、何? この有様は」
老人の背後から聞こえる不機嫌な声。
――ドシャッ!
たった今まで空中に浮かんでいた老人。
それが、数メートル先へと無造作に投げ捨てられた。
「とりあえず、一番面倒臭そうなヤツを殺っちゃったけど……問題無いよね?」
老人の立っていたその場所に、突如として現れた人影。
未だその姿は夜の闇へと溶け込んだままで、判然としない。
ただ、朱に染まった右腕だけが街のネオン照らされて、テラテラと輝いて見える。
「ふぅぅん。このお爺さんの所為で良く分からなかったけど……まだ、強そうなのが二人ほど残ってるわねぇ……」
やがて、その人影は何事も無かったかの様に、屋上中央付近へと歩み出て来たではないか。
全身黒ずくめ。
総エナメル地のボンデージスーツは既に彼女のトレードマーク。
左手にはご丁寧にも極太の黒い鞭が握られている。
神々の終焉史上最恐、最高の戦う女神。
「さて、残りの二人……あぁ、えっと三人居るのかな? 私、試合の合間に来てるから早く戻らないとマズいのよ。相手になってあげるから一度に掛かって来なさい」
有無を言わさぬ凛とした声。
先程まであれだけ繰り返されていた風魔法はすっかりと影をひそめ、ビジネスホテルの屋上は突然の静寂に包まれてしまう。
「ふぅ……。仕方が無いわねぇ。ソッチがその気なら、私の方から行くわよ」
半ば呆れ顔の陰真先生。
彼女はまず手始めに金髪の方へと近付いて行ったのさ。
しかし……。
「いやいや。エロいお姉さん。どういう経緯でココに割り込んで来たのかは知らないけど、今の所、僕は部外者だ。うぅん。そうだなぁ……見学? って感じかな。もしどうしても戦いたいって言うなら、もう一人の方へ行くが良いさ。何しろ、僕はこの件への参加を止められている身だからね」
両手を広げ、さも残念そうにそう告げる青年。
しかし、彼女の視線は依然鋭いままで。
「あらそう? このビルの屋上に居る能力者は全員敵だって聞いて来たんだけどぉ」
そう言いながら、彼女はご自慢の超極太の黒鞭をビュンビュンと振り回し始めたではないか。完全にヤル気満々だ。
「まぁ、お姉さんが魔獣の味方……って事であれば、敵には違い無いけどね。でもまぁ、繰り返しになるけど、今の所僕はお姉さんと戦う気は無いよ」
「ふうぅん。そうなんだ。それじゃあ、キミはそのまま見学って事で。後で気が向いたら何時参入して来ても良いのよ……ただしねぇ」
とここで、不敵な笑みを浮かべる陰真先生。
「ただし?」
金髪の方は怪訝な表情だ。
「ただしね……もし参入するのなら、確実に死ぬ覚悟で来てよね。私ったらさぁ、一度血の匂いを嗅いだらもう駄目。ダメなの。このまま試合に戻ったら私、絶対に対戦相手の誰かを殺しちゃうわ。そうなると色々と面倒なのよねぇ。だから、この欲情は、この場で発散しておきたいのよ」
仮面の奥で妖しく光る彼女の瞳。
少し薄い唇の脇では、赤い舌がチロチロと顔を覗かせている。
「ふっ、良いねぇお姉さん。僕がこんなに魅せられたのは蓮爾 様以来じゃないかな。でもまぁ、僕も命が惜しいんでね。今日の所は宣言通り戦わない事にするよ」
そう言うなり、金髪はビルの手摺へと腰掛けてしまったのさ。
先生はそんな金髪に軽く投げキッスを送ると、今度は連結された隣のビルの方へと向かって悠然と歩き出し始めたんだ。
「のっ、魔導士の分際で、我々神官に歯向かうとは無礼千万っ!」
またもや、洞窟の中でこだまするかの様な声が響く。
風魔法の司教だ。
だけど、陰真先生一ミリも動じず。
「私って、割と見えるタイプなのよねぇ。しかも、さっきのお爺さん同様ダブルもイケるの。どう? 早速魔力量対決する?」
そう言うなり、彼女は誰もいない空間へとその右腕を突き出したのさ。
その途端。
――ビシッ! バチッ、バチバチバチッ!
隣のビルとの丁度境目。
ビル屋上の手摺が設置されている所。
そんな何も無い空間で、突然青白い放電現象とともに紫色の火花が飛び散り始めたんだ。
「ぐぅっ!」
激しく飛び散る火花。
その中から忽然と姿を現したのは、例の風魔法司教に加えて手負いの従者が一人。
「どうしたの? 貴方も魔法を使うのでしょう? そんな所に隠れてないで、やってみなさいよ。構わないわよ。受けてあげる」
そう言いながら、両手を大きく広げてみせる陰真先生。
しかし、風魔法司教の方はと言えば、彼女の事を睨み付けたまま微動だにしない。いや、出来ないのか?
「うふふふ。そう、そうよね。撃とうと思っても、撃てない。そうでしょ? だって、今この場は私の結界に覆われているんですもの」
確かに。
薄青に輝く波の様なモノ。
それが陰真先生の周りから次々と溢れ出して行くのが見える。
色合いこそ違えど、例の爺さん司教の場合と仕組みは全く同じなのかもしれない。
「さぁ、命乞いするなら今のうちよ。でもまぁ、私は助ける気なんて全然無いけどねぇ」
先生は何の構えも取らぬまま、まるで普段通りの様な感じで風魔法司教の方へ歩み寄って行ったんだ。……すると。
「うっ、動くなっ! それ以上、近付くなっ! こっ、これを見ろっ!」
そう言って持ち上げたモノ。
それは……。
「痛っ! はっ、放しなさいよっ! ちょ、ちょっと、どこ掴んでっ! 痛って!」
あっ! 綾香っ!
髪の毛を掴まれ、無理やり手摺の影から引きずり出された彼女。
「あぁ、アナタそこに居たの? もぉ、探したわよ。ところでアナタが殺って欲しい相手って、あのお爺さんと、その隣の人の二人で良いの?」
綾香は目を見開いたまま、首を大きく縦に振っている。
って言うか。
先生ったら、敵かどうかも分からないのに、さっきの爺さんいきなり殺したって事?
うえぇぇ……。それはそれで、どうなんだろう?
「おいっ、魔導士の女。今直ぐ結界を解くんだ。さもなくばこの娘の命は無いぞっ!」
おぉ! 悪者定番の人質攻撃だっ!
先生っ、ヤバいよっ! どうする、陰真先生っ!
「別に……。好きにすれば?」
即答っ!
陰真先生ったら、即答じゃん!
全く動じないどころか、気にする素振りすら全く無しっ!
陰険真瀬はココでも健在だぁっ!
しかも、それだけを言い残したら、何食わぬ顔で更に近付いて行こうとしてる。
「おまっ、お前ッ、本気かっ! この者達は仲間では無いのか?!」
「知らないわよ。だって、この前初めて会ったばかりなんですもの。ほぼ赤の他人。たまたまアドレス交換してたってだけでさぁ。別に煮ようが、焼こうが。輪姦そうが、殺そうが、好きにすれば良いわ。その結果如何に関わらず、貴方は私に殺される。ただそれだけよ」
そう話しながらも、ズンズンと距離を詰めて行く先生。
「くっ! おのれっ! この私に近付いた事を後悔させてやるっ! Whirlwind! Whirlwindォッ!!」
たて続けの魔法二連発。
司教が振り下ろした腕の先。
そこから発した鋭い気流の渦は、寸分たがわず陰真先生の体に直撃したではないかっ!
――フォォンッ! キィィィィン! フォォンッ! キィィィィン!
ブラックハウンドを傷つけ、鉄塔をも倒壊させるこの魔法。
風魔法と言うだけあって空気中を伝播するものらしく、司教の手から放たれた魔法が対象物に届くまでには多少の時間差が発生する様だ。
しかし、この至近距離では流石の先生だって避けようが無いし、威力減衰だって殆ど無し。
そんな攻撃魔法を避けるでもなく、全身に受けてしまってはひとたまりもないっ!
これはマズいぞ。
やっぱりこの男は結界の中でも魔法が使えるんだっ!
先生は絶対に魔法は来ないって決めて掛かってたみたいだけど、これって……。
「クッ!」
案の定。
魔法を真正面から喰らった直後、陰真先生は倒れ込む様にしてその場に片膝を付き、小さく蹲ってしまったのさ。




