第47話 魔獣の本能
――ダダッ! ブワッ!
魔獣が……飛んだ。
厚い雲が垂れこめ、月明かりすら見え無い東京の夜空。
その暗闇に漆黒の巨体が悠々と舞う。
真っ直ぐに。
ただ一直線に。
そう、俺に向かって……。
ってマジかっ! 跳びかかって来やがった!!
「っ撃ぇ! 撃ぇ!」
俺は反射的にそう叫んだのさ。
それ以外に一体何を言えば良いって言うんだ。
――パパン、パンパン、パンパン、パパンッ!
俺に阿久津、そして片岡。
三人まとめて、ありったけの鉛玉をブチ込んでやる。
――パパン、パンパン、パンパン、パパンッ!
しかし、まさに焼石に水。
Glock程度の火力ではクソの役にも立ちゃしねぇ。
魔獣は飛び掛かって来た時の勢いをそのままに、自慢の前足を俺達の頭上へと振り下ろして来やがったんだ!
「うおぉぉ!」
――ドゴッ! メキメキメキッ!
ヤラれたッ! 完全に死んだっ!
……って、死んで……ない!? ……あれ?
「司教様、ここは私が」
「うむ。ヘシオドスよくやった。褒めて遣わすぞ」
ってマジかっ!
魔獣が振り下ろした極太の前足。
それをリッカルドの侍従の一人が両手をクロスさせる事で見事に受け止めやがったんだ。
あの斬撃を生身で耐えるって、一体どうなってヤがんだコイツっ!
司教クラスには通常二名の侍従、もしくは侍女が常時随伴する。
大司教ともなれば三名だ。
この侍従。
司教に対する身の回りの世話からスケジュール管理まで、その役割の幅は広い。
但し、その最も重要な役目がこの護衛だ。
司教自身、人間離れした特殊能力を持つ人種だから警護など不要だとも思えるが、それでも危険は付きまとう。
流石の司教だって、基本は生身の人間だ。
至近距離から拳銃で弾かれりゃあ即死は免れねぇ。
そんな時に、司教の盾となって凶刃に立ち向かうのがこの侍従たちって訳だ。
侍従の中には神官学校卒業したての若人もいれば、既に助祭や司祭の肩書を持つベテラン侍従も居る。
現代日本の感覚で言えば、政治家になる方法の一つとして、有力政治家の秘書になり経験を積むって感じに似ているだろうか。
俺はたまたま爺ィの傍に居たから、守ってもらえたって事だよな。
でも待てよ。
よく考えたら、爺ィの傍にさえ居なかったら、魔獣に襲われずに済んだんじゃねぇのか?
やっぱり爺ィの傍にはあまり近寄らない方が無難だな。
「司教様、こちらへ」
もう一人の侍従がリッカルドを庇いながら、今来た機械室の方へと一旦引き返させ様としている。
「阿久津、片岡ッ! 俺達も一旦撤収だっ!」
相手があのブラックハウンドではあまりにも分が悪い。
この場はあの怪力侍従に任せて、一旦退避した方が良さそうだ。
俺達は爺ィを取り囲む様にしながら機械室の中へと移動。
そして、俺が再び戸口から屋上を覗いてみると、例の怪力侍従が未だ魔獣とガチの力比べを続けているではないか。
「ぬぅおぉぉぉ!」
雄叫びを上げ猛然と掴みかかるヘシオドス。
魔獣の方はと言えば、右前足を絡め取られ、どうやら身動きが取れなくなっている様だ。
「うむうむ。ヘシオドスもなかなかヤルのぉ。流石アレクシア神の祝福を持つ者じゃ」
アレクシア神の祝福。
戦闘の神、軍神、破壊の神とも呼ばれるアレクシア神。
その特性は人体強化に赤い炎……だったか。
それであれば、あのヘシオドスとか言う侍従の頑強さにも納得が行く。
「うぉぉぉぉ!」
更に大声を張り上げるヘシオドス。
今度は掴んでいた魔獣の前足を力任せに持ち上げ始めたでは無いか。
何だっ! まさか魔獣を投げ飛ばそうって言うんじゃねぇだろうな?
と言うか、正にそのまさかであった。
「どぉぉりゃぁぁぁ!」
ヘシオドスは魔獣の前足を抱え込んだまま、砲丸投げの要領で自分自身も回転を始め……回転を……かい……。
って、回らねぇ! 全く回れてねえぇ。
って言うか、魔獣、ビクともしてねぇっ!
ヘシオドスが魔獣の前足を持ち上げた様に見えはしたけど、結局魔獣が単に前足を持ち上げただけだったのか!?
良く考えりゃ、この体格差で魔獣を持ち上げようって言う発想自体がナンセンスだ。
「ぐぬっ! ぐぬぬぬっ!」
更にヘシオドスが力を振り絞る。それでも魔獣は微動だにしない。
って言うか、する訳が無い。
掴みかかる相手が軽自動車みたいな無機質であればまだしも、魔獣は生き物だ。
ヘシオドスがどれだけ力を込めて捻り上げても、結局は小手先の部分で良い様に弄ばれるだけで終いだ。
やっぱダメか?
軍神アレクシアの祝福も魔獣には通じないって事なのかっ!?
って言うかヘシオドス。お前っ、それしか出来無いの? 単なる筋肉バカなの!?
そう思っていた矢先。
「魔獣の分際でなかなかやるなっ! それではこれでどうだっ!」
なにやら不敵な笑みを浮かべるヘシオドス。
やがて、ヤツの握る魔獣の腕が、赤黒く輝き始めたではないか。
「ほほぉ、煉獄火炎か。あヤツも本気の様じゃな」
ヘシオドスの両腕より発した赤黒い光。
それはやがて深紅の炎となってメラメラと魔獣の腕を包み込み始めたでは無いか。
「おぉっ、おおおおぉ!」
コイツは行けるっ! コイツは行けるぞっ!
如何に強大な魔獣とは言え、ヤツだって所詮は生き物だ。
足先から燃やされちまったら、流石に手も足も出ねぇだろう。
――メラメラメラッ ブオォォォ!
魔獣の足先から燃え始めた炎。
何故か都合よく吹いてきた突風に煽られて、魔獣の肩、更には顔の周辺までをも巻き込む業火となり始めた。
行けッ! 行けッ!! そのまま燃えて、灰になっちまえっ!
そう、心の中で応援し始めたのも束の間。
「あぁ!」
真っ赤な炎に全身を包まれる魔獣。
しかし、魔獣はあろうことか、前足にしがみ付くヘシオドスもろとも持ち上げ始めたのだ。
「あぁっ! あぁぁぁぁ!」
――ゴリッ! メキメキメキョッ!
くっ……喰った。喰いやがった……。
「うぅっ! ふぐっ!」
背後から片岡の嘔吐く声が聞こえる。
頼む、片岡。
頼むから今ここで吐くな。
どうせ後で片付けるのはお前だけど、当面ここに居る俺達ゃ臭くてかなわねぇからな。
――ゴリゴリッ! バキバキボリッ! ドシャッ! グシャッ!
噛み砕かれた腕や足。
それらが、ボトボトと魔獣の口元からこぼれ落ちて来る。
未だその前足や顔周辺は炎に包まれたままであるにも関わらず、まるでヘシオドスの事を味わうかの様にゆっくりと咀嚼し続ける魔獣。
そして、足元に出来上がった大きな血だまり。
魔獣はさも当然の様に、今度は自身の巨体をその中へと浸し始めたのだ。
――ビチャ、ビチャビチャッ! ズリッ、ズリズリッ!
眼前で繰り広げられるのは、鮮血による血浴び。
純粋に炎を消そうと言う意図なのだろうか。
それとも、獲物の匂いを体に纏いたい……と言う魔獣の持つ本能が成せる業なのか。
俺も長い間色々な現場を目にして来たが、残念ながらこの光景は『胸糞悪ぃ現場』トップスリー入り確定だぜ。
あらかたヘシオドスの事を喰い終わった魔獣。
一度だけ辺りを見回すと、今度は先程まで身を寄せていた壁際の方へ悠然と歩き出しやがったのさ。
前回の高架橋の時とは全然違う。
あの時はもっとこう……自分の意思を持たないって言うか、ボーっとしてるっつーか。魔獣自体が能動的に動く事は殆ど無かった。
しかし今回はどうだ?
現れた途端、俺達の方へと飛び掛かって来るわ、人間一人を美味そうに喰い始めるわ。
完全に何らかの意図を持って動いているとしか思えない。
まぁ、そうか。
そう言う事もあるんだろうな。
前回召喚したヤツは蓮爾 様のお力により死んじまった訳だから、今度のヤツは新しい個体って訳だ。
それで、今回呼び出したヤツがたまたま能動的だったって事なんだろう。
そう思えば召喚士ってヤツもなかなかに難しい能力ではあるな。
本当は戦って欲しいのに全然戦ってくれないとか、その逆もあるかな……。
などと思っている内に、再び魔獣が屋上の中央へと舞い戻って来やがった。
魔獣はどうやら俺達の事に全く気付いていないんだろう。
ヤツはのんびりと咥えて来たモノを先ほどの血だまりの上へと吐き出しやがったんだ。
――ドサドサッ、グチャ、グチャッ!
魔獣ぁ一体何を咥えて来やがったん……うぐっ!
「うげっ! ゲェェェッ!」
背後から片岡の胃液を吐く音が聞こえる。
だから、片岡。
ここで吐くなっつったろぉ?
そう言う俺も、流石にこれは正視に耐えない。
さっきの光景が『胸糞悪ぃ現場』トップスリー入りなら、今回のは間違い無く殿堂入り確定モンだ。
魔獣が咥えて運んで来たモノ。
それは裸の男女、三人の遺体に他ならない。
男性一名。女性が二名。
頭部は踏みつぶされていたり、損傷が激しすぎて判別不能。
男性は十代後半ぐらいだろう。
まだ若い。
女性の方も十代から二十代前後、と言う所か。
どうやら、俺達が追ってた召喚士の一味らしいな。
なるほど。
正に俺の推理を裏付ける結果……って訳だ。
今回も三人で協力してブラックハウンドを呼んだまでは良かった。
しかし、前回と違ってかなり能動的な魔獣を呼んじまった所為で、まずは自分達が魔獣の餌食になっちまったって所だろう。
魔獣は俺達の事なんて完全に忘れちまったのか、それとも気にもしていないのか。
ゆっくりと食事を始めやがったのさ。
――ボキボキッ、バリ、ゴリゴリッ!
不気味な音を立てながら、目の前に並べられた遺体を噛み砕いて行く魔獣。
一体ずつ……なんて行儀の良い食べ方じゃねぇ。
噛みつく遺体を変え、部位を変え。
時折腕に付いた血を舐めとる姿は、ある意味犬や猫なんかとそう変わりは無ぇ、愛敬すら感じられる。
唯一の問題は、その喰ってるモノが人間だって事だけだ。
とその時。
俺達の背後に新たな人の気配が。
「大変申し訳ございません。仕留め損ねました」
闇の中より溶け出して来たのはバジーリオ司教。
その後方には深手を負ったままの侍従も健気に付き従っている。
「しかたあるまい。あヤツもなかなかの魔導士だったのであろう。私が結界を解除した数秒の間にもう一体召喚した訳だからな。しかもあの短時間で召喚するとは、其方同様、かなり太いソリナスを持っておる様じゃ」
「はは、ご冗談を。魔導士風情でその様な事はありますまい。さてリッカルド様、残された魔獣は如何致しましょう」
「うむ。ここはやはり、バジーリオ司教に仕留めて頂かねばなるまいのぉ。どうやらワシの結界は利いておる様じゃし、ワシはここで結界を張り続ける事にしよう」
「承知いたしました。それでは、私は結界の外から仕掛けると言う事で」
「うむ、そうしてくれるか」
どうやら話がまとまった様だな。
しかし、いくつか疑問も残るが……。
「あっ、あのぉリッカルド司教様」
「うん? なんじゃ加茂坂の部下の……片岡じゃったか? ようやくワシの名前を憶えてくれた様じゃの。うんうん。言うてみよ」
「はい。既に術者は自分達が呼び出した魔獣に喰われてしまった様子。これ以上結界を張る必要は無いのではないでしょうか? それであれば、司教様お二人が力を合わせ、早々に魔獣を仕留めた方が良いのではないかと?」
おぉ、片岡。グッジョブだ。
全く場の空気が読めないヤツだが、こう言う時は助かる。
さっき壁際で吐いた事はこれで許してヤル。
「チッ、おい女。余計な口を挟むな。人間の分際でリッカルド様の決定に異議を唱えるなど言語同断。この場でその首刎ねてやる故、そこになおれっ!」
突然怒りを露わにし出したのは、リッカルド司教のもう一人の従者だ。
流石に片割が目の前で魔獣に喰われたばかりだしな。
相当気が立っているんだろう。
「うむ。まぁ良いではないか、ペイディアス」
「片岡よ。其方の疑問、もっともじゃ。ただ、グレーハウンドは種族固有の能力として雷撃を使うと言う。その仕組みはまだ解明されてはおらんが、恐らくは魔法と同様、精霊の力を使っているのであろう。となれば、ここで結界を止める訳には行かぬ。こんなビルの屋上で雷撃など使われようものなら、ビルの中の人間にどれだけの被害が出るかもわからん。それに、ワシの祝福はここでは少々使い辛いからのぉ。フォッフォッフォ」
「なるほど。被害が更に広がらない様にとのお考え、理解できました」
「うむ。分かれば良い。それでは、魔獣が逃げる前に仕留めるとしようか」
「はっ、承知致しました」
承諾の返事とともに、バジーリオが再び背景と同化し始めた。
ユラユラ……ゆらゆら。
バジーリオ司教の姿は闇の中へと溶け出すかの様に薄れて行き、やがてその姿は完全に消え失せてしまった。
この奇妙な感覚。
なぜだか俺は軽い眩暈を感じてしまう。
何度見てもこれだけは慣れそうにねぇな。




