第37話 試される忍耐
『先輩っ……先輩、聞こえますか?』
413号室と掛かれた部屋。
僕はドアの前で静かに耳を欹てる。
この程度のドア一枚、クロとの思念であれば全く問題にはならない。
ただ、香丸先輩との接続となると話は別だ。
たとえ数メートル程度の距離であっても、二人の間に遮蔽物があれば、とたんに思念は伝わり辛くなる。
もう少し慣れて来れば……。
僕とクロの時でも慣れは必要だった。
だけど……本当に慣れだけの問題なのだろうか?
静まり返る深夜のビジネスホテル。
淡い間接照明に照らされた廊下は物音一つしない。
逆にその静けさ自体が、僕の心を急がせる。
駄目だ。
こんな所でグズグズしてはいられない。
誰かが来たら一発でアウトだ。
早く香丸先輩を呼び出さないと。
やっぱり……ノックしないと駄目か。
僕は躊躇いながらも、握りしめた拳に力を込めようとしたその時。
――ガチャ……カチャ。
鍵の開く音に続いて、目の前のドアが静かに開かれて行く。
そしてドアの隙間から覗くのは、既に見慣れたあの笑顔。
「お待たせ。ちょっと彼の様子を見て来たの。大丈夫、完全に眠ってるみたいよ」
なぜか少し恥ずかしそうな仕草をする彼女。
桜色の頬はお酒の所為か、それとも。
『先輩、この後も思念にしましょうか。声を出すと気付かれるかもしれないし』
『あぁ、えっと、ごめんなさい。私、気付かなくって……』
いつもの自信あふれる先輩とはちょっと違う。
まるで、姉から妹へと立場が様変わりしたかのように振る舞う彼女。
なんだか今日の先輩……すごく可愛いな。
って言うか、先輩は何時でもカワイイんだけどな。
僕はそんな香丸先輩に促されるまま、部屋の中へと足を踏み入れたんだ。
部屋の中は……かなり暗い。
当然、近藤さんを起こす訳には行かないからな。
ルームライトすら消してあるんだろう。
今、部屋を照らしているのは、バスルームから漏れ出て来た光だけ。
『犾守君、ここじゃなんだから、ちょっとバスルームの方へ』
『えぇ、分りました』
ツインの部屋とは言えビジネスホテルである。
バスルームは当然ユニットバスで、大人二人が入れば結構な狭さだ。
『それで、この後はどうすれば良い?』
『えっと、この同じホテルに別の部屋を確保済です。そこには如月さんも居るので、先輩はとりあえずそっちの部屋へ移って下さい』
『うん、分かったわ』
『その後、僕が近藤さんから情報を引き出しますので』
『でも……』
一瞬訝しそうな顔をする香丸先輩。
『近藤さん、結構ガードが堅いわよ。聞いてたと思うけど、結局具体的な事は何も話してくれなかったし』
確かにその通りだ。
先輩からあれだけ飲まされたにも関わらず、教団に関連する事は何一つ話していない。
恐ろしい精神力と言うか、統率力と言うか。
もし僕だったら知ってる事だけじゃなく、知らない事までペラペラとしゃべってしまう事だろう。
『えぇっと、そこの所は多分大丈夫だと思います。ほら、背中にはクロも居るし。クロの力を使って情報を引き出そうと思ってるんですよ』
僕は背中のリュックへと視線を送ってみせる。
あまり『洗礼』の事や、核の事については詳しく話さない方が良いだろう。
僕は今、先輩の核を持っている。
たとえば僕が先輩の核を覗けるとなれば、きっと先輩だって良い気持ちはしないはずだ。
『なるほど! クロちゃんの謎の力を使う訳ね』
まるで、全てを理解した様なドヤ顔を見せる先輩。
微妙に違うんだけど……。
まぁこの際だからそれでも良っか。
『って事で、後は僕に任せて、先輩は別部屋の方へ』
『うっ、うん……』
ん? どうしたんだろ?
ちょっと歯切れが悪いぞ。
『あまり時間も無いし、ここで見つかったら言い訳のし様もありませんから』
そう促してみるけど、一向に動き出す気配が見えない。
そればかりか、自分の髪を人差し指で弄びながら、ちょっとイジイジして見せている。
なにこれ、この娘。
めっちゃ可愛い。
『あのねぇ……』
『はっ、はい……』
『えっとねぇ……』
『えぇっと……はい』
『さっきからねぇ……』
『はいはい、さっきから?』
『えぇっと……あたってる……のよぉ』
当たってる?
何かに当選したとでも?
……
いやいや、嘘ウソ。
思念の会話において言い間違いはあり得ない。
大雑把ながらも、ニュアンスを含めて互いに理解出来てしまう。
今回の場合は、僕のナニが彼女の足にあたってると言う事なんだろう……。
いや、だろう……じゃなくて、そのぉ……うん。その認識で間違い無い。
知ってたかって? えぇ、知ってました。
分かってましたとも。たははは。
『それでねぇ……』
『えぇ……それで……』
『ちょっとね……』
『ちょっ、ちょっと?』
『……エッチな気分なの……』
『えっ、エッチな気分っ!』
はうはうはう!
この娘っ、何て事を! 何て事をおっしゃいますやらっ!
……
ごめんなさい。
分かってました。えぇ分かってましたとも。
驚いたフリしてごめんなさい。
何となくだけど、そんな雰囲気、ムンムンなのですもの。
狭いバスルームにみっちり二人きり。
思念なんて関係ない。
そんなもん無くったって、ただ分かりですよ。
こんな状況で一体何を疑う事がありましょうや、いいえありません。
おぉ、久しぶりの反語だ
『だからね……チューで我慢するぅ』
『ちゅちゅちゅ、チューで?』
どう言う事、どう言う事なの?
彼女が僕のドコにチューするの? どこなの? 一体どこにチューするって言うのっ!?
……
ごめんなさい。
分かってました。えぇ分かってましたとも。
驚いたフリしてごめんなさい。
僕が彼女にチューすれば良いんですよね。
まぁね。
元々お酒が入ると積極的になっちゃう先輩の事だし。
しかも、女スパイ役って事で、ドキドキの『つり橋効果』もマシマシの状態だし。
更に極め付けは、バスルームでみっちりしっぽりの密閉空間に押し込まれれば、そりゃあ、僕だってそうなっちゃいますよ。えぇ、この聖人君子と呼ばれてる僕だって、そうなっちゃっても仕方の無い事ですよ。
となれば、先輩だってねぇ。えぇ、えぇ。分かります。分かりますよぉ。
流石にこの場でコトを致すって言うのは、先輩なりに考えても駄目だって思ったんだろうな。
うぅぅむ、いじらしい。
もぉ、先輩ったら、本当にいじらしいっ!
分かりました。分かりましたとも。
この犾守武史、精一杯のチューをご披露して差し上げます。
暫く腰が立たなくなるぐらいの、濃厚で熱い、アツい一発をかまして差し上げましょう!
とここで彼女の方を見てみれば、既に両目をつむった状態で、ピンクの艶やかな唇がプルプルと揺れているではありませんか。
はいっ! いただきますっ。
据え膳食わぬは男の恥。
この犾守武史は、まごう事無き男で御座るぅぅ!
内心での掛け声一発!
愛くるしい先輩に向かって、渾身の接吻をブチかまそうとしたその時っ!
『盛り上がっている所悪いが……』
――ビクッ!
突然の思念。
この波長は……クロだっ!
なんだよクロォォッ!
今それどころじゃ無いんだよ。
一世一代のチューを敢行しようとしている真っ最中なんだよ。
もう、絶対に後戻りできない所まで来てんの!
もう速度はV1に達してんのっ!
今離陸を止めたら、滑走路をオーバーランして、大事故になっちゃうよ。
ホント、マジで大事故。
もしかしたら怪我だけじゃ済まないかもしんないよ。
もぉぉ、僕の心の大怪我だけでは済まされない緊急事態なんだよぉ!
『いやいや、安心しろ。止めはせん。止めはせんが、折角の機会だからな。今のウチに香丸の核を更新しておいた方が良いだろう』
更新!?
どっ、どう言う事?
『お前が持っている香丸の核は、私が渡した初期の核だよな』
あぁ、確かに。
一番最初に奴隷化したのはリアルなボクじゃ無くて、クロがヤッちゃったんだったな。
結局その後、僕は香丸先輩を下賜してもらった訳なんだけど。
と言う事は、僕が今持っているのはその時の核に間違い無い。
『万が一の話だが、近藤が起きてしまった場合、お前は香丸の核を使う事になるだろう。しかし、お前がChangeする核は、随分前の核だ。となると、お前は素面の状態な上に、会話の内容もうろ覚えと言う事になる』
あぁ、確かに。
それはマズい事になりそうだ。
『と言う事で、今時点の最新の香丸の核を手に入れておくのが良いのではないかな』
なるほど。
それは良いアイデアだ。
と言うか、是非そうしておくべき事案だろう。
でも、どうやって香丸先輩の核を入手するんだ?
確か、やり方としては 綾香をもらった時みたいに小一時間ほど手を握るって言う方法があるよな。でも、この場所で一時間も手を握ってるなんてナンセンスだ。
『いや、そうでも無い。お前は既に香丸の核を持っている。差分だけであれば、十分か二十分ほどで入手出来るだろう』
なるほど、十分から二十分間ほど先輩に触れてさえいれば、差分更新は完了すると言う訳か。
『もう一つの方法は佐竹たちに行った様に、交尾をする事によって情報を得る方法だ』
なっ! 何ですとっ!
『この方法であれば、数分で核を入手する事が出来るだろう。まぁ、佐竹の場合は洗礼の時間もあったからな。あの時は結構時間も掛かったが』
いや知らんけど。
って言うか、当時の核は、僕本人の遺言により、その記憶を参照する事なく消去してしまっている。そう言う意味では今の僕自身、洗礼を行った時の記憶は全く無い。
『まぁ、今の場合だと香丸とシテしまうのが手っ取り早いな』
しっ……シテしまうですとぉぉ!?
いやいやいや。
手っ取り早いだなんて、とんでもない。
何て事をおっしゃるんでしょうか?
今は緊急事態ですよ?
えぇ、そうです。メチャメチャ緊急事態なんですよ。
となれば、こんな所で時間をロスする訳には参りません。
一分一秒を争う場面です。
しっかり、くっきり、ぐっちょり、交尾の方向で進めさせて頂きましょう。
えぇ、そうしましょう。そうするしか方法が無いでしょう!
方向性は決まった。
僕はその重大な決定を先輩に知らせるべく、思念を飛ばそうとしたのだが。
『ちょっと待った』
なぁぁにぃぃ! もぉぉ、クロぉぉ!
なになに? まだナニかあるの?
ねぇ、まだ言い足りない事があるって言うの?
って言うか、香丸先輩ったら、ずぅぅっと、目をつむったままで、今か、今かと待ってるんだよ。
ほら、見てよ、ちょっと緊張のあまり、プルプルしてるよ。
ねぇ、この娘。ぷるぷるしてるよっ!
『いやいや、止めはせん。止めはせんが』
めちゃめちゃ止めてるじゃん、さっきから無茶苦茶止めてるじゃん!
『まぁ、聞け。交尾をするのは、それはそれで賛成だ。ただなぁ』
ただ何よ。ねぇ、なんなのよ。
『この場で出しては駄目だぞ』
え? どゆ事? それってどゆ事?
『やっぱり分かっていなかった様だな。この後、お前は近藤に対して「闇の洗礼」を行わねばならん』
おぉ、そうだった。忘れてたよ。
本来の目的はそっちだった。
『となると、ここでお前の精を使われてしまっては困ると言う訳だ』
ほうほう……確かにその通りだ。
この後、ただでさえ難易度の高い男との『闇の洗礼』が待ち構えている。
にも拘わらず、ここで精を吐き出してしまえば、賢者タイムに入った僕が上手く『闇の洗礼』を遂行できるかどうか、かなり怪しい事態となる。
いやいや、大丈夫。
精力絶倫な男子高校生ナメるなよぉ!
とは言いつつも……一抹の不安は残る……確かに……残る。
何しろ、一度『闇の洗礼』を行った僕自身が『絶対に記憶を見るなっ!』と言い残して逝ったくらいなのだ。
それはそれは怖ろしい事が起こるに違い無い。
うむむむむ。
ヤルべきか、ヤラざるべきか……。
ねぇ、クロ。もう一回聞くけど。
結局核を入手している間、僕が出さなきゃ良いって事なんだよね?
『あぁ、そう言う事になるな』
うぅぅむ。
出さなきゃ良いのかぁ……。
ねぇ、クロ。これも、もう一回聞くけど。
何分ぐらい耐えないと駄目なの?
『そうだな、交尾による核の入手は、およそ二、三分と言う所か』
にっ、二、三分……。
うっ、うぅぅむむむむ。
……長いっ。長すぎる。
今の僕には……無理だっ……くっ、痛恨っ!
既に臨界に達しつつあるこの状態で、更に二、三分など……持ちこたえられる訳が無い。いや、全くもって無い。
あら、反語にもなってないよ。
と、その時。
僕の視界の端に、小さな影が揺らぐ。
あっ……これ。
リュックに付けているキーホルダーの影だ。
飯田の妹さんが中学の修学旅行の時に買って来てくれたヤツ。
場末のお土産屋さんで買った感満載で。
こんな『ゆるキャラ』本当に居るのか?……って言う逸品だ。
飯田のヤツも散々文句言ってたけど、結局僕とお揃いで鞄に付けて……。
飯田……。
そうだ。そうだった。
本来の目的を見誤ってはいけない。
今回の目的は、近藤の情報を入手する事だ。
香丸先輩の核を入手するのは、その手段の一つでしかない。
ヤバかった。本当にヤバかった。
余りのエロエロな状況に、自分自身への歯止めが利かなくなる所だった。
そうさ、僕の目的は親友を救う事。
そして、その為に教団内部の情報を入手しなければならないと言う事なんだ。
仕方あるまい。
そうさ、香丸先輩とはこの後、いくらでも核の更新は出来る。
たっ、確かに、ちょっと捨てがたいシチュエーションではある。
ではあるけれど、今絶対に経験しなければいけないと言う訳でも無い。
それに、あの香丸先輩がチューで我慢しようとしているのに、今更僕が『我慢なりません』とはこれ如何に?
そうさ、香丸先輩に対して、一体なんて説明すれば良いやら分からないじゃないか。
そうそう、ここは我慢、ガマンしか無い。
それに良く考えて見ろ。
この後香丸先輩の核を更新する為、十分間ほどは密着する事になる訳だ。
そうだ、それはそれで悦楽の時間、この世の楽園と言っても過言では無い。
ふぅぅ……。
僕は一体何を血迷っていたのだろうか?
最初から答えは出ていた様なものだ。
僕はこれから香丸先輩を納得させるため、濃厚で熱々のチューを敢行する。そして、その間に先輩の核を更新する。
ただそれだけ。それだけだ。
ミッションはいたって単純。
この僕に出来ない訳が無いっ!
ようやく考えはまとまった。
そこで再び彼女に目を向けてみれば、いまだ瞳を閉じたままの格好でぷるぷると震えているではないか。
なんて愛おしい香丸先輩。
それでは、あらためまして。
いただきまっ……え!?
そんな僕の穏やかな食前のご挨拶を、いともアッサリと断ち切る強大な思念。
『もぉ! 犾守君ったら、遅いっ!』
「うぐっ!」
開戦と同時の電撃作戦。
僕の唇は更に柔らかいぷにぷにのナニかによって、秒で占領されてしまう。
しかも、その後に待ち受けていたのは、圧倒的な後詰戦力を背景とした、蹂躙に次ぐ蹂躙。
『せっ、先輩ッ! ちょちょちょ、ちょっと、ちょっと待っ!』
気付けば両腕はガッチリとホールドされ、全く身動き出来ない状態に。
しかも敵の主力は僕の唇に続き、耳元さらには首筋へと進軍。その勢いは衰えるどころか、更に勢いを増すばかりで。
ヤバい……このままでは……死ぬっ……。
既にこの時点で僕の統合作戦本部は敗北を覚悟。
しかし、そんな弱腰の僕の事などお構いなし。
敵は胸元からさらに本土上空付近を含む無差別絨毯爆撃へと移行して行く。
『あっ、あのっ! 先輩っ、それはチューでは……既にチューでは無いのでは!?』
そんな僕の叫び声など、先輩の前では何の意味も持たない。
かっ、開戦よりわずか一分と二十四秒。
統合作戦本部は無条件降伏の受け入れを決断。
「……くうっ!」
そして……。
背筋を駆けのぼるのは、敗北と言う名の甘美な響き……。
『我が生涯に……一片の……悔い……なし……』
そんな敗残兵と成り下がった僕の脳内に、哀れみをもった思念が届く。
『……ダメなヤツ』
……クロ。
ごめん。
どっちにしろ……持たなかった。




