第25話 死角からの一撃
「どうしたんですか? 加茂坂さん。突然大声なんか出して?」
かなり困惑した様子の加藤女史。
「あっ……いや……」
視線が……。
間違い無く少女と目が合った……はずなのに。
しかし、彼女は一瞬だけ精気の無い瞳を俺に向けた後、また何事も無かった様に猫の方へと注意を向けてしまったんだ。
気付かれて……無い……?
俺の事は覚えちゃいないって訳か?
ヤツにとっちゃ俺は取るに足らない、その程度の人間だったって事なのか?
それになんだ? この感じ。
つい最近、どこかで感じたこの違和感……。
「あぁ、突然大声を出してすまない。驚かせるもりは無かったんだ。ノラ猫は病気を持ってるかもしれないからね、触った後は良く手を洗わないと……」
「加茂坂さん。それ、そんなに大声で言う事ですかぁ? もぉ、ビックリしちゃうじゃないですかぁ。はいはい。後で管理事務所のトイレで手をしっかり洗いますから大丈夫ですよぉ」
一体俺は何を言ってるんだ。無茶苦茶な言い訳だな。
しかしこの少女。
俺の顔を見て、なんの反応も示さないなんて。
まさか他人の空似?
いや、それにしては似ている。うり二つだ。
特にあの横顔。
間違い無く彼女だ、それ以外考えられ無い。
結局、俺があれだけ大声を出したにもかかわらず、彼女の方はそんな事など一切お構いなし。
依然、無表情のまま猫の頭を撫でているだけ。
この雰囲気……そうだ……ブラックハウンド。
この少女、あの時のブラックハウンドが纏っていた雰囲気と、どことなく似ている様な気がする。
あれだけの強者でありながら……いや、あれだけの強者だからこそなのか?
周囲に全く興味を示さない。どこかうつろな表情。
いや、まずは確かめないと……。
俺は未だ震える指を無理やり押さえつけながら、一双の手袋を胸ポケットから取り出したんだ。
「ねぇ。こんなに可愛いのに病気なんて持ってませんよねぇ。よちよち。お前は何て名前かなぁ。首輪もして無いからやっぱりノラちゃんかなぁ?」
目の前で何事も無くノラ猫と戯れる二人。
俺は二人に悟られない様、少女の背後へと近づいて行く。
そして、偶然を装いながら、少女の後頭部へと手を翳したんだ。すると……。
薄紫に光り輝く強靭な魔力反応。
……ヤバい。
ヤバい、ヤバいっ!
チクショウッ!
やっぱりコイツ、グレーハウンドじゃねぇかっ!
って言うか、コイツからグレーハウンドの反応が出るって、いったいどう言う事だ? コイツ召喚士じゃなかったのか?
「はぁ、はぁ、はぁ……」
呼吸は乱れ、更に激しさをます鼓動は脳天を突き破らんばかりに暴れ始める。
どうする? どうする? どうするっ!?
……
……逃げよう。
逃げる。
逃げる。
逃げる。逃げるしかないっ!
俺に残された選択肢は唯一つ。
もう、これ以外に方法なんて無いじゃないかっ!
錯乱した俺の脳髄は、保身を最優先とする決定を下したのさ。
考えても見ろ。
前回の事件でいったい何人の信者が死んだ思ってるんだ。
俺の持っているのはチンケな拳銃一丁。
そんな物でどうこう出来る相手じゃ無い。
俺は加藤女史をその場に残し、二人を……いや、少女を刺激しないよう細心の注意を払いながら、ゆっくりと後退り始めたんだ。
当然だ。
当然の選択だ。
不名誉? 何言ってる、自分の命が最優先だ。
加藤の嫁がどうなっても良いのかだって?
そんなもん知るかっ!
今だって、二人で仲良く猫いじってるよ。
加藤の嫁が勝手に選択した結果さ。
俺が思い悩む必要なんて、これっぽっちも……。
(実は、新しい命を授かる事になりまして……)
おいおいおい!
こんな時に、なに余計なコト思い出してんだよぉ!
知らねぇよ。
加藤の嫁と子供がどうなろうと、俺の知ったこっちゃねぇってんだよ。
なんだよぉ、別に俺の嫁でも、俺の子供でもねぇんだよ。
俺ぁ、俺ぁあ……俺だけが助かりゃ、それで良いんだよぉ!
「あっ、あぁ……加藤……さん。ちょっと良いかな?」
「あぁ、はい? どうされました?」
加藤女史が振り向く。
「あぁ、いや。加藤くんがね。駐車場で待ってると思うんだ。だからもう、行かないと……いけないと……思うんだ」
何やってるんだよ、俺ぇぇ!
何で加藤の嫁に声掛けてんだよぉ!
「えぇ? でも、まだ待ち合わせまで時間もありますしぃ」
んだよこの女ぁ!
バカなのか? バカなんじゃねぇのか?
お前の隣にいるのは、最恐の魔獣グレーハウンドなんだよ。
速攻で逃げねぇと、俺もお前もあっと言うまに喰い殺されちまうんだよぉ!
ホント、なに寝ぼけた事言ってるんだよ。
ふざけんなよっ! チクショウ!
「いや……そっ、そうか、そうだね。それじゃあ、俺は先に帰えらせてもらおうかな」
「はい、分りましたぁ。お疲れ様でぇす!」
加藤女史は俺に向かって軽く会釈をすると、再び少女とともにノラ猫を構い始めてしまったんだ。
やれる事はやった。
あぁ、俺はやれることはヤッたぞ。
もう、俺の所為じゃない。もう彼女の自己責任範疇だ。
よし、今のうちの距離を取るぞ。
五十メートル。いや、最低百メートルは欲しい。
そこまで間隔が空いた所で、あとは駐車場まで一気に走ろう。
そうだ、それが良い。
さすがにそこまで距離が空いていれば、いくらコイツだって追っては来ないはずだ。
一歩、二歩……。
俺は少女に悟られない様、ゆっくりと後退って行く。
八歩、九歩……。
そろそろ後退るのも不自然な距離だ。
あとは振り返って、何食わぬ顔をして歩いて行けば……。
――ドン
丁度その時、俺の背中に鈍い感触が。
誰かにぶつかった?
「あれぇ? 加茂坂じゃないかぁ……」
いかにもわざとらしいこの声は?
「奇遇だねぇ、こんな所で会うなんてぇ。それより、僕を本部に残して、こんな所で何してるのさぁ」
「いっ、いやぁ……どちらかと言うと、それは私のセリフかと……」
俺は引きつった作り笑いを浮かべながら、声のする方へゆっくりと振り返ったんだ。
「もう、お体の具合はよろしい……のでしょうか?」
若干十八歳。
この歳で階位は俺より上の司教。
ソフロニア神に祝福され、その名の通り氷を操り、極寒を支配する男。
「あぁ、リーティア司教のお陰で、ほらこの通りさ」
彼は黒革のコートを肩に掛け、グルグルとその右腕を振り回して見せる。
つい先日、再起不能と思われる重傷を負った男とはとても思えない。
「あっ、アイスキュロス様……と言うか、その手は」
これ見よがしに振り回す彼の右腕。
そんな彼の右手には、銀色に輝く槍の様な物が握られているではないか。
「あぁ、そうだね。遠くから加茂坂を見掛けた時には分からなかったけど、流石にこの距離まで来れば僕にだって分かるよぉ」
アイスキュロスの鋭い視線は、既に少女へと注がれたまま。
若造めぇ。
一体誰に聞いて来たんだ?
教団の誰かか?
まぁ、そうだろうな。
俺が来てる事は多くの教団職員が知っている。
って言うか、コイツ、この場で戦闘始める気か?
いくら人の少ない霊園つったって、まだ昼間だぞ。
しかも、少女の隣には加藤の嫁さんまでいるんだっ!
「アイスキュロス様、例の少女で間違いは無いとは思います。ただ、ここは人目もございます。戦闘はお控え頂いて……うぐっ」
若造の左手が俺の喉を鷲掴みにし、なおもジワジワと締め上げて来るではないか。
「加茂坂ぁ。何時になったら覚えてくれるのかなぁ? いい加減説明するのにも疲れちゃったよぉ。あのね? 僕は司教で、キミは司祭。僕の言う事は絶対で、キミの言う事を僕が聞く必要は無い。そうだろ? それが世の中のルールってヤツさ。分かってるよね?」
俺は息苦しさと喉を締め付けられる激痛に耐えながら、それでも必死に頷いて見せる。
「あぁ良い子だね。僕が本国から来る時に教えられたのは、日本人はとっても従順で素直って事さ。まさにその通りだね。加茂坂ぁ、今後もその気持ちを忘れずに居て欲しいよね。それじゃあ、邪魔が入らない様、少し離れた所で辺りを見張っててよ」
そう言った途端。
若造は俺の事を軽く突き飛ばすと、右手に持つ氷の槍を大きく振りかぶったんだ。
え? ここから?
ここから投げるのか!?
確かに少女と若造を結ぶ直線の間には、加藤女史がいる。
少女からは加藤女史側が死角となって、若造の事を視認できてはいないだろう。
だけどそれって……。
「流石に気付かなければ、魔獣だって避けられもしないでしょっと……死んじゃえっ!」
微塵も躊躇する事無く放たれた氷の槍。
「あっ、あぁっ!」
若造の常人離れした膂力が生み出すその推進力は、氷の槍の質量との相乗効果によりマグナム弾を軽く凌駕する破壊力で二人へと襲い掛かった。
――ドドスッ! ドガッ、ガラガラガラッ!
全長二メートル。
鋭い氷の槍は難なく二人の女性を串刺しにすると、更にその向こう側。御影石で出来た墓石を粉々に破壊する。
「……あ……あぁ」
何も……何も言葉が……出て来ない。
加藤女史の左肩甲骨付近に突き刺さった槍は、そのまま右胸部へと貫通。
更に少女の左胸部から右わき腹へと突き抜けている。
ただ、加藤女史を貫通した時点で、氷の槍の切っ先が多少鈍っていたのだろう。
少女側の受けたダメージは予想以上に深刻で、槍が貫通したと言うよりは、ささくれ立った鋸の歯により、胸部の肉を根こそぎ毟り取られたかの様な傷跡を残していた。
「どうだい、見ろよ加茂坂ぁ。一撃。一撃じゃないかぁ。しっかし、召喚士って全然ダメだねぇ。結局魔獣を召喚する前に攻撃されたら、手も足も出ないって事だもんねぇ」
そう事も無げに嘯く若造。
コイツ……。
コイツ、完全に……狂ってる。
◆◇◆◇◆◇
「犾守君ぅん、先に駐車場行ってるねぇ」
「あぁ、はい。よろしくお願いします」
不思議な布包みを抱える香丸先輩が、僕に向かって大きく手を振ってくれている。
うぅぅむ。やっぱ、香丸先輩って良いわぁ。
容姿はもちろんの事、JKには無い大人の雰囲気っつーかさぁ、包容力ぅ?
やっぱ十代の少年が憧れる全ての要素が詰め込まれてるよねぇ。
しかもそれが僕の奴隷って……ぐふふふふ。
まぁ、本人は冗談ぐらいの気持ちかもしんないけれど、そこの所はこれからじっくりと相談させて頂きましょうかね。えぇ、それこそボディランゲージってヤツでね。
……ぐぅえへへへへ。
『お前の思考は本当に下劣だなぁ』
「なんだよ、クロぉ。大体、香丸先輩を奴隷にしちゃったのはクロなんだぞぉ」
そうさ。
結局の所、僕は一度だって手を出しちゃいないんだ。
全部、ぜぇぇんぶ、クロがヤッちゃっただけなんだから。
『はいはい。それより結香の場所は分かってるのか?』
「あぁ、さっき急に反応が弱くなったけど、おおよそはね」
結局あの後。
すぐに道草を食い始める結香は戦力外として捜索から除外。
途中、ノラ猫と遊び始めた所で放って置く事にしたのさ。
それから更に数回、見当違いのお墓を開いた後で、僕たちはようやく『宝具』が隠された場所を発見。
とりあえず目的達成って事で、これから八王子にあるスィーツの美味しいお店へ行く事になったんだ。
もちろん、結香も連れて帰らなきゃいけないから、僕とクロが探しに来たって訳。
まぁ、本当は消してしまえば簡単なんだけどね。
僕が直接触れずに消してしまった場合、折角彼女がここまで経験した知識や情報も一緒に喪失してしまう事になる。
それじゃあ、今日一日連れまわした意味が無いからねぇ。
まぁ、それよりも何よりも僕の服を着てる訳だから、服は回収しないとな。
当然彼女を消しても着ていた服が消える事は無い。
霊園に僕の服だけが取り残されてるって……結構シュールだ。
そう言えば、如月さんったら、ずぅぅっと香丸先輩にべったりだったよなぁ。
なんて言うかさぁ。
僕から香丸先輩を引き剥がしたい……って感じじゃなくって。
どっちかっちゅーと、その顔が乙女になってるって言うかさぁ。
うむ?
うむむむむ?
この部分はもう少し掘り下げてみる必要があるな。
うんうん。もしかしたら、最重要課題になるかもしれない。
……って、そんな事より。
「ねぇ、クロぉ」
『なんだ。どうした?』
「さっきから結香の反応が強くなってるのに弱くなってるって言うかさぁ。ハッキリして来てるのに、弱まってる……って言った方が良いのかな? これって、どう言う事だろう?」
『あぁ、反応がハッキリして来たと言う事は、近付いていると言う証だな。しかしオカシイな。弱まってると言う事は……』
「言う事は?」
『一番ありがちなのは、死にかけていると言う事だ』
「しっ、死にかけてる? おいおい、穏やかじゃないなぁ。なに? それってお腹が空いて死にかけているとか、そんな感じ?」
『いや、比喩的な表現では無く、生物として死にかけていると言う事だ』
「やばいじゃん。それめっちゃヤバいじゃん」
『そうだなぁ。盗賊にでも襲われたか、荷馬車にでも引かれたか……』
「いやいやいや、日本に盗賊なんていないし。それに荷馬車だって……あぁ、交通事故って事ね。はいはいはい。それはあるかも。車にはねられちゃったって事でしょ。あぁ、ありそう。めっちゃありそうだわ。結香まだボーっとしてるからなぁ。ちょっと外に出すの早かったかなぁ。可哀そうな事しちゃったなぁ」
僕はどんどん薄れて行く結香の気配を追いかける様に、霊園の中を走り続けたんだ。
やがて……。
「あぁ、ごめんなさい。ここから先は規制線が張られてまして。関係者以外は立ち入り禁止なんです」
突然、普通の服を着た若者数人に行く手を阻まれてしまう。
あれ? 霊園の職員の人かな? それにしては若いな。
「えぇっと、この先にウチのお墓があって、ちょっと忘れ物取りに行きたいんですけどぉ」
「すみません。実はこの先で地盤不良による表層崩れが発生しまして、墓石が倒壊する様な被害が出てるんですよぉ。ですから、ちょっと危ないのでお通しする事は出来ないんです」
確かに五十メートルほど向こう側。
なにやら青いビニールシートで覆い隠された一角が見える。
「あぁ、そうですかぁ。いや、ホント、あのビニールシートの結構近くなんですけど、ちょっとだけダメですかねぇ」
「ホントにごめんなさい。誰も入れるなって事なので。それに、墓石が崩れた時に被害に遭われた方もいるそうなので、かなり危険なんです」
被害に遭われた方?
あぁ、そう言う事か?
結香が墓石倒壊の事故に巻き込まれた可能性が高いな。
どうする?
ここで被害者の知り合いだって言うべきか?
そりゃ、言うべきだろうな。
身元不明の怪我人が出たとあっちゃ、病院の人達も困るだろうし。
どうするかなぁ。保険証とか無いよなぁ。如月さんのを借りるか? あはは、またお金をむしり取られそうだな。
まぁそれに、僕の服も回収しないといけないもんな。
「あぁ、あのぉ。僕、その被害に遭われた方の……」
「どうされましたか?」
僕が事情を説明しようとしたその時、若者の後ろから一人の男性が声を掛けて来たんだ。
「あぁ、加茂坂さん。こちらの方が、規制線の中に入りたいと」
あがっ!
あぁぁぁぁあっ!
コイツ、コイツあの時のトレンチコート男じゃねぇかっ!
「あぁ、すみません。ちょっと事故がありましてね。どういったご用件でしょうか? 責任者は私ですので、私が承りますが」
マジか、マジなのか?
って事は……。
コイツら、霊園の職員じゃなくて、教団のヤツらって事?
「あぁ、いや……」
丁度その時、ブルーシートの中から顔を出したのは。
うげっ! マジか!?
アイツ金髪だっ! ドS野郎まで生きてる! しかもピンピンしてやがるっ!
『タケシっ! マズい、あの時の司教だ。この距離であればヤツはまだ気付いていまい。逃げろっ、今すぐ逃げるんだっ!』
クロの極度に焦り切った思念が僕の脳へと突き刺さる。
「あぁ……えぇっと。すみません。区画間違えちゃったみたいです。あれぇ? オカシイなぁ。この霊園広すぎて迷っちゃうんですよねぇ」
「えぇ、そうですね。結構広いですからねぇ」
大人な反応を示すトレンチコート男。
「はい、あぁごめんなさい。失礼しましたぁ」
僕はそれだけを言い残すと、とにかく怪しまれない様、自分で出来うる限りの冷静さを保ちながらその場を後にしたんだ。
ただ、僕の背中に突き刺さるトレンチコート男の鋭い視線。
それは、僕の心の奥底に『恐怖』と言う深い傷を刻み付けるには十分すぎる力を持っていたのさ。




