第2話 淫夢の中の少女
「クッソ……チクショウ。……入ら……ねっ!」
――ガチャ、ガチャガチャッ
「なんで……なんで入んねぇんだ……よっ!」
僕は小刻みに震える手でようやくドアの鍵を開けると、急いで自分の体を部屋の中へと滑り込ませたんだ。
「はぁ、はぁ……っはぁ、はぁ……」
何がドコからどうバレたのかは分からない。
だけど、アパートの前で写真を撮ってるヤツが何人か居たのは間違いない。
うわぁ、やべぇ。
何だよこれぇ。どうなってんの、ホントマジか。
僕が一体何をしたって言うんだよ!
とにかく早く必要な物だけ持って実家に帰ろう。
って言うか、こんな所に一人で居たら何されるか分かったもんじゃ無い!
「えぇっと……とりあえずノートPCと教科書……ぐらいで良いか」
僕はスニーカーを脱ぐのももどかしく、急いで部屋の方へ。
――ガンッ、ガラガララ……
「痛って! あぁっもぉ、なんだよぉ!」
アパートは一人暮らし用の1K。
玄関を入るとすぐに狭いキッチンがある。
電気も付けず部屋に入ろうとした僕は、廊下に置いてあったビニール袋を思わず蹴飛ばしてしまったようだ。
「あぁそうだ、クロ。アイツどうすっかなぁ……」
蹴飛ばしたのは昨日買って来たばかりのネコ缶の山。
実は一昨日の雨の晩。
僕は近所にあるコンビニへと寄った帰りに、道路脇で動けなくなっている子猫を偶然見掛けたのさ。
アパートは動物不可なんだけど、これは緊急事態だし、子猫だし、弱ってるし、とにかく、とにかく……弱ってるし。
まだ小さいから多少鳴いたってたかが知れている。
もし大家さんに見つかったって、その時はその時。
潔く謝れば良いじゃないか。
どうしても子猫を見捨てる事が出来なかった僕は、そのまま家へと連れて帰る事にしたんだ。
子猫は単にお腹が空いていただけだったんだろうな。
僕が作ってあげたミルク粥をしこたま食べると、そのまま気持ちよさそうにスヤスヤと眠ってしまったのさ。
まぁなぁ。
この大きさなら、まだ乳離れしたばかりだろうし。
仕方が無い。独り立ちできるまで、しばらく置いてやるとするかぁ。
そしてその夜。
僕は不思議な夢を見たんだ……。
◆◇◆◇◆◇
「ミィー……ミィー……」
あ……猫が……子猫が鳴いてる。
またお腹が空いたのかなぁ……?
って言うか、あんまり鳴かれるとマズいなぁ。
近所から苦情が来るかもしんないし……。
僕は薄明りの中、そっと目を開けてみたんだ。
すると僕の目の前には、美しい少女の顔が。
「ミィー……ミィー……」
アンバーに輝く妖しい瞳が僕の瞳を捉えて離さない。
しかもボブに切りそろえられた毛先が、そっと僕の頬をくすぐるんだ。
「おぉ、クロ……お前……メスだったんだなぁ……」
よくよく考えればおかしな話だけど。
その時僕は、なぜかその娘がクロだって分かってたんだ。
淡い月明かりに照らし出された彼女の美しい裸体。
「あぁ、クロ……綺麗だよ」
小刻みに震える少し尖った耳。
腕の先や足先は黒く柔らかな毛でおおわれていて、ネコであった名残が感じられる。
いや。そんな事は全て些事だ。
最大の特徴は何といっても、彼女の背後でゆらゆらと揺蕩う黒く細長い尻尾。
「ミィー……」
彼女に僕の気持ちが伝わったとでも言うのだろうか。
クロはゆっくりとその愛らしい顔を近づけて来たのさ。
薄っすらと紅の差す頬が何とも魅力的で仕方が無い。
そして……僕たちはゆっくりとキスをした……。
生まれて初めてのキス。
何度も、何度も。
そう、ゆっくり、ゆっくりと。
お互いの感触と存在を確かめ合うかの様に……。
完全な怪奇現象。
本来は絶叫をあげて飛び起きるシーンなんだろうけど。
人間寝ている時って、意外とこういう矛盾は全て受け入れちゃうものなのかもしれない。
全然気にならないって言うかさ。
まぁ、クロがあんまり美人だったから……って言うのもあるんだろうけど。
あぁ、そうそう。名前、名前。
真っ黒の子猫だったものだから、『真っ黒クロ助』のクロ……って事で。
安直だと嗤うなら嗤え。
まさかこんな付き合いになるなって、思いもよらなかったんだから。
そんなクロったら、とても少女とは思えないような妖しい笑みを浮かべながら、今度は僕の耳元へと唇を這わせ始めたんだ。
ちょっとザラザラした舌がとっても気持ちいい。
その舌はやがて胸へ。そして脇腹へ。
あぁ、そうそう。
いま思えば、僕も全裸だったんだよなぁ。
まぁ、人間寝てる時って、意外とこういう矛盾は全て……以下同文。
やがて、おへそのまわりでひとしきり焦らされたあげく、遂には僕の……僕の所へと到達。
「クロ……気持ちは……気持ちはありがたいっ。大人の……大人バージョンの『鶴の恩返し』って事だよね。だけど……僕……始めてだからっ……そのぉ……直ぐに……そのぉ……」
――(R18)
結局僕は、夢の中のクロと『はじめて』を迎えてしまった訳だ。
いやぁ。
まさか夢精って、あんなに気持ちの良いものだとは知らなかったなぁ。
もちろん本当のヤツを知らないから、比較のしようも無いのだけれど。
少なくとも僕の人生の中で、ダントツ一位に輝く経験だったと自信をもって言える。
そんなクロ。
日中どこかに出かけて行っては、夜中になると帰って来る。
完全にホテル代わりに使われている様な気がしないでも無いけど。
まぁ、それはそれで構わない。
これが世に言う淫夢ってヤツだな。
とはいえ、おとぎ話の世界じゃあるまいし。
子猫がそんな風になるはずも無い。
一瞬だけど、霊的な何かかな? と疑わなくも無かったけれど。
まぁ、特段生活に支障がある訳でもなく、何か精気を吸い取られている様な感じもしない。
どちらかと言うと淫夢を見た翌朝には、スッキリと元気になっていたぐらいだ。
やっぱり動物を大切にすると、良い事があるって話かな。
◆◇◆◇◆◇
「クロ……どうするかなぁ」
仕方が無い。
どこかに出かけてるんだったら、そのまま置いて行くしか無いだろう。
元々がノラ猫だ。きっと一匹でも生きて行けるに違いない。
僕は蹴飛ばしたネコ缶をキッチン脇へと無造作に追いやりながら、部屋へと通じるドアへ手を掛けようとしたのさ。
……すると。
――スッ……
キッチンと部屋を隔てる引き戸が音も無く開いたんだ。
「うおわぁ?!」
「あぁ、やっと帰って来たのか。お前を待っていたんだ。今回はかなり壊れたからな、やり直す事にした。早く済ませるぞ」
そう、早口でまくし立てる少女。
「だだだっ、誰っ! って言うか誰ですか!? どうやってここに? どどど泥棒? 泥棒さんですか? いや、お金はっ、お金は今月まだおろして無いから手元にはあんまり無くって。って言うか、けけけ、警察呼びますよ! けけけ、警察っ、けいさっ……うぐっ」
パニックになり、思わず大声を張り上げそうになった僕を、彼女は慈しむかの様にそっと抱き締めてくれたんだ。
そればかりか、彼女の柔らかい唇がそっと僕に重なって……。
「ん……んんっ」
ファーストキス。
淫夢を除けば、リアルではこれが僕のはじめてのキスとなる。
まるで別の生き物の様に蠢く彼女の舌先。
それが、僕の口内をくまなく愛撫し続けるんだ。
ちょっとこれ……濃厚すぎるんじゃ……。
そのあまりの快感に、それ以上何も考えられ無くなってしまう。
「ふっ……ふぅぅ……」
ようやく訪れた小休止に、思わず大きなため息が漏れる。
流石に初心者の僕には、息継ぎ無しのディープキスはハードルが高い。
「どうだ? 少しは落ち着いたか?」
そう話し掛けてくる彼女の両腕は、いまだ僕の事をホールドしたまま。
「えっ、えぇ。落ち着いたと言うか……余計に分からなくなったって言うか……」
僕も突然の事にどう答えて良いのか分からない。
ただ、そんな中でも一つだけ分かった事があるんだ。
それは。
パニックになった相手を黙らせるのに、キスは意外に有効な手段である、と言う事かな。
まぁ、それも美男美女だけの特権なのかもしれないけれど。
そんなどうでも良い事を考えながらも、見ず知らずの少女の顔をマジマジと見つめる僕。
少し切れ長の瞳に長い睫毛。
薄暗い部屋の中でも薄っすらと輝いて見える頬に、少し厚みのある可愛い唇。
あぁ、あの唇がついさっきまで僕と繋がっていたのかと思うと、ただそれだけで何か妙な罪悪感が沸き上がって来るから不思議だ。
いやぁ……待てよ。
見ず知らず……と言ったけど、この少女、どこかで見覚えが……って。
「あのぉ……如月……さん……ですか?」
「ん? あぁ、そうそう。如月、如月。如月綾香。それが私の名前だな。源氏名かと思ったけど、本名のようだな」
まるで他人事のような話し方だ。
って言うか『源氏名』じゃなくってそこは『芸名』だろ?
「それより、早く済まそう。夜に出歩く時は、やっぱりお前の方が都合が良い」
そう言うなり、彼女は僕のベルトを外しに掛かったんだ。
おいおい、めちゃめちゃ手際が良いな。おい。
「いやいやいや、ちょっと待って。待ってって。済ますって何を? 今? ここで?」
もう何がなんやら分からない。
済ますっつったら、当然そう言う事に違い無いとは思うけど、何しろ彼女とは初対面だし、一応確認だ。
確かに今話題の二人ではあるけれど、余計にそれはそれでマズいだろう。
「もちろんだ。お前はかなり早いからな。確か五分と持たなかったし」
やっぱりソレかぁ……。
って言うか、ソレしか無いよね。
でも五分も持たない……は、ちょっと失礼じゃないかな?
いや、やろうと思えば三十秒でもイケるよ。自信はあるよ。いや、あるけどもぉ。
って、早さの方を自慢してどうする。
「ほらほら、早く脱げ。それとも前回みたいに脱がせてもわらないと出来ないのか? 本当にもぉ、困ったヤツだなぁ」
既にワイシャツのボタンを外しに掛かっている彼女は少し呆れた様子だ。
って言うか前回ってどういう事? 前回僕は脱がせてもらってたって事?
えぇ? 初対面なのに? 前回? えぇ? どゆこと? えぇっ?
「……」
でもまぁ……良っか? こんな美少女とのチャンスなんて、二度と来ないかもだし。って言うか、二度もある訳ないし。
何かの間違いかもしれないけど、少なくとも間違えたのは僕じゃない。
そうそう。『据え膳食わぬは男の恥』と言うじゃないか。
とりあえず今はそんな事してる場合じゃ無い様な気がしないでも無いけど。
まぁ、良っか……。
溢れ出す性欲にあっさりと負けを認め、全ての思考を手放す旨の合意書に全力でサインをしようとした矢先。
――ピンポーン
玄関のインターホンが来客を告げる。
なっ! 何というバッドタイミング!
「あぁ、すみません。犾守武史さんの御宅でしょうか? 私、城南警察署の中田と申します。少しお話を伺いたい事がありますので、お時間頂けませんでしょうかね?」
玄関カメラに映し出された映像は、紛れも無い国家権力の象徴とも言うべき制服に身を包む、屈強な警察官二人の姿に他ならなかったんだ。




