第106話 マズルフラッシュ
しっかし、この藍麗ちゃんの落ち着き様は尋常じゃねぇな。
もしかしたら……って言うか、絶対に俺達の知らない情報を握ってるに違ぇねぇ。
そう確信した俺は、四十を過ぎて性能低下が著しいアルコール漬けの脳みそをフル回転させ始めた。
「そ、それはそれとしてだ。もし分かってるなら教えてくれ。どうして俺達は例の血を浴びたにもかかわらず、いまこうして生きていられるんだ?」
そうだ。まずはこの疑問だ。
片岡と俺。
二人が例の血を浴びてから、既に数分が経過している。
にもかかわらず、いまこうしてピンピンしてるって言うのはどうしてなんだ?
その理由が全く分からねぇ。
実際、俺が目にしたヤツらは、血が触れてから数秒もたたずに体が破裂していたはずだ。
そんな切羽詰まった俺からの問い掛けに、藍麗ちゃんは慈愛のこもった笑顔で応じてくれる。
「そうですね。単刀直入にお話しするとすれば、蓮爾 様の祝福が止まったから……と申し上げておきましょうか」
「祝福が……止まった?」
「はい。魔力をお持ちでない加茂坂様には分かり辛いかとは存じますが」
と前置きした上で、そっと俺のトガに触れる藍麗ちゃん。
「いま、加茂坂様のトガに付着した血液からは、蓮爾 様の強い魔力は感じられません。恐らく、蓮爾 様の祝福の効果が既に切れているものと考えられます。この状態であれば、血液に触れたとて、繭に取り込まれる様な事は無いでしょう」
なるほど。
さっきは盛大に血の波が押し寄せて来やがったもんだから、反射的に逃げてはみたが。
どうやら、既に蓮爾 様の祝福は止まってたらしい。
俺は第二級聖遺物である『ソフロニアの手袋』をはめた手で、そっと血液の付いた部分をなぞってみる。
すると、微かな魔力反応はあるものの、それは蓮爾 様の持つ強い魔力光ではなく、既に魔力の残滓と言うレベルでしかない。
なるほど。
彼女達は持前の能力で、この血液の中から蓮爾 様の魔力が抜けている事を感じ取っていたと言う訳か。
でも……だったらもっと早く言って欲しかったぜ。
こちとら、軽いとは言え幼女一人を抱きかかえての、全力疾走をブチかました訳だからなぁ。
この歳で短距離とは言え、全力疾走はホント、マジでツラい。
いま現在、両膝はガクガクと震えたままで、まともに歩く事さえ難渋している状態だ。
こりゃ、明日は完全に筋肉痛だな。
でもまぁ……明日が迎えられれば……の話だが。
そんな縁起でもない思いを身震い一つで吹き飛ばした俺は、更に次の疑問を口にする事で、気持ちの切り替えを図る。
「そう言えば藍麗ちゃんよぉ。例の血の玉ってヤツぁ、ある程度育った所で、今度は少しずつ大地へ返して行くって言ってなかったっけか?」
「はい、申し上げておりました」
でも実際にはバケツをひっくり返したみてぇに、血の玉が地面に落っこちて来た感じだったよな。これじゃあとても、少しずつ大地へ返すとは言えねぇ。
「いや、俺ぁ藍麗ちゃんの予想が外れた事を責めてる訳じゃねぇんだよ。それよりも、この血の落ち方ってぇのが気になってな。もしかしたら、藍麗ちゃんにとっても予想外の出来事だったんじゃねぇのか? もしそうだとしたら、これって……」
俺がそう言葉を濁すのに合わせて、今度は紅麗ちゃんが堰を切った様に話し始めた。
「加茂坂様、出来れば詮索はそのぐらいにしていただいてもよろしいでしょうか? まずは、急ぎ蓮爾 様の元へと参りましょう。一刻の猶予もございませので」
「え? それってやっぱり、そう言う事?」
おっとりした藍麗ちゃんとの会話で、いらない余裕をかましていた俺だったが、どうやら今は急を要する事態らしい。
「加茂坂様のご推察の通りかと。本来であれば、蓮爾 様のお力で徐々に大地へと返されるべき繭なのですが、この様に突然落下したと言う事は蓮爾 様の身に何か想定外の事が起こったに違いありません」
マジか!
って言うか、やっぱりかっ!
「こうしちゃいられねぇ! よしっ、全員で蓮爾 様の元へと向かうぞっ! 先頭は俺と紅麗ちゃん。その後ろに藍麗ちゃんが入ってくれ。殿は片岡っ、お前だ。もし後ろから敵が現れたら、早めに報告しろっ!」
「承知しました」
片岡からの無愛想ながらも確固たる意思を含んだ返事を確認した後、俺は紅麗ちゃんを連れて、いま逃げて来たばかりの回廊を小走りで舞い戻って行った。
大理石で造られた回廊は、ぶちまけられた大量の血と糞尿の所為でかなりツルツルと滑る。
確かに。
これだったら片岡がコケるのも無理はねぇやな。
しかも、この異臭ときたら……。
鼻が曲がるとは良く言ったもんだ。
出来る限り口呼吸だけで済ませようとはしてはみるものの、問題は臭いだけではなくて。
なにしろ、異臭の原因がナニであるのかを知っている身としては、この臭いを含む空気自体を吸い込みたく無い……と言うのが正直な気持ちだ。
とは言え、息もせずに走れるはずもなく。
俺はトガの裾で鼻と口を覆いつつ、血まみれの回廊を黙々と走り抜けて行く。
やがて、丁字路に差し掛かったあたりで、回廊の出口から兵士達と思われる喧噪が聞こえて来た。
おぉ、揉めてるなぁ。
この調子じゃあ、ヤツらの混乱はそう簡単にゃ治まりゃしねぇだろう。
となれば、時間的な余裕はまだあるはずだ。
この隙に蓮爾 様を連れ出して、大聖堂経由で東京へと逃げ帰れば良い。
東京に戻りさえすりゃ、武器や弾薬も十分にある。
場合によっちゃ、特異門の前にバリケードでも作って、ヤツらを迎え撃つ事だって出来るはずだ。
なにしろ、あの狭さだ。
絶対に大軍は入って来れねぇし、どう言う訳か、ヤツらの武器は、槍に剣って言う古風な装備しか無さそうだしな。
現代日本の兵器、舐めんなよぉ。
ガチもんで、長篠の戦いを再現してやんぜよっ!
とは言ったものの。
どうにもあの特異門ってヤツぁ、いまいちどう言う理屈で動いてんのか分からねぇし、心底信用しちゃいねぇんだが。
まぁ、そんなこと言ってても埒が明かねぇしな。
結局の所、良い感じの『ドコでもドア』って事なんだろう。
科学的な根拠は某国民的アニメにガッツリと丸投げした俺は、早々に考えるのを諦め、とにかく目の前に横たわる問題へと集中する事に。
その後も時折立ち止まっては、植木の影などに敵が潜んでいない事を確認してみるのだが、ただの一人として生存者を見つける事は出来ない。
誰もいねぇな。
そりゃあ、当然ちゃ、当然か。
この辺りは蓮爾 様の発動した祝福の影響下にあった訳だからな。
生きとし生けるもの。
その全てが例の繭ってヤツに取り込まれちまったって訳だ。
それにしても恐ろしいねぇ。
俺はついさっきまで人であったはずのナニかを器用に避けながら、目的の場所へと急いだ。
そしてようやく、俺達は壁の一部が崩壊した大きなドアの前へと到着したんだ。
「ここだな。例の会議室は」
蓮爾 様と別れたのが、ついさっきの事のように感じられる。
って言うか、ホントについさっきなんだよな。
この僅かな間に、大理石の壁は大きく崩れ、両開きとなっているドアの片方も、どこかに吹き飛んでしまったようだ。
「よし。藍麗ちゃんと紅麗ちゃんはここで待機だ。もし兵士のヤツらが来やがったら、大声で俺達に知らせてくれ。片岡は俺と一緒に入るぞ」
「か、加茂坂様……」
紅麗ちゃんが何か言いたげに、俺の名前を呼ぶ。
分かってる。
自分も連れて行け……って言うんだろう。
蓮爾 様の侍女として、真っ先に主の元へ行きたい……と思うのは分らないでもねぇ。
だがしかし、未だこの神殿内の結界は維持されたままだ。
この状態では、二人の能力も活かす事はできやしねぇ。
今回の場合だけで言えば、完全に足手まといだ。
「気持ちは分かる。だが、今は駄目だ」
俺の真剣な表情に、紅麗ちゃんが無言で俯いてしまう。
「加茂坂様……」
今度は何だ?
あぁ、今度は藍麗ちゃんか。
おっとりさんの藍麗ちゃんだが、気持ちは妹である紅麗ちゃんと同じと言う事だろう。
だが、双子の姉だろうが、なんだろうが、連れて行く訳には当然行かない。
何度言われても、ダメなものは絶対に駄目だ。
「あぁ、藍麗ちゃん。いくらお姉さんの頼みと言っても、こればっかりは……」
と、俺が言いかけた所で、藍麗ちゃんがゆっくりと口を開いた。
「加茂坂様。私のお伝えしたい事は、その件ではございません」
「え?」
その件じゃなくて、なんなの?
「加茂坂様。蓮爾 様の事、何卒お願い申し上げます」
あぁ……。
なんだ。そう言う事か。
単なる励ましって事だな。
「おっ、おぉう、分かった。俺に任せておけ」
少し肩透かしをくらった様な気がしないでもないが、まぁ流石は双子の姉と言う事か。優しくて、物分かりが良いのは非常に助かる。
なぁんて言う彼女への想いは、次の一言で軽く吹き飛んだ。
「ただし、加茂坂様。蓮爾 にもしもの事があった場合には、筆舌に尽くしがたいほどの苦痛と恥辱にまみれたまま、冥府への扉を通っていただく事になりますので。ゆめゆめ、お忘れなきように」
うぉぉいっ!
そのセリフっ、どっかで聞いたぞ。
ほんのちょっと前にも言われたよね。コレ。
って言うか、ちょっと前回よりランクアップしてない?
ねぇ、前回より、もっと、もぉぉっと意地悪になってないっ!?
恐ろしいわぁ、この娘。
どんだけ俺を冥府への扉へ通したいの?
恐いわ。ホントめっちゃコワイ。
ねぇ、俺の事キライ? ねぇねぇ、俺の事、本当は嫌いなんでしょ!?
その静かな迫力に、思わず二の句が継げない状態の俺に対して、彼女は。
「いいえ。嫌っておりませんよ」
と、意に介す素振りも見せない。
って言うか……え?
いま……俺の心……読んだ?
ねぇ、俺の心、読んだの?
「はい、読ませていただきました」
うそうそうそ。
うぅぅそ、うそうそ。
そんな事ある訳ないじゃん。
恒例の『俺の顔にそう書いてある』って、ヤツでしょ?
そう言うヤツなんでしょ。
俺って、分りやすい性格してるからさぁ。
つまりそう言う事なんでしょ?
ねぇ、そうだと言って。
って言うか、もし心を読んでるんだったら、これ分かるかな?
えぇっとぉ……。
それでは、計算問題です!
イチ、たす、イチ……は?
「……二、ですね。うふふふ」
とか言いながら、微笑み返してくる藍麗ちゃん。
うぉぉぉぉ!
ガチやったっ! この娘っ! ガチやったぁぁぁぁ!
あまりの衝撃に、顔中の毛穴と言う毛穴から、冷い汗が一気に噴き出した。
「あっ、あのぉ……ごめんなさい」
突然。なんの脈絡もなく藍麗ちゃんに謝ってしまう俺。
片岡が全体的に無表情ながらも、魔訶不思議なモノでも見るような目つきで、俺の事を睨みつけてくる。
はわわわ。
俺、失礼な事言ってないよね。
って言うか、思って無いよねっ!
ヤバいのはセクハラか?
セクハラだな?
幼女へのセクハラは、一発アウトだっ!
しかも、心が読まれてるって事は、発言した段階でアウトじゃなくって、思った段階で既にアウトって事だろ?
えぇぇ! それは無理ゲーだろう?
だって、『思う』よな。
『思う』事なんて、結構あるよな。
それをしちゃダメって、いったいどんな仕打ちだよぉ!
「加茂坂様、わたくし、大抵の事には慣れておりますので、ご安心下さいませ。要するに、蓮爾 様を無事にお連れいただければ、それだけで問題はございません。と言う事で、まずは加茂坂様の御武運を、お祈り申し上げております」
そう言いながら、深々と頭を垂れる藍麗ちゃん。
「あぁぁ……はい、頑張ります」
すっかり意気消沈した俺は、重い足取りで、壊れたドアの方へと向かって行く事に。
ただ、そんな落ち込んだ状態の俺を見るにみかねたのだろうか。
藍麗ちゃんが、もう一言付け加えてくれたんだ。
「そう言えば加茂坂様。主の蓮爾 様が、先日もこう申しておられました。加茂坂様は何時も頼りになる人だと、そして、私の右腕たるべき人である……と」
え? それ、マジですか?
「はい、マジですよ」
うぉぉぉ!
マジか、マジなのか。
蓮爾 様に認めていただけるってなぁ、部下冥利に尽きるってもんよっ!
いやぁ俺。急にヤル気が出て来たわ。
多少、心の中が読まれたからって、どうって事はねぇ。
もともとヤマシイ事なんざ、これっぽっちも無ぇんだからな。
そうさ、そうだよ。
俺の守備範囲はもっと上なんだ。
幼女に興奮する様な俺じゃねぇ。
そんないたいけな幼女に対して、あんな事や、こんな事、ましてや、そんな事をしようなんざ、これっぽっちも思っちゃいねぇんだからなっ!
「か、加茂坂様。いくら慣れているとは言え、さすがにそれはちょっと……」
とかなんとか言いながら、頬を赤らめて俯く藍麗ちゃん。
隣に居る紅麗ちゃんは、何がなんだかわからず、怪訝な表情を浮かべている。
あはははは。
よしっ!
とりあえず踏ん切りがついたぞ。
内心、なんて俺って単純なヤツなんだ? とも思いはするが。
事ここに及んでは、グチグチ悩んでいる方が絶対にマズい。
一旦余計な事は忘れて、本来の任務に全力を尽くすべきだ。
そうさ、俺の仕事は蓮爾 様の警護だ。
それ以外の事は、全て些事、些末でしかないっ!
本来の自分の姿を取り戻した俺は、早速ドアの前へ進み出ると、片岡の事を顎で呼びつける。
「片岡ぁ、お前が先に入れ、俺が援護する」
「はい、わかりました」
場数を多く踏んでるのは確かに俺だ。
そんな俺が前に出る、と言うのがセオリーなんだろうが、今回は相手がどんなヤツなのかすら、全くわかっちゃいない。
場合によっちゃあ、俺の持つノウハウや知識が、裏目に出る事だってあるかもしれねぇ。
となればだ。
知識よりもスピード。
ノウハウよりもパワーを優先し、片岡を先行させるべきであると判断。
片岡の方も俺の期待に応えようと、少しだけ頬を紅潮させてゆっくりと頷いて見せる。
うしっ。行くかっ!
俺も静かに頷き返すと、再び顎で突入の合図を出したんだ。
――ジャリッ、シャリジャリッ
左手にはGlock17、右手にはナイフとナックルダスターを握り込み、大小様々な大理石の破片が散らばる床の上を慎重に進む片岡。
俺は更に周囲への警戒を深めつつ、片岡の背後に続いて部屋の中へと入って行った。
――ジャリッ、シャリジャリッ
部屋の中に、灯りは無い。
だが、部屋の中が真っ暗闇かと言えば、そうでもない。
と言うのも、天井部分にはかなり大きめの穴が開いており、そこから星の光が差し込んでいるためだ。
恐らく蓮爾 様が祝福を発動させた際に壊したものだろう。
俺達ふたりは、そんな弱々しい光だけを頼りに、部屋の中を突き進んで行く。
星明りが微かに及ぶのは、部屋の中央付近まで。
残念ながら、それより奥の方は闇に包まれたままだ。
確か蓮爾 様が座っていたのは、部屋の最奥、左側の席。
俺は片岡に対し、テーブルの右側から順に奥へ進む様にと指示を出した。
その指示に、小さく頷く片岡。
俺はと言えば、片岡の反対となる左側から、部屋の最奥を目指す形に。
――ジャリッ、シャリジャリッ
再びゆっくり、ゆっくりと部屋の最奥に向かって歩みを進めて行く。
それにしても、人間の目と言うのは実に素晴らしいもので。
星明りに慣れるにしたがって、あれだけ真っ暗だと思っていた部屋の奥の方ですら、おぼろげながらに見え始めた。
そんな中。
「コイツぁ……」
俺は小さく呟きながら、テーブルと椅子の間に挟まっている黒い影に手を伸ばした。
――カサカサ……カサカサカサ……
手触りとしては、乾燥した木片? と言う感じか。
もちろん、こんな場所に材木が置かれているはずもなく。
しかも、この材木のような黒い影には、俺のと同じ風合いのトガが巻き付けられている。
司教位の誰か……だな。
成仏してくれよ。
おれは黒い影をそのまま放置すると、更に部屋の奥の方へと進んで行く。
一、二……三。
部屋の最奥から三番目の席。
ここが蓮爾 様の席だ。
「誰も……いねぇな」
当然と言うべきか。
蓮爾 様の姿は見えない。
やっぱり移動したのか?
だが、蓮爾 様の祝福は、最後まで大きく移動してはいなかったはずだ。
となれば、必ずこの部屋のどこかに蓮爾 様は居るはずなんだが……。
そう思い直して、ふと辺りを見回した、その時。
「ヌシは……誰じゃ?」
「!?」
突然の言葉に、俺は声のした方へとGlock17を突き出した。
と、同時に。
――パン! パン!
俺の右手側から乾いた発砲音が二つ。
撃ちやがったなっ! 片岡ッ!
そんな彼女のGlock17から発せられた発砲炎は、ほんの一瞬ではあるけれど、部屋の中を真昼のように明るく照らし出す事に成功する。
「うぐっ!」
たった二発。
それだけの光だけで、俺の網膜に焼き付けられた、おぞましき光景。
そこには、苦悶の表情で口から血を流す蓮爾 様の姿が。そして、そんな蓮爾 様の髪の毛を無造作に掴み上げ、ただ茫然と立ち尽くす一人の老人の姿が映し出されていたんだ。




