第21話:さよなら
家に閉じ篭ってから一月経とうとしていた。外の世界ではマフラーやコートを着る人達が増え、秋の訪れを窓ごしに教えてくれていた。
僕は精神的にだいぶ落ち着きを取り戻し、家では母イクヨが留守にしている分、掃除や食事作りに専念するようになった。
食事は買い物には行かず、冷蔵庫にある余り物で作った。簡単な物しか作れなかったが一人で食べる分には問題なかった。
母イクヨが休みの日は、母イクヨが作ってくれた。その度に料理の仕方を教わり、一月経つ今では多少マシな物を作れるようになった。
「こんな風に過ごすなんて何年ぶりかしら。あんたが引き篭りなんてしない限り永遠に無かったかもね。」
母イクヨがイジワルでもするように皮肉を込めて言った。
「そんな事ないよ。夏休みとか冬休みとか、のんびり家にいる事あるじゃん。」
「あんた家にいる時は何もしないじゃない。こんな風に料理作ったり、掃除なんてしてくれた事ないでしょ?」
言われてみればその通りだった。きっと母イクヨに対する罪悪感が、僕にそういう行動をさせているのだろう。
「まぁ、こんな事になって言うのもなんだけど、あんたが家の事やってくれて助かるよ。」
母イクヨは嬉しそうにそう言った。それを聞いて僕も、こんな状況にも関わらず、救われた気持ちになった。
今学校ではどうなっているんだろう?そんな疑問が過ぎった。部屋の中、ベットの上で仰向けになって、呆然と天井を見上げていた。
僕の机は相変わらず汚されているのだろうか?置きっぱなしにしていた体操着は無事なのだろうか?キドキはまだ、僕が不登校になってからも嫌がらせを続けているのだろうか…。そう考えると、学校に行くのが怖くて堪らなかった。
寝ようと布団に潜っているとケータイが鳴った。知らない番号だ。不安を抱きつつ電話に出ると女の子の声が聞こえてきた。
「もしもし?静谷?」
僕を遠慮なく呼び捨てにする女子は一人しかいない。
「もしかして三浦?あれ?僕の番号教えてたっけ?」
「べ、別に良いじゃんそんな事 。あたしがあんたの番号知ってちゃ悪い?」
「いや、悪いとかそんなんじゃないけど…。」
相変わらず三浦は意味が分からない。とりあえず用件を聞こうと「で、どうしたの?」と尋ねた。
「どうしたのって、あんた大丈夫なの?ずっと学校来てないじゃん!」
「ああ、大丈夫っちゃ大丈夫だよ。家の中は平和そのもの。」
僕が悪びれた様子も無く明るくそう言うと、電話の向こうで大きなため息が聞こえて来た。
「…まぁ、元気そうなのは良かったけど…。
学校は?いつまで来ないつもりなの?」
その問いに僕は言葉を詰まらせた。なんて言えば良いのか全く分からなかった。三浦がそんな僕に痺れを切らせて言った。
「今学校でさ、ヤバイ事になってるんだよ!加賀ってあんたの友達でしょ?」
カガリ?まさかここでカガリの名前が出てくるとは思わなかった。
「カガリがどうかしたの?」
「どうしたもこうしたも、あの不良めちゃくちゃだよ!なんでか知らないけど今もう一人のあんたの友達に目を付けててさ。校舎裏に連れてったりして、結構酷い事してるみたいなんだよ!」
「…もう一人の友達って、もしかしてキドキ?」
「もしかしなくてもそうじゃん!あんたあれどうにかしてよ!静谷なら友達なんだからどうにか出来るでしょ?」
話しを上手く飲み込む事が出来なかった。カガリがキドキをイジメてる?僕はハッとして、放課後に見せたカガリの酷く濁った目を思い出した。カガリは当時、先生も見離すほどの不良だったのだ。
「…でも、カガリにもそうする理由があるんだと思う。たぶん、それは僕の為にしてるんだ。」
「…何それ?どういう事?」
僕はしばらく黙った。
カガリはきっと、僕の復讐をしてるんだ。キドキがしたような陰湿な嫌がらせとは違って、多少方法は手荒いが、僕が受けて来た苦しみをキドキに味合わせようとしている。
…だけどこんな事、僕は望んでいない。あまりにバカげた事だ。しかし、まず先に友達として、僕は三浦のカガリに対する誤解を解いておきたいと思った。
「実は…キドキだったんだ。」
「え?」
「僕にここ数カ月嫌がらせをしていた犯人はキドキだったんだ。カガリはそれを知って、僕の仕返しをしてるんだと思う…。」
僕が苦しそうにそう言うと、電話の向こうの三浦が黙った。無理もない。こんな話し信じられる訳がない。三浦も僕とキドキが親友だったのを知っている。
しばらくの沈黙の後、三浦が怒鳴った。
「バカッ!!何言ってんのよ静谷!!そんな訳ないでしょ!!」
案の定三浦は僕の言葉を否定した。…だけど、何も知らない三浦にバカ呼ばわりされると無性に腹が立ち、僕もムキになって言い返した。
「僕だってこんなの信じられないよ!だけど、キドキが自分でそう言ったんだ!そんな事言われるまでは僕だって信じてたんだ!」
嘘だ。僕は自分でそう言いながらその事に気付いた。僕は放課後にキドキを見た時から信じていなかった。
「だって…だってそんなの有り得ないよ…。」
三浦は沈んだ声で言った。
「だって静谷…あんたずっと木戸に守られてたんだよ?」
「…は?」
何を言い出すのか、三浦の言ってる事が理解出来ず、僕はマヌケな声を上げた。
「あたしね、バレー部で学校帰るのが遅くなる時があるの。その日も遅くなって、教室に鞄取りに行ったんだ。あたしその時見たんだよ。あんたの机の前にいる木戸を…。」
僕とカガリが行ったあの日の事を話している。そう思った。
「その事なら知ってる。キドキが僕の机に落書きしてたんでしょ?」
僕が悲しげにそう言うと、三浦が「違うよ!」と咄嗟に否定した。
「あんたの机に書かれていた落書きを一生懸命消してたの!」
「…!」
僕はそれを聞いて混乱した。
言葉を出ない。意味が分からない。三浦は続けた。
「なんかペンキで落書きされたみたいでなかなか落ちなくてさ、肌寒くなる季節だっていうのに汗いっぱいかきながら、洗剤使ってとにかく必死にスポンジ擦ってたよ木戸。
あたしもそんな場面に出くわしたからには声掛けない訳にはいかないじゃん?それで木戸に何してるのか聞いたらさ、照れ臭そうにしながら、あんたには内緒にしてほしいって。」
「…内緒?」
「嫌がらせされた事を悟られたくないんだって。あんたが嫌な思いをするの見たくないんだって言ってた。
自分が嫌がらせを無かった事にすれば、その分静谷が平和で居られるからって…。」
鉛を飲み込んだような息苦しさと体の重さが増したような感覚に襲われた。理解が追い付かない。
「だ、だって…キドキの奴、自分で言ったんだ。落書きしたのは自分だって…。今までの嫌がらせは全部自分がやったんだって…。」
僕の言葉に動揺が混じる。三浦にもそれが伝わっている。だけど三浦は容赦なく、僕に訴えかけた。
「そんなの知らないよ!そう言わなくちゃいけない理由が木戸にはあったんじゃないの?
あたし、この日だけじゃなくて、朝練で朝早くに教室行った時も、あんたの机の中を覗き込んで安心した表情を浮かべる木戸を何度も見てるんだ。その時は何してるのか分からなかったけど、今なら分かる。あれはあんたが嫌がらせされてないか確認してたんだよ。
ねぇ静谷、木戸はあんたの事想ってたんだよ。その木戸が今大変な事になってるんだよ。助けてあげてよ!」
僕は三浦の話しを聞きながら、キドキが言ってた事を思い返していた。キドキは僕に嫌がらせしていた事を告げ、自作自演のように振る舞った。
だけど、三浦の話しはキドキの言う事と明らかに矛盾している。嫌がらせを無かった事にしたら、キドキの思惑とするマッチポンプは成立しない。
「三浦、悪いけど電話切るよ?キドキと話してみる!」
僕は三浦の返事も聞かず電話を切り、ひと呼吸してからキドキのメモリを探した。そして発信ボタンに指をかけたまましばらく躊躇った。頭の中で整理がつかない。何を話せば良いのかも分からない。だけど…。意を決して僕はボタンを押した。
しばらく電話のコールが続いた。そしてキドキが電話に出た。
「…もしもし。」
外にいるのか、風の音が声に被る。
「キ、キドキ…あの………。」
言葉が続かない。聞きたい事がたくさんあって、何から話したら良いのか分からない。
「一ヶ月ぶりだねシズ。どうしたの?」
急かすようにキドキが尋ねた。
「あ、あのさ…。さっき、三浦と電話で話してたんだ。」
「三浦さんと?」
「キドキ…、カガリに酷い事されてるって聞いた…。大丈夫なの?」
キドキは「ああ…その事か」と、なんでもないように笑って言った。
「ん〜、正直しんどいよ。でも、僕がシズにした事を考えれば、これは報いなのかもしれないね。加賀の奴、シズの事が本当に大好きなんだなって思う。ハハ。」
キドキがあまりに明るく話すもんだから、三浦が言うほど酷い事されてないような気がしてきた。僕は次の話題を切り出した。
「キドキ、ちゃんと確かめたい事があるんだ。
学校の下駄箱でキドキが言ってた事。今までの嫌がらせを全部キドキがしていたって話し…あれ…嘘だったのか?」
僕が慎重にそう尋ねるとキドキはしばらく無言になり、風の音だけがケータイの向こうから聞こえてきた。窓に目をやると外の木々が大きく揺れていた。
「シズ…、僕疲れたよ。こんなに辛いなんて思わなかった…。」
明るい調子から一変、キドキは急に疲弊を表し始めた。この言葉が僕の質問への答えなのか、それともカガリの事への愚痴なのか、その判断が出来なかった。
「今どこにいるんだキドキ?」
僕がそう尋ねると、キドキはしばらく考え込んでから、「学校の屋上」と答えた。
僕は嫌な予感がして、急いで学校に向かった。こんな時間に何故学校の屋上なんかにいるのだろう?夜10時を回り、校門も閉められていた。キドキはこの校門をまたいで入ったのだろうか、と考えながら、僕は身長より頭一個分高い校門をよじ登って学校に入った。
鍵のかかった校舎にはどうやって入ろうかと辺りを見渡すと、一つだけ開いてる窓を見付けた。どうやら鍵が壊れているようで、そこは一階の男子トイレに繋がっていた。
屋上への階段を上がる度、僕の鼓動は早くなった。屋上に出る扉はいつもなら閉められているはずだったが、キドキがやったのか、乱暴に鍵が壊されていて、壊す時に使ったと思われるバールが床に転がっていた。
いつもと様子が違う事に気付いた。いつものキドキならこんな乱暴な事はしない。憤怒とも自暴ともつく何かがキドキに起こっている。
「キドキ!」
屋上に出るとキドキを探した。暗がりの上、風も強い。視界の悪い中、キドキを必死で探した。僕の声に反応するように、屋上の隅で影が動いた。キドキだ。
「やぁ、シズ。本当に来たんだ。」
「キドキ…その顔…。」
僕は驚いた。キドキは目や頬を大きく腫らし、その傷を隠すようにニット帽を深く被っていた。カガリがやったんだとすぐに分かった。正直ここまで酷いとは思わなかった…。
「酷いよねこれ。加賀の奴、仲間連れてさ、何度も殴ってくるんだよ。一発や二発じゃ許してくれないんだ。」
キドキは痛々しく顔の傷に触れながらそう言った。
「キドキ、こんな所で何やってるんだよ?」
僕が不安を抱えながらそう尋ねると、キドキは景色を見下ろしただけで何も言わなかった。
「キドキ、なんで…なんで嘘ついたんだ?三浦から聞いた。僕の机の落書き消してくれたのキドキだったんだろ?なんで自分で書いたなんて言ったんだよ?今までの嫌がらせも自分がやったみたいに言ってさ。訳分かんないよ!」
キドキに僕の話しが聞こえてるのか心配になるくらい風が強く吹き荒れていた。とにかくちゃんとキドキと話したい。そう思った僕は「とりあえず校舎の中に戻ろう」と提案した。
「だって…。」
戻ろうとする僕を制止するように、キドキが口を開いた。
「だってさ…。」
僕はキドキの次の言葉を静かに待った。
「シズ…ずっと苦しんでいたじゃないか。」
辺りに風が一瞬止んで、鮮明に聞き取れた。
「誰がやったのか分からない嫌がらせに、シズはずっと怯えてた。毎日が苦痛に染まっていて、誰も信じられなくなって、僕でさえ疑うようになった。」
寂しそうにキドキが言った。
「だから…僕が犯人になる事にしたんだ。これ以上シズが怯えなくて済むように。犯人が誰か判明すれば、精神的にシズも少しは楽になると思ったんだ。テレビか何かで聞いたマッチポンプの話しに、適当な嘘を混ぜた。
まぁ、本当の犯人を見付けられれば1番良かったんだけど、僕にはそれが出来なかったから。」
「…嘘が上手過ぎだよ」と僕は首を左右に降って言った。
「…ゴメン。でも、僕にはこんな事ぐらいしかしてやれなかった。親友として、何もしてやれない自分に腹も立っていた。そういう点では、あの時付いた嘘も全てが嘘じゃないと思う。親友ってなんだろうっていつも考えていたから。
…でも、やっぱりあんな事言うべきじゃなかった。僕も焦っていて冷静な判断が出来なくなってたんだ。」
僕ははてなマークを浮かべて次の言葉を待った。
「シズは自分で気付いてなかったかも知れないけど、あの時のシズはおかしかったんだ。ろれつが回らないようになって、同じ言葉を繰り返すようになって、時々血走った目で辺りを見ていた。典型的な鬱病の症状だ。痛ましくて見てられなかった。少しでも早く楽にしてあげたかったんだよ。」
キドキの話しを聞いて驚いた。あの頃疲れは感じていたが、そこまで酷くなっている事に全く気付かなかった。今思えば確かにいつもと世界の見え方が違っていた気がする。そのせいでキドキを傷付けた事もあったんだと思う。
「ゴメンキドキ、心配かけて…。」
キドキはにっこり笑った。
「いつものシズに戻ってくれて良かったよ。
…………でも…。」
キドキは再び柵ごしから景色を見下ろして、続けた。
「今度は僕が疲れちゃった。」
僕は慌てて言った。
「僕がカガリをどうにかするよ!キドキが嫌がらせしてたんじゃないって話せば、きっと分かってくれる!」
「無駄だよ…。僕だって何度も説明したんだ。だけど全く信じてくれなかった。
それに、僕が疲れたのは加賀の事だけじゃない…。」
キドキは僕の目を悲しげに見て、重たそうに口を開いた。
「シズと友達でいるのが疲れたんだよ。」
「え?」
僕は呆然として、口も閉じないまま、キドキを見た。
「ここ一ヶ月ずっと考えてたんだ。そしたら僕さ、分かっちゃったんだよ。この世界の仕組みみたいな物を。
どんなに頑張っても報われないし、どんなに人の為に動いても誰も認めてくれない。この世界が宇宙の無から生み出されたように、結局辿る先は無なんだ。
バカらしい話しだろシズ?生きてる事にさえ意味がないんだよ。結局歳老いて死ぬんだから。」
「突然何を…?」
僕は戸惑った。キドキが何を言いたいのか理解出来ない。そんな僕に気付いたのか、キドキは怪しく微笑んだ。
「だからさ。つまり…僕はもう何もしない事にしたんだ。
今まであった物を全部棄てて、新しく何も求めない。僕一人の問題にだけ向き合って、他の誰にも干渉しない。
だから…友達なんてものはもう必要ないんだよ。」
「キドキ…また嘘をついてるのか?」
「今度は嘘じゃない。」
キドキは静かに、しっかりした口調でそう言った。
「どうしちゃったんだよ!?僕みたいにおかしくなっちゃったのか?」
「僕はまともだよ。それどころか前に比べてよりクリアに物事を見る事が出来るようになった。」
「僕はキドキが犯人じゃないって分かって嬉しかったんだ!また前みたいな親友に戻れると思ってたのに!なんで!?
もしかして怒ってるの?疑った事なら謝るよ!許してくれよキドキ!」
僕は頭を下げてキドキに謝った。そんな僕に、キドキは長いため息をついて言った。
「別に怒ってる訳じゃないよ。ただ、幼なじみの親友に犯人扱いされて、全ての想いが踏みにじられた時、どうでも良くなったんだ。」
キドキの目は生気が失われてしまったみたいに淀んでいた。その目が僕を捕らえて離さない。キドキは言葉の通り、怒りとは違う冷たい感情に支配されているようだった。
「…シズ、あの時シズが言った一言は、決して言っちゃイケない一言だったんだ。
『おまえがやったんだろ?』。あの一言で僕の全てが変わった。」
キドキはそう言い終わると、腰ぐらいの柵をまたいだ。
「キドキっ!待て!!」
キドキは柵の向こう側で深く息を吸い込んだ。
一瞬躊躇した後、僕も同じように柵をまたぎ、キドキを刺激しないようなるべく距離を取った。足元は幅が狭く、柵に掴まっていないと、強風に煽られて直ぐさま落ちてしまいそうだった。それにも関わらず、キドキは両手離しで、まるで重力を操るようにそこに佇んでいる。
「キドキ!バカな真似はやめろ!死ぬ気か!?」
「死ぬ?まさか…。」
キドキはそう否定しつつも、その行動に説得力はない。
「シズ。今まで僕たちが過ごして来た親友としての時間は、全て無駄だった。それをシズが証明したんだ。例えどんな劣悪な環境に身を投じようとも、僕たちは信じ合えたはずだったのに、今までのキャリアを無視して、シズは僕を疑った。それはもう親友はもちろん、友達と呼ぶ事すらおこがましい関係だ。」
「キドキ…。」
名前を呼ぶだけで精一杯だった。返す言葉もない。
「僕たちは、あの瞬間から無になった。」
キドキは下に何があるのか確認するように見下ろし、「文化祭、楽しみにしてたんだけどな…」と参加出来なくなる事を残念がるように呟いた。
次の瞬間、僕は走った。足を踏み外せば真っ逆さまに転落するであろう恐怖を感じない訳ではない。だけど少しでも早くキドキの元へ辿り着きたかった。
僕の手がキドキの腕を捕らえた。
「キドキ!もうやめろって!こんな事して何になるんだよ!」
僕は声を上げて言った。キドキは迷惑そうに困った顔をした。僕の手を自分の腕から引き離すように掴んだ。
「シズ…。」
キドキは最後の別れを惜しむように僕の手を強く握り、悲しげに僕を見た。そして言った。
「さよならシズ…。」
次の瞬間、腹部に衝撃が走った。キドキが蹴りを入れたのだ。そして僕は強風で煽られ、混乱が解けた時はすでに宙を舞っていた。僕は慌ててコンクリートの角を掴んだ。宙ぶらりんの身体が強風で更に揺れる。
「キドキ!…なんで…ッ!?」
指先の力だけを頼りに身体を支え、腹部の痛みを堪えた。キドキの僕を見下す目は、凍てつき、感情をすっかり失ってしまっているようだった。
「シズがこうする事は分かってた。僕が屋上から身を投げ出そうとすれば、シズが僕を必死になって止めようとする事は…。
だけどその行動は友達だからとか、そんな想いで突き動かされている訳じゃない。
罪悪感さ。僕に対する罪悪感がシズをここまで誘ったんだ。」
キドキはしゃがみ込み、僕に更に語りかけた。
「悪いけど、さっきも言ったように僕は死ぬつもりなんてないよ。もちろん最初は死ぬつもりでここに来たんだけど、シズが来るって聞いて、考えが変わったんだ。
僕の求める無とは、死とは別の次元にある。孤独や独立に近い。だけどシズの存在は、僕を無から遠ざける。すがりたくなってしまうんだよ…どうしようもなく。」
キドキは無表情のまま言った。そして必死に掴んでいる僕の手に触れる。
「シズ…どうしてあんな事を…?」
キドキがなんの事を言っているのか分からず、僕は「え?」と聞き返した。
「どうして…加賀をけしかけたんだ?信じていたのに…。」
「…ッ!?…ちが…ッ。」
僕が否定する間も無く、キドキは僕の手を冷たいコンクリートから引き離した。
成す術もなく落ちていく身体とは裏腹に、頭の中に今までの記憶がフラッシュバックのように映し出される。保育園でのキドキとの出会い、今までキドキと話した他愛もない会話、楽しかったキドキとの思い出が、痛いほど溢れ出した。
そしてキドキの最後の言葉が僕に遺された。キドキは、僕がイジメるようカガリを差し向けたと誤解している。そしてそれは余りに悲しい誤解で、キドキが僕に疑われて、どんなに苦しい想いをしたのか理解する事が出来た。逆上して「そうだ僕がやったんだ!」とやけっぱちな嘘を付く気持ちも分かる。
悲しさだけがいっぱいに広がった身体が木や何かにぶつかりながら地に落ちた。
そして、気が付いた時、僕は病院のベットの上にいた…。
3…2…1…ダイブッ…。
あの日僕は…学校の屋上から飛び降りた。
僕はみんなに「自殺しようと思った」と嘘をついた。そのせいで母イクヨにはずいぶんと悲しい想いをさせてしまったが、キドキの事は誰にも話したくなかった。キドキをあんな風にしてしまったのは僕だ。その罪悪感から、僕はキドキを責める事は出来なかった。
入院中、三浦やクラスのみんながお見舞いに来てくれた。三浦は包帯でグルグル巻きにされた僕を見て泣きじゃくり、その時三浦がどんなに僕を心配してくれていたのかを知った。僕は申し訳なさそうに笑う事しか出来なかった。
そして、驚く事にその時、クラスメイトから嫌がらせをしていた真犯人の名前を聞かされた。どうやら僕に嫌がらせをしている瞬間を何人か見ていたらしい。僕はその名前を聞いても最初誰なのか分からなかった。今まで全く関わった事の無い人物だ。そしてしばらく考え込んでいると、ふと心当たりが脳裏を過ぎり、僕は「あっ!」と声を上げた。キドキに告白してフラれた、図書委員の女の子だ。
僕はため息をついた。そしてカガリと話していた推理が意外と的を得ていた事に、悔しさのような感情を抱いた。
犯人は女子かも知れないという閃きに、部活と同様遅くまで学校に残る図書委員の仕事。
あのまま推理を推し進めていたら、キドキを疑う事もなく、真犯人に辿り着いたかも知れなかった。そうすれば、キドキとも…。
しかし、例え犯人がその図書委員の女の子だとしても、まだ謎が残る。それは唯一外れた同じクラスではないという事。同じクラスで無かったなら、どうやって僕の行動を把握していたのだろう?緻密な嫌がらせとも言える教室移動の合間を狙った犯行は、他で授業を受けているその子には不可能に思えた。
それに、何故この女の子に嫌がらせをされないといけないのか全く分からなかった…。
それから数日後、カガリがお見舞いに来た。カガリは思い詰めたような顔をして、僕に頭を下げた。
「すまないシズ!勘違いでおまえの親友を傷付けた!」
カガリはキドキにしていた仕打ちを隠す事なく全て打ち明けた。そしてカガリも誰かから真犯人の存在を聞かされたらしく、キドキへの誤解はすっかり解けていた。
だけど僕はカガリに対して、赦す事も怒る事も出来ない。カガリが誤解した原因は僕の不甲斐なさによるもので、カガリのキドキに対する仕打ちは僕を助けようとした結果だ。しかし、やり過ぎた事には変わりない。カガリ自身、深く反省しているようだった。
「だけどシズ、どうしておまえが自殺なんて…!原因がイジメにしても、おまえはそんな弱い奴じゃねぇだろ…?」
カガリは僕の有様を見ながらそう言った。
「カガリ、カガリにだけは話しておきたい事があるんだ。その代わり、もう誰も責めないでほしい。キドキの事も、嫌がらせしていた女の子の事も、自分の事も。もし誰か責めたいなら、親友を信じ切れなかった僕を責めてほしい。」
カガリは戸惑った後、ゆっくりと頷いた。
僕は誰にも話さないと決めていた学校の屋上での出来事をカガリにだけ話す事にした。僕自身自分の中に閉じ込めておく事に限界を感じていたし、カガリにも関わりのある事だと思ったからだ。キドキとのやり取り、キドキの朦朧とした振る舞い、そして、僕が屋上から落とされた事。全てを話した。
「あの時のキドキは、数カ月前の僕だ。誰も信用出来なくて、怯えてて、悲しくて仕方がなかった時の僕。もしあのまま学校に通い続けていたら、屋上で親友を突き落としていたのは、僕の方だったかも知れない。」
カガリは驚いた表情をして聞いていた。そして僕が言い終わると、カガリは手を口にあてながら深く考え込んだ。
「俺がした事は…最低だ。勘違いで暴力ふるった揚句、木戸を追い詰めて、その矛先が結局シズに向けられた。救いようがないくらいバカだ…。
もちろん、木戸が屋上でやった事もどんな事情であれ、許される行為じゃない。奇跡的に助かったが、普通だったらシズは死んでいた。」
「カガリ、僕は…。」
キドキを許している。そう僕が言いかけた時、「だが…」とカガリが遮った。
「おまえはそんな木戸を許した。正直俺は腹も立つが、おまえがそう決めたなら、俺はもう何も言わない。
俺はバカみたいな解決法しか思いつかねぇからな…。」
カガリは僕を理解してくれた。だけどカガリは「すまないシズ…」と何度も繰り返して自分を責め続けた。僕はカガリを責めても恨んでもいないのに。きっと僕が取り繕って許すと言っても、カガリは今後も自分を戒め続けるのだと思う。
「キドキは今どうしてる?」
僕がそう尋ねると、カガリは頭の後ろを左手でかきながら言った。
「…消えたらしい。
おまえが屋上から落ちた次の日から学校には来てないんだと。
おまけにおまえのクラスの奴らが木戸に電話しても繋がらなかったみたいでさ、心配で家にまで行ったけど、もぬけの殻だったって話しだ。
まるで最初っから存在してなかったみたいだっておまえのクラスの奴らは言ってたぜ。」
僕はキドキが求める『無』の事を思い返した。それが実際どういう物なのか見当もつかないが、カガリの話しを聞いて、キドキはそれを実行しているように感じた。
「たぶんあいつ、おまえが生きている事も知らねぇんじゃないか?おまえを殺したと思い込んで、それで怖くなって逃げ出したのかもな。」
「家族全員で?」
僕がそう指摘すると、カガリは喉の奥で唸って「確かに何か変だ…」と認めた。
僕はベットに寝そべったまま少し動かせるようになった首を反らし、窓の外に目をやった。枕元の位置からは青空だけしか見えなかったが、それだけで充分考えを纏める助けになった。
「カガリ、僕高校入ったらさ、文化祭実行委員になろうと思うんだ。」
突然何を言い出すのかと、カガリは目を見開いて僕を見た。
「中学生活はもう入院とリハビリで文化祭どころじゃないだろうけど、高校入ったら最高の仲間を見付けてさ、最高の文化祭にしたいんだ。」
「文化祭ねぇ…。何やるんだ?」
話しを合わせるようにカガリは尋ねた。
「演劇。脚本は僕が書くよ。あと演出家出来る人も欲しいな。衣装作れる人もいてくれると助かる。」
「大道具や小道具なら俺に任せろよ。こう見えても手先は器用だ。」
僕たちは病室で、まだうんと先の高校の文化祭について話し続けた。時折笑うと軋む全身の痛みも、この時の僕にとってはとても大事な物に思えた。僕たちの語る理想の文化祭は、その痛みの先にある。まるで全てを浄化し、僕たちが本来あるべき姿に戻る為の大事な儀式のように、その時が訪れるのを待ち望んだ。
キドキ…キドキ…。そう何度も心の中で呼んだ。
『キドキが無を求めるなら、僕はその逆を求めるよ。キドキが全て捨てたいと言うのなら僕は止めない。好きにすれば良い。
だけど、一つだけ言っておく…。
このまま進んでも何も無い。
結局おまえは空っぽのままだ。』
心の中でそう言う僕に、キドキは何も答えず、ただ微笑を浮かべていた。
『母さんの受け売りだけどね。』
そう付け加えて僕は微笑を返した。
―つづく―