第18話:巨大なモンスター
僕たちはその日遅くまで学校に残り、背景の修復をした。
幸いにも壊されたのは村の背景一つだけで、森やお城の背景なんかは無事だった。特にお城の背景が無事なのは良かった。
これはクライマックスのシーンで使う重要な背景で、階段やベランダも付いているすごく凝った造りになっているのだ。もしこれが壊されたとあったら、修復には四日は掛かり、文化祭には間に合わなかっただろう。
作業の間、カガリは何も喋らなかった。
何も言わないカガリに苛立ちを感じつつ、僕は黙々と作業を進めて行った。
一体何があったのか、誰もその話題に触れようとはしなかった。疑問だらけの現状で打つ金づちの音は、どこか虚しく、今の自分の気持ちを代弁しているかのようだった。
夜8時を回り、ようやく僕たちは作業を終わらせる事が出来た。今度は壊されないように、完成した背景や無事だった背景は体育倉庫に保管する事にした。
体育倉庫には鍵が付いていて、その鍵の管理は体育教師の村上熱雄【むらかみあつお】がやっている。村上熱雄はその名の通り熱血教師で知られていて、ある不良生徒を暴走族から抜けさせる為にそのグループに殴り込みに行ったという逸話を持つ。もちろんボコボコにされたらしいがその熱意に討たれたその不良生徒は見事に更正したという。
僕たちにとって体育倉庫は、鍵で封印されている上に守護神が存在しているようなモノで、大道具を守るにはこれ以上ないセキュリティなのだ。
僕はカガリと花嶋を残して、さっそく村上先生から鍵を借りに行った。
文化祭を三日後に控えている今は遅くまで残っている生徒がいる為、何かあった時の為に職員室にも何人かの先生が控えている。村上先生も運良くそこにいた。
「村上先生、すみません体育倉庫の鍵貸して貰えませんか?」
僕が村上先生にそう頼むと、村上先生はキョトンとした顔で聞き返した。
「倉庫の鍵を?何に使うんだ倉庫なんて?遊ぶ為だったら貸さんぞ?」
そう言われて僕の米噛みに冷や汗が流れた。事情を話せば大袈裟な事になるだろうし、カガリもそれは嫌がるだろう。しかも僕の知ってる事自体が少なく、説明したとしても得体の知れない誰かから守るというあやふやな事しか言えなかった。
だから僕は大道具の背景が壊された事は伏せて話す事にした。
「あ、あの、劇で使う大道具を壊されないよう…あ、いや、別に誰に壊されるって訳じゃないんですけど、壊れやすい物なんで、人の手が触れない場所にちゃんと保管しておきたいんです!」
グダクダだった。
僕は大人の人に対しての嘘とか隠し事がどうも苦手なようだ。友達同士なら割と平気なのだが…。
「なんか怪しいな…。」
そう言われて、僕はとっさに「怪しくないです!」と言った。
言った後に失敗したと思った。こういうのは反って怪しさに拍車をかけてしまう。
しばらくお互い沈黙してると、村上先生は頭をポリポリかいて「わかった。その代わりすぐに返すんだぞ?」と言って倉庫の鍵を貸してくれた。
村上先生もなんだかんだ言って生徒想いの良い先生なのだ。
ホッと一安心して鍵を受け取ると、僕は丁寧にお辞儀をしてお礼を言った。
そして粗相の無いようゆっくりと職員室を出ると、直ぐさま駆け出した。
別に悪い事をしている訳ではないので逃げる必要も無いのだが、何故か職員室という空間は居心地が悪く、先生と会話してるだけで追い詰められた気持ちになる。実際僕は体育倉庫の鍵を借りに行っただけで、何一つやましい事は無い。
職員室とは学校の中で唯一事務仕事をする場所として設置されている。それは生徒にとって職員室は未来を映し出した場所であり、未知の領域とも言える。
将来に不安を抱かない人がいないように、職員室に居心地の悪さを感じるのは僕だけじゃないだろう。と、そんな意味不明な事を走りながらふと思った。
「カガリ、本当に良いの?このままシズに何も言わないで…。」
体育館が近付くと話し声が聞こえて来た。花嶋だ。
僕は立ち止まり、声のする方を校舎の扉の陰からこっそりと覗き込んだ。
カガリと花嶋は体育館の横にある体育倉庫の前で、僕が鍵を持ってくるのを待っていた。
「昔からの友達なんでしょ?
シズだってカガリの事すごく心配してたじゃないか。このまま何も言わなかったら、結局傷付くのはシズだよ。」
カガリは無言のまま花嶋の話しを聞いていた。そして考え込むように空を見た。
今日は空気が澄んでいるようで、見上げた夜空には星たちがいつにも増して輝いていた。
「あいつには関係無いから。
これは俺自身の問題だし、話した所で何が変わる訳でも無い。」
カガリがそう言うと、花嶋は苦汁の表情を浮かべた。そして僕もまた、苦い顔をして聞き耳を立て続けていた。
カガリは昔っからこういう所がある。何か問題が起きても人には相談せず、全て自分でなんとかしようと背負い込む。
確かに人に話して解決するなら苦労は無いが、友達として何も話してくれない事がどれほど悲しい事なのか、カガリは分かっていないのだ。
「花嶋、おまえも余り関わるなよ?おまえには現場を見られたからしょうがなく事情を話したけど、俺に肩入れしてるととばっちり喰らうぜ?」
カガリがそう忠告すると、花嶋は「ハァ…」と呆れるようにため息をついた。
「だからシズにも言わないって訳?」
花嶋がそう尋ねてもカガリは何も答えなかった。
「カガリ!カガリは正しい事をしたんだよ!見ていた俺は知っている!
カガリが望んでいなくても俺はカガリの味方をするし、シズだって事情を話せば味方してくれる!
なんで一人で抱え込もうとするんだ!?またいつあいつに嫌がらせ受けるか分からない!今日はこれくらいで済んだけど今度はもっと酷いかも知れない!
みんなカガリが心配なんだ!
友達の心配をして何が悪いんだ!!」
花嶋は珍しく感情を剥き出しにして言い放った。さすがにカガリも目を丸くして驚いていた。しかしすぐまた無感情ないつもの表情に戻って、また星空を眺めた。
僕はゆっくりとため息を吐き出した。カガリが僕に話すつもりが毛頭ない事を悟ったのだ。
体育倉庫の鍵を握りしめ、僕は意を決してその遮断されていた校舎の扉を開いた。
二人が僕に気付いて、花嶋が軽く手を振った。
「倉庫の鍵、借りて来たよ。」
僕はチャラチャラと鍵を鳴らして、口元を無理矢理吊り上げて言った。僕は何も聞かなかったフリをする事にした。
鍵を開けると、体育倉庫にはサッカーやバレーのボールに高跳びの器具やマット、他にも何に使うのか分からないホコリまみれの鎖や鉄板がごちゃごちゃと置かれていた。
思っていたより大道具を置けるスペースが無い事を知り、僕たちは1番大事なお城の背景だけを入れる事にした。お城の背景は三つに分かれていて、舞台に並べると左にベランダ、右に崩れた石橋、中央には奥行きを表す為に小さく森が描かれていた。この背景を入れるだけで倉庫は一杯になった。
仕方なく他の大道具などは体育館の舞台裏に置く事にした。心配はあったが他に置き場所も無く、体育倉庫にあったビニールシートを許可無く拝借し、大道具を隠すように被せた。
「大丈夫かな…?」
僕が独り言のようにそう呟くと、カガリは「大丈夫だろ」とボソリと言った。
「確かに舞台裏には他のクラスが使う演劇の大道具もあるし、ピンポイントでうちのクラスのが壊される事はないだろうね。木を隠すなら森の中って言うし…。それに…
狙われてるのは大道具じゃなくてカガリだから。」
花嶋がしれっとそう言うと、カガリは「おまえな…」と言って花嶋を睨んだ。
花嶋は何を気にするでもなく、「それじゃーもう時間も遅いし、ひと足先に俺は帰らせてもらうよー」と、にこやかに手を振って走って行った。
取り残された僕とカガリはその後何を喋るでもなく、村上先生に倉庫の鍵を二人で返しに行き、教室で帰る支度をした。
「もう9時か…。」
教室の時計を見てカガリが呟いた。
「悪いな遅くまで付き合わせちまって。おまえんとこの母さん大丈夫か?」
「ああ大丈夫。今頃額に汗してお弁当作ってるだろうから。だからいくら遅くなっても大丈夫。」
そう僕が素っ気なく言うと、カガリは僕の態度を気にする様子もなく、「そっか。俺は親父が家にいるからちょっとうるさいかもな…」と言って、ウンザリした顔でため息をついた。
カガリは小学四年生の頃、両親が離婚している。父親が親権を持ち、母親は離婚直後に行方をくらまして今どこで何をしているのかも分からないらしい。
母親を失ったばかりのカガリは荒れていた。当時カガリの気持ちを理解出来る者はいなく、クラスメイトにはからかわれ、担任には大人の意見でたしなめられた。担任の話しは小学四年生のカガリには論理的過ぎて、到底納得出来るような内容ではなかった。
カガリはやり場の無い怒りや苦しみを他へぶつけるようになり、問題児扱いされ、周りから孤立するようになった。
僕とカガリが出会ったのは学年を一つ上がった五年生の時、クラス替えがあって初めて同じクラスになった。
初めて出会ったカガリの印象は問題児そのもので、進んで話しかけようとその時は思わなかった。だけど誰から聞いたのか、カガリは僕との共通点を見付け、ある日突然向こうから話しかけて来た。
僕は幼い頃に父を亡くしている。片親しかいない寂しさや辛さを僕は知っていた。
カガリは似たような境遇の僕に親近感を抱き、僕もまた、カガリの話しを聞いているうちに、カガリがただの問題児じゃない事に気が付いた。
「親が半分しかいないって、どんな気分だ?」
そう初めての会話でカガリが僕に尋ねた。
この時僕がなんて答えたのかは覚えていないが、カガリが僕のそれを聞いて笑ったのを覚えている。
僕と友達になってからもカガリのヤンチャは続いたが、高校入ってからはだいぶ落ち着いた。
ケンカや問題はこれ以上起こらない…このまま平和な日常を送って卒業して行くのだろう…そう思っていた。
帰り道、見慣れた住宅地をカガリと二人で歩いた。
カガリはどうでも良い話しをしながら一人でケラケラ笑っていた。だけど僕の興味を引く話題はなく、カガリがどんなに笑っていたとしても僕にとっては退屈な帰り道だった。まるでカガリは漫才の前座を永遠と繰り返すように、僕の期待するその話題には触れようとしなかった。
秋の夜風がいつにも増して強く吹き荒れていた。暗い夜道にはイチョウの葉で作られた鮮やかなじゅうたんが敷かれていて、僕の足取りを少しばかり遅らせた。
先に歩いていたカガリが振り向いて、そんな僕を急かした。
「何してんだ?早く歩かないと置いてくぞ?」
僕はカガリの忠告も聞かず、ピタリと歩みを止めた。
僕はずっと、カガリの身に何が起きているのかを気にしない努力をしていた。しかし、それはまるで亀裂の入ったダムのように、徐々に抑えの効かないモノになっていった。
「なぁ…カガリ。」
「あん?」
カガリは歩みを止めた僕に近付き、首を傾けてそう返事をした。
「僕たち…友達だよな?」
「ああ…恋人じゃない事だけは確かだな。」
「茶化すなよ…。」
僕は気持ちを抑えつけるつもりで、自分の額に手を当てた。そしてしばらく考え込んだ。これから先、何を言うべきなのか、何を尋ねるべきなのかを、慎重に言葉を選んで話さなくてはならないと思った。漫才の前座にはもう飽き飽きしていた。
「僕たち、小学校の頃から一緒だった。始めて同じクラスになったのは五年生の時からだけど、ずっと同じ小学校に通ってたんだから、それまでにも廊下ですれ違ったり、運動会で競い合ったり、帰り道が同じだったりする事があったんだと思う。
同じクラスになって、カガリが初めて僕に話し掛けて来た。
あの時の事覚えてる?
『親が半分しかいないって、どんな気分だ』。
そう聞いて来たんだ。」
カガリは無言のまま両手を頭の後ろに回し、僕の上の方でバチバチと切れかかっている電灯を眺めた。
「てかなんで今そんな話し?そんな昔の事覚えてねぇよ。」
カガリは点いたり消えたりを繰り返す電灯を眺めてる方が僕の話しを聞くより楽しいみたいだった。
僕は小さくため息をつき、話しを続けた。
「僕も覚えていない。あの時自分がなんて答えたのか。
でも僕たちはそれから友達になったんだ。
僕たちは少しずつだけど、お互いの事を話すようになった。自分の生い立ちや環境、思ってる事や感じている事、なんでもさらけ出してきた。
僕たちの間には今まで秘密なんてなかった。そうだろ?」
カガリは視線を下ろし、俯いていた僕に目をやった。
僕は俯いたまま話しを続けた。
「僕がカガリにしてあげられる事なんて何一つ無いのは分かっている。カガリが問題を人に相談せず自分一人で解決しようとする性格なのも知っている。だから僕は気にしてない素振りをするしか無かった。
…だけど、それでやり過ごせるほど僕は大人じゃないし、友達を傷付けられて我慢出来るほど、僕の心は無感情に出来ていない…。
僕はちゃんと聞きたいんだよ。
カガリのその口から。昔からの友達として。何が起きているのかを…。」
僕は顔を上げ、カガリの目をじっと見た。するとカガリは反射的に視線を反らし、直視を避けた。カガリはまるで僕の何かに怯えているように見えた。
「その顔の殴られたような傷…どうしたんだ?」
カガリは黙っている。
「あの大道具は誰に壊された?」
カガリは黙っている。
「…なんで…
なんでおまえがそんな目に合わなくちゃいけないんだッ!!?」
カガリは黙っている。
それでも、いきなり声をあらげたおかげか、僅かに顔が驚きの表情に崩れた。
僕はカガリに詰め寄って住宅の塀に叩き付けた。僕の手はカガリの胸倉をギュッと掴み、僕の目はカガリの目を捕らえた。カガリもまた、僕から視線を反らす事が出来なくなっていた。
「カガリ!なんで何も答えてくれないんだ!」
「ッ…おまえには…関係無い話しだ…!」
塀に押し付けられて苦しそうにカガリがそう言うと、僕は自分のしてる事に気付き、手を緩めた。それでも手はカガリの胸に触れたまま、確かな体温と息遣いを感じ取っていた。
「なんで…何も言ってくれない?なんで…僕を遠ざける?
そんなに僕が信用出来ないのか…?」
「別に遠ざけちゃいねぇよ!だけど、おまえに話したら関わろうとすんだろ!?」
そう言ってカガリは僕の手を払い退け、塀から離れて僕との距離を取った。
「それがうざいんだよ!ほっといてくれりゃ納まる問題だってあんだから、いちいち干渉すんじゃねぇよ!」
カガリの言葉が胸の奥に突き刺さった。
何故僕がカガリに干渉するのか、カガリにはそれが理解出来ないようだった。あるいは理解はしているのかも知れないが、受け入れようとはしない。自分はあくまでも孤独であって、他人から心配や提供をされる人間ではないと考えている。そのくせ、僕や友達が困っている時にはすかさず手を差し延べてくる。
だから僕も同じように手を差し延べたいと考えるが、カガリは知らない。自分が孤独ではない事を…。
それが僕の胸に突き刺さった物だった。
僕の胸に突き刺さった物は鋭く鈍い光を放ち、『自分がどんな劣悪な状況に陥っても決しておまえを宛にしない』という文字が刻まれていた。
僕は堪らず自分の胸に手をやった。少しでもその痛みを和らげるように。
眉間にはシワを寄せ、眉の先を緩やかに下げて、自分が今どんな顔をしてるかも知らず、僕はカガリを見た。
カガリはそんな僕の表情を見ても何を感じるでも無く、冷静に話しを続けた。
「おまえが心配するような事は何もねぇよ。明日からは何も起こらねぇ。俺が誰かに殴られる事も無ければ大道具を壊される事も無い。約束する。
おまえはただ、三日後の文化祭に専念すれば良い。文化祭はおまえにとって凄く大事な事なんだろ?前々から一生懸命取り組んでいたし、おまえだけじゃなく、クラスのみんなにとっても大事なはずだ。
みんなと一緒に文化祭を成功させる事だけを考えろ。良いな?」
そのみんなの中にカガリも含まれているのだろうか?…そんな事をふと思った。
カガリは漫才の前座を続け、的を得ない説明と方向性を口にするだけだった。そしてそれだけ言うと、何も解決しないまま、誰一人納得出来ないまま、一人先にイチョウの葉のじゅうたんを歩き出した。
『じゃあな』や『またな』という挨拶も無く、カガリは帰って行く。どこかの角でカガリの姿が見えなくなるまで、僕はその背中を視線で追った。
僕の中にはまだ言い足りない気持ちがあり、消化しきれない感情が宙を浮いたまま着地点を見失っていた。
そんな苛立ちと同時に、罪悪感が僕を苦しめた。
何も話したがらない友達から、僕は無理に話しを聞き出そうとした。何が出来る訳でも無いのに、僕は触れられたくない部分に深く関わろうとした。それはただの傲慢で自己満足に満ちた行動だったのかも知れない。ただ自分が納得したい為だけに、友達を問いただしていただけなんじゃないか…。
僕は自分の上でバチバチと点滅する電灯に目をやった。
カガリが見取れていたのも分かる気がする。不安定なその光りにはどこか気分を落ち着かせる作用があるみたいだった。しばらく見てても飽きない。僕はまるで蛾にでもなってしまったかのように、その光りを追い求めた。僕の中にある闇を追い出してしまいたかった。
しかし、そんな僕の願いも虚しく、電灯の明かりは突然力無く途絶えた。
「ウザがるくらいなら友達になるな…。」
暗闇の中、乾いた声でそう呟いた。
次の日、学校にカガリは来なかった。
担任の新井先生は風邪で欠席したと話していたが、僕にはそれがすぐに仮病だと分かった。
昨日カガリが最後に言っていた事はこれだったのだ。確かに問題の中心になっているカガリが居なければ、周りにいる僕やみんなにも危害はないし、大道具が壊される事もない。カガリ自身殴られる事も決してない。
「たぶんこのまましばらく休むつもりだよ。」
花嶋が言った。
僕は机に頬杖をついて、窓の外を眺めながらそれを聞いていた。
「文化祭も参加しないだろうね。せっかくここまでみんなで立ち上げて来たのに、こんな事になるなんて…悲しいよ。
でもこのままやり過ごせるとは思えない…。まだ何も解決した訳じゃないんだから。」
僕は目を細めて、どれだけ遠くまで見れるのか試した。
僕の視力はまぁまぁ良い方だが、遠くになるにつれて確実にぼやけ、一番遠くに在るビルはまるで巨大なモンスターのように見えた。
「シズ…聞いてる?」
花嶋が少しムッとした感じでそう尋ねてきて、僕は慌てて花嶋の方を見た。
「聞いてるよ。
でも、カガリがそう決めたんならしょうがないよ。
舞台の大道具や小道具は出来上がってるから、もう担当のカガリがいなくても文化祭には支障はないし、学校に来なければカガリに危害が及ぶ事も無い。
勉強は少し遅れるかも知れないけど…まぁ頭悪い方じゃないからすぐに追いつけるんじゃないかな。」
花嶋は僕の目をじっと見た。
僕が言った事に対して何か不満があるようだ。
「シズ…。シズはカガリの友達だろ?」
「そのはずだけど…今ではどうだかよく分からないな…。」
僕は再び窓の外に視線を向けて冷ややかにそう言った。
花嶋は首を僅かに傾け、僕を見続けた。まるで僕の頭の中を探ろうとするみたいに。
「もしかして…カガリから何も聞いてない…?
昨日俺が帰った後…何かしらカガリが話すと思ってたんだけど…。」
「何も…。僕も思い切って聞いてみたけど、結局何も話してくれなかった。今日休む事だって言わなかった。昨日の帰りの時点で、すでに学校を休む事も決めていたはずなのに、一言もそんな事言わなかった。
きっとカガリにとって、僕はそれほど重要な存在じゃないんだろうね。」
僕はすっかりいじけていた。だけど僕はいじけながらも、これが正解のような気がしていた。カガリは僕に関わって欲しくないと思っている。そして僕も少しばかりだけどどうでも良く思えてきていた。これ以上カガリを心配していても何も良い事なんてない。むしろ傷付く事が増えるだけだ。
花嶋は困った顔をして長いため息をついた。
「カガリの奴…。」
そう口にして、花嶋は何かを決意したように厳しい顔付きで僕を呼んだ。
「シズ、放課後屋上に来てくれない?」
僕は何事かと目を丸くし、ゆっくりと頷いた。
放課後、僕と花嶋は屋上の柵にもたれ掛かって外の景色を眺めた。釘を打ち付ける音やノコギリで切り刻む音は減り、騒がしさが徐々に薄らいでいる。それは文化祭に向けて準備が整い、その日がやってくるのを今か今かと夢に見る寝息のようだった。
「シズ、カガリからは口止めされていたけど…ちゃんとシズも知っておいた方が良いと思うんだ…。」
僕は驚いた。花嶋は僕にカガリの事情を教えてくれるつもりでいるらしい。花嶋はカガリと誓約のような物を結び、僕には一切打ち明けてくれないだろうと思っていた。だから期待もしてなかったし、完全に諦めていた。
「これは…シズにも関係している事らしいんだ。」
「え?…。」
「だからカガリは頑なに口を割らなかったんだよ。シズを不安にさせないように…。」
花嶋はそう言った。僕は驚きと同時に混乱した。カガリに起こった事と僕との関係性が全く想像出来なかった。
花嶋は真っすぐ僕の顔を見て言った。
「木戸総一郎…そいつがカガリに付き纏っている奴だよ。」
「…木戸…?」
僕はその名前を聞いた瞬間、突然、脳内に取り残されていた記憶が呼び起こされた。古い記憶だ。いや、忘れ去りたい過去とでも言うべきか。出来る事なら頑丈な箱に入れて、厳重に鍵を掛けて、深海の奥底に沈めてしまいたい代物だ。しかしそれが突然僕の手の中に戻ってきてしまった。
冷や汗が止まらない。スピードを上げた心臓の音が耳元まで鳴り響いている。そして徐々に身体が震え出した。
木戸総一郎。僕は間違いなくこいつを知っている…。
巨大なモンスターの近付く足音が聞こえた気がした。
―つづく―