第11話:私の世界
病院の自動ドアが開いた。
中に入り、僕は辺りを見渡した。
マスクをつけた咳込む人や小さい女の子を連れた親子なんかが待合室のイスに座っていて、受付には昨日の女性が忙しそうに患者の応対をしていた。
具合の悪そうなサラリーマン風の男がフラフラと僕の目の前を通り過ぎて行った。
今日はやけに込み合っている。
僕はこのままホスピタルガーデンへ行くのがなんとなく怖くて、少し落ち着いてから行く事にした。
自動販売機でホットコーヒーを買い、自動販売機のすぐ横にあったベンチに腰掛けた。
心地良いコーヒーの温もりを両手に包みながら、僕はどうするべきなのかを考えてみた。
「やっぱり謝らないと…
あんなの桐島さんだって嫌だったに決まってる…
ハァ…本当に最低だ…」
考えれば考えるほど僕の足は重くなるばかり。
一向に立ち上がる気力が湧いてこなかった。
それもそのハズ、彼女が許してくれそうな要素が見付からなかった。
僕はキスを奪った後、我に返り、あまりの恥ずかしさに彼女の反応も確認しないまま走って逃げたのだ。
自分勝手で臆病者…。
男らしい事なんて何一つ果たせていない。
僕はため息をつきながら缶コーヒーのタブを開け、そして一口飲むと再びため息をついた。
不思議だった。
ずっと不思議に思っていた。
僕は学校にいる時と病院にいる時とでは、まるで別の世界を行き来するかのように見せる顔が違う。
友達には見せない顔を彼女に見せ、彼女に見せない顔を友達に見せている。
どっちが素顔なのか分からなくなり、僕は時々混乱する。
衝動的で、子供じみていて、彼女と過ごしている時の自分が間違っているんじゃないかと思う事もある。
実際失敗ばかりだ。
彼女に対して、自分をどう表現すれば良いのか、いまだに分からなかった。
ふと野々村の話していた恋愛の順序というのを思い出した。
思い返し、思った。
僕は誰もが思い描く理想的な恋愛から外れてしまったのだと…。
『ガタンッ』と突然自動販売機の方から落ちる音がした。
見てみると二十代後半の若いお医者さんが少し疲れた顔をして、缶コーヒーのその温もりに癒されていた。
僕は思わず「あっ」と声を上げた。
お医者さんがその声に気付き、僕を見付けると話し掛けてきた。
「やぁ静谷くん!
あれ?今日は病院来る日じゃなかったはずだよね?
どうしたんだい、こんな所で?」
「く、國朶先生…
こ、こんにちは…」
僕はそう軽い挨拶を返すと口をつぐんだ。
このお医者さんの名前は國朶九音、僕が風邪でお世話になっているお医者さんだ。
國朶先生はストンと僕の横に座ると、僕の顔をじっと覗き込むようにして見た。
そして手の甲を僕の頬に優しくあてて、ニッコリ笑って言った。
「この前に比べたら少し落ち着いたみたいだね
でもまだ熱っぽいからあまり無理しちゃダメだよ?」
「は、はい…」
僕はそれだけ言うと向きを直して、何もない正面を見た。
男性に対してこう表現するのはおかしな気もするが、國朶先生は色白で、女性のように細く、男の僕が見ても思わずドキリとするほど美しかった。
僕はそんな國朶先生に対して少し苦手意識を持っていた。
別に國朶先生に悪い所がある訳じゃなく、むしろ良心的でとても腕の良いお医者さんなのだが、昔っから僕は何故か中性的なタイプが怖いのだ。
もちろん國朶先生自身にそのケがある訳じゃ無いのは分かっていたし、偏見で物事を見たくは無かったけど、こればっかりは僕にもどうしようもない事だった。
國朶先生はよそよそしくする僕を見て、はてなマークを浮かべた。
そして、突然思い出したように僕に言った。
「あ、そうだ、聞いたよ静谷くん!
最近桐島さんと仲良いんだってね?」
僕は向きを直したかいもなく、思わず國朶先生を見てしまった。
その反応に國朶先生は何を思ったのかニヤリと笑い、続けて言った。
「桐島さんから直接聞いたんだ。友達が出来たって、この前嬉しそうに話してたよ!
でもまさかそれが君だなんてね、本当に驚いたよ!!」
何がそんなに面白いのか、さっきの疲れた表情から打って変わって徐々に國朶先生のテンションが上がっていった。
「あ、そうか!
さては今日も桐島さんに会いにここへ?」
「…え、ええ、まぁ」
僕は相変わらず愛想の無い返事を繰り返すばかりだった。
それにも関わらず、國朶先生はそんな僕に優しい笑みを浮かべていた。
僕は正直気味の悪さに鳥肌が立った。
まるで会話の所々に何か企みがあるような、そんな疑念にかられていた。
「僕も心配してたんだ
桐島さん、一人でいる事が多くてね…
今高校も休学中で、友達とも接する機会がないみたいだし、桐島さん、君といると楽しいって言ってたよ」
國朶先生はそう言った後、少しだけ間を置いて、付け加えるように言った。
「君みたいな子が友達になってくれて本当に良かったよ」
僕はそれを聞いた後、胸に針で刺したようなチクンという痛みが走った。
きっと國朶先生が話しているのは、昨日より前に彼女から聞いた話しだと思う。
彼女と國朶先生の気持ちを裏切っているようで、自分が許せなかった。
「今でも、桐島さんは僕の事友達だと言ってくれるでしょうか?…」
思わず口から零れた。
國朶先生は言葉の意味を探るように僕の顔をじっと見つめた。
僕は俯き、徐々に冷めていく缶コーヒーに両手の指を絡ませ、再び口を開いた。
「昨日、桐島さんを傷付けたかも知れないんです」
「傷付けた…かも知れない?」
「ええ、まぁ…
確認はしてないんで…」
「確認はしてない…?」
國朶先生は僕の言った事を丁寧に繰り返し、真剣に話しを聞いていた。
僕にはその態度が恐ろしく感じた。何故なら自分でもどこまで話すべきなのか分からなくなるからだ。
彼女にキスをした事を話すべきなのか…
そうふと思ったが、僕は迷ったまま硬直して、これ以上言葉を発せられなかった。
僕がしばらく沈黙していると、國朶先生は僕から視線を外し、さっき買った缶コーヒーのタブをようやく開け、一口飲んでから言った。
「何があったかは聞かないよ
それは僕の問題じゃなくて、君たちの問題だからね
僕が解決する問題じゃなくて、君たちが解決する問題だ
だから何があったかは聞かない…」
僕は國朶先生を見て、自分が助けられたような感覚に陥った。
そんな國朶先生の心遣いが、僕はとても嬉しくて、情けなかった。
國朶先生が続けて言った。
「…ただ、謝らなくちゃいけない事があるなら、すぐにでも謝った方が良い
まだ謝ってないんだろう?」
「…でも、許して貰えるかどうか…」
僕はいまだに彼女の顔を見る決心がつかなかった。
そんな僕に國朶先生は呆れるでも軽蔑するでもなく、真っすぐな瞳をして言った。
「君は…
許して貰う為に謝るのかい?」
「え?」
「謝罪というのは許して貰う為にするもんじゃない、あくまでも誠意を示す為にするものだ
だから僕は君に『大丈夫、きっと謝れば許してくれる』、なんて安易な事は言わない
君の誠意を彼女に示すべきだ
例え彼女がどう捉えようと、例え許して貰えなかったとしても、まずはそこから始めて、二人で解決していくべきだ
そう思わないかい?」
國朶先生は戸惑う僕をよそに、僕の心を力強くノックした。
「…さっき、桐島さんを見たよ、ホスピタルガーデンで
誰かを待ってるんじゃないのかい?
今日はやけに冷える…
いつまでも待たせといて良いの?」
そう言って、國朶先生は優しく笑った。
気が付けば僕は立ち上がっていた。
彼女が寒そうに桜の木の前で目を閉じている姿が脳裏を過ぎり、さっきまでの身体の重みを不思議な力が押し退けた。
ようやく歩ける、走ってだって彼女のもとへ行ける。
僕は缶コーヒーの残りを一気に飲み干し、ゴミ箱に捨て、國朶先生に「ありがとうございました」と心からお礼を言って、その場を駆け出した。
ホスピタルガーデンに出る扉を開けると冷たい風が僕の顔を打ち付け、室内になだれ込んでいった。
ホスピタルガーデンにはひと気がそんなに無く、5、6人が視界に映り込むだけだった。
空がすっかり暗くなっているにも関わらず、いくつかのライトがその場を照らし、草や花が勘違いしているかのように昼間の顔をしていた。
まるでその場所だけが別世界のように、幻想的な雰囲気に包まれていた。
僕はその中を真っ直ぐ、ただ真っ直ぐに、いつものあの場所へ歩いて行った。
桜の木の前に到着し、僕は彼女の姿をまじかにとらえた。
彼女は長袖の白いセーターにクリーム色のカーディガンを羽織り、デニムのロングスカートを履いていた。
何分、何時間ここにいたのか…、車椅子に座り、彼女は寒そうに白い息を両手に吐きかけ、擦り合わせながら、まるでまぶたの裏から見えているかのように桜の木を眺めていた。
僕は彼女を目の前に、少し震えている自分に気が付いた。
それでも僕は彼女の名前を呼んだ。
「桐島さん…!」
車椅子を動かし振り返ると、彼女は怪しげな微笑を浮かべた。
「寒いの…?声震えてる」
彼女がそう言った後、僕は「うん、ちょっとだけね」と答えた。
その後彼女は淋しげな表情を浮かべて言った。
「今日は来てくれないと思ってた…
昨日も同じような事言ったけど、今日は本当にそんな気がしてた」
「く、来るよ!
昨日約束したじゃん、また明日ねって…!」
「…そうね」
僕は明らかに動揺していた。
それが彼女に伝わって、まるで鏡のように僕に反射してくる。
僕が動揺しているせいか、彼女もどこかぎこちなかった。
少しの沈黙の後、僕は思い切って言った。
「ご、ごめんなさい!!
昨日は本当にすみませんでした!!」
僕は深々と頭を下げた。
例え彼女に僕の姿が見えないとしても、僕は僕なりの誠意を示そうと思った。
しばらくして彼女が口を開いた。
「…ごめんなさいって…何が…?」
その言葉に僕は驚き、頭を恐る恐る上げ、彼女を見た。
彼女の顔は無表情で、何も読み取る事が出来なかったが、何故か僕はそれが哀しい事のように思えた。
「その…キスの事…」
僕がそう答えた後、彼女は小さく言った。
「…そう…やっぱりしてたんだ…」
彼女は再び僕とは逆の桜の木の方を向いた。
「最初なんだかよく分からなかったの
何か、唇にあたったなって思ったら、急にシズくんの声がしなくなって…
なんだかすごく不安な気持ちになったわ…
後で考えたら、そうなんじゃないかって思った」
そう言った後、彼女は少し間を置いて、再び口を開いた。
「そうじゃなければ良かったのに…」
その言葉に、僕はひどく動揺した。
心臓が不安定に脈を打ち、呼吸がうまく出来なかった。
「あ、あの、僕は…」
僕が何かを言おうとした時、彼女はそれに反応して振り返った。
僕は思わず声を失った。
彼女は今にも泣きそうなとても悲しい表情をしていた…。
声を搾り出すように彼女が言った。
「ごめんなさい…別に怒ってる訳じゃないの…
ただ…何て言うか…
ごめんなさい…自分でもすごく混乱していて…
ねぇどうして…?
どうしてそんな事したの…?」
「あ、あの、その…」
彼女の悲しそうな顔を見てると、僕はなんて言って良いか分からずオドオドとするばかりだった。
どんなに考えて、頭の中に優れた言い訳が浮かんだとしても、上手に声に出す自信がなかった。
もし言えたとしても、今の彼女にはそんな言い訳は通じない、そんな予感がした。
だから僕は決めたんだ。
飾り立てた言葉より、素直な気持ちを伝えようと…。
僕は大きく息を吸い込んだ。
「僕、君の事が好きなんだ!!!
まだ出会って一週間くらいだし、変に思うかも知れないけど…
桐島さんの事が本気で好きなんだよ!!!」
どれくらいの声量がその場に響いたのか、遠くの方で話していた人たちも思わずしんとした。
誰かに告白したのはこれが初めてだった。
僕の顔は紅く染まり、言葉にした後は不安と恐怖、そして僅かな期待が残った。
少しでも彼女が笑っていてくれたら…そんな思いで僕は彼女を見た。
彼女は泣いていた…。
嬉し泣きという訳ではない事は僕にも分かった。
俯いて、ただ辛そうに、悲しそうに泣いていた。
僕の中で何かが崩れる音がした。
何かが終わった気がした。
僕はそんな彼女から目を反らす事も出来ず、見続けた。
「…どうして…泣いてるの?」
僕が震えた声で彼女にそう聞くと、彼女は指先で涙を拭って、彼女もまた震えた声で言った。
「…私はね、シズくんが思ってるような人じゃない…そんな風に思われる資格なんてないのよ…
…ねぇ、なんで私がこの病院にいるか分かる?
目も足もずっと昔に失っていて、治療する必要なんてもうないのよ?
少し前まで学校にも通っていたのに、なんで今更病院なんかで暮らしているのか分かる?」
僕は少し考えてから答えた。
「どこか悪いの?」
彼女はその答えに小さく首を左右に振り、言った。
「ここが私の世界だからよ…」
僕にはその言葉の意味が分からず、次の言葉を待った。
だけど彼女はそれ以上説明する事なく、少しだけ微笑んだ。
「もう私たち会わない方が良いわ…
私はシズくんの期待には応えられないし、これ以上一緒にいてもシズくんを傷付けるだけだもの…」
そう言って彼女は俯いた。
僕はさっきから混乱するばかりだ。何故こんな事になったのだろう…。
昨日まで笑いながら色んな話しをして、彼女も少なからず僕に好意を抱いてくれていると思っていた。
僕がした事が彼女をどれだけ苦しめたのか、無知な僕には理解する術も無く、僕は駄々をこねるように彼女に言った。
「イ、イヤだ!
どうして、なんでこんな!こんなつもりじゃ無かったのに…!!
僕はただ、君の事が…っ!!!」
彼女が顔を上げた。
「シズくん、ちゃんと目がある!?
私の姿がちゃんと見えてる!!?」
力強く、叱るように彼女はそう言って、義足を外し、ロングスカートの裾を上げた。
彼女の足は膝から下が無く、その光景は僕の心をえぐった。
「見て私をっ!!
目も足も失った私をどうして好きだなんて言えるの!?
シズくん、私の事何も分かってないよ!!」
彼女は義足を膝に乗せ、車椅子を動かした。
僕の居場所が見えているかのように、僕の横を通り過ぎていく。
「ま、待って!」
僕は振り返り、彼女の肩を掴んだ。
彼女は少しだけ顔をこちらに向けて言った。
「もうこれ以上、私の世界に入って来ないで…お願い…」
彼女は腕に力を込めて車椅子を進め、僕の手から離れていった。
取り残された僕は呆然とその場に立ち尽くしていた。
何が起こったのかさえマヌケな僕には理解できず、彼女の背中が見えなくなっても、ただ立ち尽くしていた。
辺りは寂しいくらいに静まり返っている。
冷たい風が僕を痛みつけ、嘲笑うかのように、後ろで桜の木が揺らいでいた。
何故僕は彼女に出会ったのだろう…。
出会わなければ、好きにならなければ、キスをしなければ、こんな風にはならなかったのに…。
後悔と疑問が僕を支配し、自然と涙が頬をつたった…。
―つづく―