第10話:アドレス
教室に戻るとすでに机は後ろに移動されていて、劇の練習の準備が整っていた。
広々とした教壇の前で、新しく演出担当になった花嶋を囲って何やらみんなで話している。
僕と野々村もさっそくそれに加わると、女子の一人が野々村に気付いて話し掛けてきた。
「あ、ノンちゃんどこ行ってたの?
今ね、とりあえず最初っから通しで練習してみようって話してたの
ちょうど良かった、もうすぐ出番だよ!」
花嶋も主役の野々村に気付くと、全体を見渡せるよう机側に離れ、誰のかも分からないイスに座り、眠そうな掛け声を上げた。
「あー、えーと…
それじゃあ序盤から通しでやりますぅ…
ナレーションお願いぃ…」
僕は一応脚本家として花嶋の横に立ち、劇の練習を見る事にした。
教壇の横でナレーション担当の女子が台本片手に息を吸い込むと、野々村が慌ただしく空間の真ん中に立ち、顔を伏せて静かに出番を待った。
ナレーションが台本を読み始めた。
「ここはこの世界とは別の世界のお話し
魔法が存在し、竜が存在する世界…
とある村に、心を持たない、まるで人形のような少女がいました
少女の名は【セリシア】
これはそんな少女が織り成す物語…」
ナレーションが終わると野々村はゆっくりと顔を上げた。
それを見た僕はゾクッと鳥肌が立った。
その表情は、僕が今まで見た事もない…
普段からは想像出来ない、冷ややかさに満ちていた。
「私には分からない…
泣く事も怒る事も、笑うという事も…
生まれた時から私の胸は空っぽのまま…
何故そんな目で見るの?
哀れみ…
人々はいつもそんな目で私を見る
だけど私は悲しい訳じゃない…
幸福でも不幸でもない
何も感じず、ただ存在するだけ…
…ここにいる、みんなとの違いなんて何があると言うの…?
私には分からない
心というのがなんなのか…」
野々村は、見ている僕たちに手をかざしながらそう言うと、ゆっくりと振り返り、黒板の方へ数歩歩いた。
本番ではここで一度照明が消えて真っ暗になる。
僕は思わず野々村の演技に引き込まれてしまった。
感情の無い凍てついた表情、静けさの中にも力強く響く声、観客を引きつける立ち振る舞い…
どれをとっても完璧だった。
今更だが、野々村の言っていた事は本当だった。
イシズがいない今この場では野々村はニヤける事なく演技に集中していた。
皮肉にもイシズが演出担当を降りた事で、野々村の問題は解決したようだ…。
だけど、不思議な感じだった。
居るはずが無いのに、イシズは確かにここに存在していた。
僕は脚本を書いたに過ぎない。
セリフの中の観客に語りかけるようなフレーズや役者たちの動き方は、全てイシズによって付け加えられ、形作られたモノだった。
劇の練習が進むにつれ、僕は目に涙を浮かべている自分に気付いた。
今まで大道具や小道具を作る作業ばかりしていたから、劇をちゃんと見た事は一度もなかった。
劇中の所々にイシズの足跡がいくつもあって、それを発見する度、僕の文化祭への不安は消えていった。
まだイシズが力を貸してくれているような気がした…。
「おまえ、何泣いてんだ?」
カガリが僕の異変に気付いた。
僕の目には、あと一つ瞬きしただけで落ちてしまいそうなぐらい涙が貯まっていた。
僕は落としてしまわないよう少し上向きに頭を傾けて、鼻をすすって答えた。
「…なんか…
イシズの分まで頑張んなくちゃなって思ってさ…」
それを聞くとカガリは劇の練習風景に顔を向けた。
しばらく沈黙した後、振り返らないままカガリは言った。
「落としちまえよ、その涙…!
我慢してねぇで…
今の内に流すもん流しとかねぇと文化祭終わった時、もっと凄い事になるぜ?」
僕はクスリと笑って言った。
「…いや…
勿体ないからその時までとっておくよ」
そう言いながら、僕は右手で目を擦った。
『ヴー…ヴ―…』
その時、僕のポケットの中でケータイのバイブが鳴った。
開いてみるとイシズからメールが届いていた。
さっき僕が送ったメールの返信だ。
『ゴメン…。
明日は部活があるんだよね。
だから遅くなるけど、午後2時ぐらいからでも良いかい?』
僕は思ってもみない返事に驚いた。
ずっと今回の事でイシズに避けられてしまう気がしていた。
だけどそれは僕の思い過ごしだったようだ。
僕はイシズの返事が嬉しくて堪らなかった。
「静谷ぃ…
次出番だよ?」
突然気の抜けた花嶋の合図が聞こえた。
目の前には野々村と花嶋が立っていて、少女を笑わせようとするピエロ役の僕を待っていた。
僕は慌てて自分のバックからボールを三つ取り出して、位置についた。
正直ジャグリングをみんなの前で披露するのはこれが始めてで、僕は緊張していた。
「わ、笑う事が出来ない少女ってのは君かい?
へへ、嘘付いちゃイケないなぁ!
こ、これを見てもそんな仏頂面していられるかい?
あらよっと…!」
僕の演技は自分で言うのもなんだが、たどたどしく、お世辞にも上手いとは言えなかった。
だけどこれが今の僕の精一杯だった。
三つのボールが空を舞うと、僕は日頃の練習のかいも無く大慌てしてしまった。
緊張のあまり一斉にほうってしまった為、順序もめちゃくちゃでどれから受け取れば良いのか分からなくなった。
とりあえず無秩序に広がるボールの一つを掴み取ろうと左手を延ばしてみた。
だけど取り損ね、僕の掌底により弾かれたボールは、猛スピードで野々村の頬をかすっていき、その先にあった綺麗な花が飾られている花瓶を粉々に割った。
『しくじった』、そう脳裏を過ぎったが後悔している暇はなかった。
まだボールは二つ残っている。
次に僕は右フックを応用してボールを取ろうとした。
脇を締め、腰の回転により繰り出されるそれは、何よりも素早く取る事が出来、ボールが地に落ちるまでのタイムリミットを考えると今後の展開を有利に進められると思った。
僕の右フックがボールの一つを捕らえた。
だけど僕はあまりの慌てっぷりに手を開く事を忘れ、そのまま殴りつけてしまった。
するとボールは豪速球で僕の親友のカガリの方へ飛んでゆき、右頬にめり込んでいった。
崩れるように倒れてゆくカガリは、まるで大災害に見舞われた子供のような、切なく、そして悲しそうな表情をしていた。
―ふとした瞬間、最後のボールを見失った。
次にその姿を確認したのは、まさに地に落ちる寸前、僕の足元だった。
ここで諦める訳にはいかなかった。
数々の犠牲を払った罪悪感や責任感がこの僕を突き動かした。
僕はボールを蹴り上げた。
ボールは再び頭上に戻り、ふんわりと…
延ばした手の中に納まっていった。
思わず叫んだ。
「やあッッ!!!!」
もはやジャグリングの域を越えていた。
その事にしばらく気付かないほど、この時の達成感は僕を満足させていた。
ボールを掴んだ手を高らかに上げたその勇ましいポーズの状態からふと我に返ると、辺りはしーんと静まり返っていた。
ここまでのやり取りに5秒しか経っていない事に僕自身驚いた。
それほど僕の集中力が増していたのだ。
辺りを見渡すと家での練習時のような惨劇がまたも繰り返されていた。
花瓶は粉々に割れ、カガリは倒れ込んだまま沈黙し、笑う事の無い少女を演じていたはずの野々村は恐怖のあまり笑っていた…。
たたずむ僕をみんなが冷ややかな目で見ている。
「シズ…ゥ!」
息を吹き返した親友のカガリがそう言いながらムクリと立ち上がった。
この後の展開を想像し、僕は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。
目を光らせ、ゆっくりと近付いてくるカガリに僕は慌てて言った。
「あ、お客様、舞台に上がらないでください!
役者にはお手を触れないようお願いします!!」
精一杯の制止にも関わらず、その足を止める事はなかった。
一歩、また一歩と距離を縮めてくるカガリに、僕は恐怖した…。
今ここで逃げ出す事は簡単だった。
だけど、きっとカガリは逃げる者を追いたくなる犬の本能のように、どこまでも僕を追いかけてくるだろう。
足が早い方ではない僕には逃げ切れる自信がなかった。
だけど次の瞬間、気が付けば僕は走り出していた。
逃げ切れないのは分かっていた、だが危機から逃れようとあがく生存本能がこの僕にそう命じたのだ。
「待てシズこのー!!」
案の定カガリは目を逆三角にして追って来た。
廊下を猛スピードで走っていると所々に『廊下を走るな』の校則が貼られているのに気が付いた。
…だけどそんな事を気にしている場合ではなかった。
例え不良と呼ばれようともこの足だけは止める訳にはいかない、カガリが今にも僕の肩に手を掛けようとしていたのだ…。
一方教室では、突然走り出した僕たちを見てみんな呆然としていた。
練習の続きをするにしてもそれを合図する者が誰もいなかった。
みんな演出担当の花嶋の発言を待っていたが、当の本人は教室のドアから顔を半分出して廊下の向こう側の様子を窺っていた。
「ギャーーー!!!」
どこかから悲鳴が聞こえてくると、花嶋は満足したように教室のドアを閉めた。
「…面白い奴だな、静谷って…!」
さっきまで眠そうにしていた花嶋は、何故か突然目が覚めたようなキリっとした口調でそう言った…。
騒動の後、僕はカガリの大道具作りを手伝っていた。
「あ、悪いシズ
そこの釘取ってくんね?」
「はいカガリさん!
どうぞ!!」
僕が釘を手の平に数本乗せ差し出すと、カガリは一本ずつ取りながら釘を打ち込んでいった。
手の平の釘が無くなるまで、僕はずっと手を差し出した体勢でカガリが打ち終わるのを待った。
カガリは手先が器用で、大道具や小道具を作るのはお手の物だった。
今まで作られてきた道具はほとんどカガリの作品で、騎士の武具や城の背景、僕の頭のタンコブは全てカガリの手によるものだ。
「今日はまだ良いのか?」
突然カガリが聞いてきた。
「病院の子だよ
今日も行くつもりなんだろ?」
「ああ、うん…」
僕はそれだけ言って口を閉じた。
僕の沈黙を不思議に思ったのか、カガリはまた聞いてきた。
「なんだ?
まさか昨日の恥ずかしさ、まだ引きずってるってんじゃないだろうな?
どこまでウブなんだよおまえ…」
僕はギクリとした。
「ち、違うよ!
ただ何て言うか…」
僕がまた口を閉じたら、カガリは呆れたようにため息をついた。
僕はそれを見て、観念したように口を開いた。
「…なぁカガリ?
おまえだったらやっぱりそういう時…その………
…何か行動したか?」
僕はあまりダイレクトには聞かず、遠回しに聞いてみた。
「あ?
ああ、朝言ってた事か?
あれは冗談だよ決まってんだろ!
第一、おまえ彼女と出会ってどんぐらいだ?」
「…一週間ぐらい…?」
僕は自分でそう言って少し意外な気がした。
彼女とはもう何ヶ月も前から知り合っていたような親しみを覚えていた。
カガリが続けて言った。
「だろ?
そんな会ったばっかりでチョメチョメなんてしてみろ
ビンタされるか、一生口聞いて貰えなくなるか、どっちにしろ嫌われるのがオチだぜ?
純情ダッシュの方が全然マシだっつの!
ハハハ!」
「そ、そうだよね…
ハハ…」
時間は四時半を回り、文化祭の準備をしていたクラスメイトの大半が帰り始めた。
僕も帰り支度を整えていると野々村に呼び止められた。
「静谷くん、あの…」
「ああ、ちょうど良かった野々村!
明日なんだけど…」
僕がイシズからの返信の事を話そうとすると、野々村は慌てた様子で僕の口を手で塞いだ。
野々村は警戒するように辺りをキョロキョロと見渡した。
「と、途中まで一緒に帰ろう…?」
僕は口を塞がれたまま、小さく頷いた。
帰り道、僕はまたしても家とは逆方向を歩いた。
一体いつになったら僕の家の方角を野々村に伝えられるのか…
考えてみたが不思議とその日は当分訪れない気がした。
「ああ、それでイシズなんだけど、明日大丈夫だってさ」
「ほ、ホントに!?」
野々村は目を真ん丸にして喜んだ。
「じ、じゃあ明日どうしようか?
遊園地行く?
それとも大きな池のある公園に行く?
ボート乗ってみたいなー!」
野々村は有頂天ながらにそう言った。
まるで僕がいる事を忘れているかのごとくのデートコースだ。
「野々村…
イシズに演劇部の話しを聞くんじゃなかったの?
それにイシズ、昼間は部活があるみたいで、2時ぐらいになるんだってさ
そんなどっか遊びに行ってる時間ないよ?」
「そっか…
それじゃあ近場でカラオケかな?
どうしよう私そんなに歌上手くないよ〜…!」
そう言って野々村は頭を抱えた。
なんだか暴走気味だったけど、野々村が嬉しそうにしていると僕も嬉しかった。
このままイシズと上手くいったら良いなと思った。そうでなければ応援する甲斐がないと言うものだ。
「あ、そうだ野々村
待ち合わせ場所どこが良い?」
「え?
私はどこでも良いよ?
石塚くんに合わせた方が良いんじゃないかな?
部活の後なら学校とか?」
「でもイシズも一度家に帰って着替えるだろうし…
あー、それじゃあイシズにどこが良いかメールで聞いてみるよ
悪いけど野々村のアドレス教えて、後で決まったらメールするから」
そう言って僕はケータイを取り出して、赤外線通信でアドレスを受け取る準備をした。
「…えっ…」
突然野々村は立ち止まり、会話が途切れた。
僕が振り返って確認すると、野々村は戸惑っていた。
きっと僕が何かマズイ事を言ったんだと思う。
「…あ、ゴメン、嫌なら良いけど…」
僕がそう言うと、野々村は我に戻ったように反応し、首を横に振って言った。
「い、良いよ!
ハハ、ゴメンねなんか…
男の人にアドレス教えるの、お父さん以外で初めてだったから…
ちょっと動揺しちゃった、ハハハ!
えーと…赤外線で送れば良いんだよね?…」
そう言いながら野々村はケータイを取り出して操作を始めた。
意外だと思った。
野々村は男子とも結構仲良さそうに話してて、メールのやり取りぐらいしてるイメージがあった。
考えてみたら僕も女の子からアドレス教えてもらうのは初めてだった。
ケータイを近付けると野々村のアドレスが送られてきた。
「…それじゃあとりあえず僕のも送っとくよ」
そう言いながら僕はアドレスを送った。
野々村のケータイが受信を合図をした。
「あ、きた」
「それイシズの」
「…え?」
野々村はキョトンとした。
僕はイタズラのようにニヤニヤしながら言った。
「せっかく初めて男の人のアドレスを登録するって言うのに僕のじゃなんだからね!ニヒヒ…!
それじゃ今度は僕のを送るよ!」
そう言って僕は自分のアドレスを送った。
「あ、ありがとう…」
野々村は嬉しそうにそうお礼を言った。
「それじゃあ僕ちょっと用事があるから、先行くね?」
「あ、うん
あっ…!」
僕が走り出そうとすると、野々村が変な声を上げた。
振り返ってみると、野々村が照れ臭そうに言った。
「静谷くんって…
良い人だね…!」
「…そう?
イシズの方が良い奴だよ、ハハ」
まともに受けたら赤面してしまいそうで、僕は思わずイシズを持ち上げた。
走ってすぐの角を曲がり、僕はぐるっと遠回りして病院に辿り着いた。
肌寒い秋空の下、白く吹き出す息を整え、僕は病院を見上げた。
僕の頭の中にはあの時の光景が鮮明に映し出されていた。
病室のベットに座り微笑む彼女、鼓動が高鳴り続ける僕―。
その時の事を思い返し、僕は思わず白いため息を吐き出し苦悩の表情を浮かべた。
いつもいる桜の木の前に、今日は彼女はいない気がした。
…その理由は僕自身がよく知っていた。
実は僕には、親友にも言えなかった空白の時間がある。
純情ダッシュで走り去る前、ポッカリと空いた空白の時間。
僕は彼女に手を振ってそのまま帰るはずだった。
「最低だ…」そう思わず口から零れた。
あの時の事を思い出すと胸が締め付けられ、息もロクに出来なくなる。
今でも理由が見付からない。
あの胸の高鳴りが真実だと証明したかったのか、その時の気持ちを共有したかったのか…。
何故僕はあの時…
彼女にキスをしてしまったんだろう…。
―つづく―