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一般向けのエッセイ

イ・チャンドン 「ポエトリー アグネスの詩」 感想

   

 ※ネタバレあり

 

 

 イ・チャンドンの「ポエトリー アグネスの詩」という映画を見ました。かなり衝撃を受けました。

 

 この映画は韓国の映画で、韓国と日本は今揉めていますが、韓国の映画を見るとことごとく社会風俗、雰囲気が似ているので、見ていると感情移入の度合いが強くなる感じがします。ヨーロッパの映画だともうちょっと距離を持って見れるのですが、見慣れた感じの風景や顔が出てくると、色々精神的にくるものがあります。

 

 この「ポエトリー」という映画は、おばあさんが主人公です。初老のおばあさんがアルツハイマーにかかり、少しずつ言葉を失っていく。それと共に、全ての言葉が失われる前に、自分の想いを書き留めておきたいと考え、詩の教室に通う。これが作品の核を成す一つ目のストーリーです。

 

 で、特徴的なのはもう一つストーリーがある事です。こっちのストーリーはより強烈でえぐい内容です。このおばあさんは、娘の子供、つまり孫の少年を預かって、面倒を見ているのですが(母はどこかに行ってしまっている)、少年が集団強姦事件に関与していた事がわかります。強姦された女の子は悲観して、自殺してしまうのですが、その死体が川から流れてくるというのが作品の始まりです。

 

 おばあさんは最初、少年らの集団強姦に対して揉み消そうとします。といっても、能動的にやっているわけではなく、少年達の父親が集まって、この件を金で解決しようとして、それになんとなく流されて同調してしまうという風です。大人達は、少女の母親に金をやって強姦を表沙汰にしないように裏で工作していきます。おばあさんは最初は同調するのですが、ラストの方で、そういう事をやめようと思い、罪を背負う事を決意します。それで、孫の少年を警察に引き渡し、おばあさんは自殺します。この自殺は贖罪の意味があるわけですが、同時に少女の自殺と自分の自殺をイメージとして重ねるという意味合いがあるわけです。

 

 非常に独創的だと思うのは、作品の最後で、おばあさんがようやく、「詩」を書けるようになった、という事です。ストーリーの作り方として、ここにはイ・チャンドンの特徴が出ていると思います。おばあさんは、自殺した少女に向けた詩を書きます。それが詩の教室で、おばあさん不在の中(もう自殺してしまっているので)、先生が読み上げるシーンで作品は終わります。

 

 作中、少年の犯罪のもみ消しの件と並行して何度も、おばあさんが詩を書こうとして書けないという場面が出てきます。おばあさんが詩を書く事ができるようになるのは、贖罪のために自殺すると決意して後の話です。自分が贖罪の為に死ぬと決意して、始めて、自死した少女の内面がおばあさんに見えてきます。それで始めて詩が書けるわけです。つまり、自分の死と引き換えにやっと詩が書けるという、非常に切ない描写になっています。

 

 作品を見ていて、とても苦しい思いに囚われたのは、強姦をした少年も、揉み消そうとする少年の父親達も、誰も何も感じていないという事です。内面的にはゼロと言ってもいいでしょう。彼らは、自殺した少女の内面を想像するという、いわば詩的営為が決定的に欠けています。しかし同時に、こうした人達は日本にも、いや世界中にいるだろうごく「普通の人々」であるとも感じました。人間の残酷さというのはどこに現れるのか、と色々考えてしまいました。

 

 僕が思い出したのは、タレントが事件を起こして謝罪をするとか、そういう事です。あるタレントが強姦事件を起こして、その母親兼女優が謝罪した事もありました。

 

 しかし「反省」というのは何を意味するのだろうか、と考えました。子供が事件を起こしたら親が謝罪する。頭を下げる。それを世間は「反省」と取るしかない。なぜなら、人は他人の中身を見られないからです。だから形だけ謝っても、それを謝罪と取るしかないのです。逆に心の底から悔恨に満ちていても、形式的な謝罪をしなければ人はそれを謝罪とはみないでしょう。

 

 映画の中で、事をもみ消そうとする親達はごく普通の人物として描かれていました。彼らは、場合によっては謝罪しただろうと思います。涙を流して、土下座ぐらいだったらしたかもしれない。しかしそれはあくまでも「自分の子供の為」か「自分の為」であり、何故、彼らが苦しい思いをするかと言うと「子供が世間に迷惑をかける大変な事をしてしまったから」だと思います。つまりどこまで行っても、被害にあった人間の心中を察するという営為は現れない。どこまでも自己中心的なのですが、むしろこの自己中心性を人は好んでいるようにすら思います。それが家族愛だったり、友愛、恋愛という形を取ったりするというのは一般的ですらあるしょう。しかし彼らの心にはどこまでも「他者」はない。

 

 他者がない精神、というのはむしろ非常にありふれている、という気がします。いや、それこそが、人々の精神的健康の源なのではないかと疑ってしまいます。例えば、僕がもし、人を殺したら、僕の親は相手の家族に謝罪するかもしれません。金も払うかもしれない。子供はきちんとしつけたつもりだった、と言うかもしれない。しかし、僕の親は僕の内面ないし、僕に殺された相手の内面、そこで起こった事を見ようとするのか。心において「感じる」という事、それ自体が剥奪された状態であるにも関わらず、それがわからず、為に「しつけ」や「教育」が欠けているから犯罪は起こったと誤認するのではないか。人間というものの暗黒性はむしろ、その健康性にあるのではないかと考えさせられました。

 

 主人公のおばあさんは最終的には、死ぬ決意をします。死の決意をして始めて、この世界の美しさも醜さも目に入り、少女の内面も洞察する事ができ、それによって「詩」が書けるようになる、という非常に残酷な設定をイ・チャンドンは強いています。これは辛い過酷な話ですが、真実性のある話です。結局、内面を知るのは内面でしかない、と。死を覚悟した人間だけが、死に至った人間の内側を知る事はできる。最終的に少女の内面を洞察し、また、世界を違う光で見る事ができ、自分の言葉を発する事ができるようになったのはおばあさんだけです。強姦した少年らも、その父親達も、きっと精神的健全さ、社会的健全さという点では自死を選んだおばあさんよりも上なのでしょうが、そうした彼らは結局はよくできた虚無でしかない、と作品は謳っているように思われます。

 

 この作品のラストが救いなのか、破滅なのかは当然、それを見る人に委ねられるでしょう。ただ、一つ言えるのは、イ・チャンドンという監督が、主人公のおばあさんをひたすら救いのない辛い過程に追い込んで、そうして人間の真実性を発見しようとした、そういう方法は非常にオーソドックスな文学的方法と言えるだろうという事です。僕は、死に絶えたと思っていた文学が意外な場所でまだ生きていたのを確認しました。希望を歌う明るい人間達に希望はありませんが、絶望を握って離さぬ者に希望は存在するとも言いかえられるでしょう。イ・チャンドンという優れた監督を見つけられて、個人的には良い体験でした。そうしてここから、また人間に対する理解の第一歩を始める事が可能なのだと、改めて確信する事ができました。

 

 

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