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一般向けのエッセイ

ファースト・ガンダムの印象

  

 「機動戦士ガンダム哀戦士」を見ていました。ファーストガンダムです。劇場版の二作目ですね。なぜか二作目から見ていました。「マチルダさーーーん!」まで見ました。

 

 で、ファーストガンダムはすでに全部見ていたので、内容は把握していたのですが、今見返しても良いですね。駄目だなとか、良くないな、とかは思いませんでした。

 

 徐々に入っていきますが、ガンダムの後のエヴァンゲリオンなんかは異様に騒がれましたが、結局、エヴァというのはガンダムのエピゴーネンというか、別にエピゴーネンでも全然OKなんですが、結局、エヴァというのは、何を描きたいのか、何をやりたいのか不明瞭な作品だったと思います。その穴ぼこにみんなが幻想を詰め込んで、作品のクオリティも悪くなかったので、あれだけ膨らんだ作品になったのかもしれませんが、結局、エヴァンゲリオンというのは何だったのか。劇場版の新しいものを前に映画館で見ましたが、やっぱりわからないという気がします。まあ見返さないとわからないでしょうが、でもドラマ版のラストがあれだから…やっぱり、よくわからないというのが普通かと思います。

 

 まあ、それは良いんですが、それではガンダムはどうか。僕は見ていて感じたのは「太平洋戦争を描いている」という事です。僕は、ガンダムの製作者は戦争というもの、それも非戦闘民もガンガン死ぬ第二次大戦を描いているという印象を持ちました。ネットで見た富野由悠季のインタビューだと、これまでの貴族同士の戦いとは違って市民同士の残虐な戦いになったのが第二次大戦で、それを作品に投影させたと出ていました。ネットに掲載されたインタビューなので、ちゃんとソースにあたったわけではないですが、個人的には納得できる言葉でした。

 

 最近、歴史家・会田雄次の「アーロン収容所」という本を読んだのですが、これは第二次大戦に従軍した体験記で、会田はイギリス軍の捕虜になったので、その時の話が出ています。この本自体は名著ですが、読んでいると(戦争というのは嫌だな)というか、つまり、昔のような戦闘をする人間同士が堂々と命を懸けて戦うというのとは違う、もっと陰惨な匂いというのがあって、第二次大戦にはそれがどこでも色濃く出ているという印象を持っています。第二次大戦に関する本は他にもいくつか読んでいて印象に残っているのですが、それらに共通して感じるのは何か陰惨な匂いです。人間というものがやってはいけない事をやり始めた、という感じです。

 

 機動戦士ガンダムでは、人がどんどん死にますが、そうしてそれに対する悲しみが作品の主調音でもありますが、そこにはある種の痛切さがあると思います。そこに何故痛切さがあるかというと、監督の富野由悠季が、戦争というものを真剣に考ようとしたからだと思います。同じような事で言えば、北野武の全盛期の映画の暴力描写、暴力性には痛切さがある。これも武自身の経験とか、彼が真剣にそういうものを描く必要があったからだと思います。

 

 そういうわけで、ファーストガンダムなんかは、本気で現実をフィクションで抑えていこうという意図が感じられるのですが、これが次の代、また次の代になると変わってきます。僕は自分自身が恐ろしく薄っぺらい世代だと自負しているので、自分で色々考えて遡らなければならなかったと思っています。後から来た世代は当然ですが、痛切さというものがなくなっていきます。マチルダさんのようなキャラが亡くなっても、それはプロット上、必要な措置と捉えられたりします。で、後は頭の良い人がただの「技術」として、色々なストーリーやキャラクターを描いてそれが受けたりするのですが、そこには初代にあった痛切さは消えているわけです。

 

 なんでも初代がいいというわけではないですが、会社なんかでも三代目くらいで潰れるのが普通という話があるように、だんだん、根っこの部分が何かわからなくなってくるという事はあるかと思います。僕らの世代は根っこが何もない世代、その上の世代ぐらいもよくわかっていない、そんな感じで、とにかく消費社会の中で適当にうまくやればいいという雰囲気だったので、遡るのが大変でした。あー疲れた。

 

 で、当然と言えば当然ですが、オタク的な観点をいくら探っても「この作品は何を描こうとしているのか?」といったタイプの問いは出てきません。それはそれで良いのですが、ガンダムから抽出されるのは「モビルスーツのかっこよさ」だったり、枝葉末節が色々議論されはしますが、その根底の部分については触れられない。だから、「ガンダムのような作品はなぜ今出てこないのか?」と問うたら、出ないのが当然だと考えた方が良いかと思います。

 

 声優になりたくて声優になる。アニメーターになりたくてアニメーターになる。作家になりたくて作家になる。そこで何を描くべきなのか、何を表現するのか、自分の中の痛切なものをどれほど、世の中の流れの中で守り抜けるのかというのが創作の問題になってくるでしょうが、今その戦いをする人間はいないだろうし、富野由悠季のような人が出てこれたのはそもそもアニメ業界が未成熟だったからだと思います。

 

 今は色々成熟した状態で、また、日本は落ち目とは言え、一応そこそこに富裕な社会であるわけです。今は転落中ですが、ここ何十年かはそうだったと思います。で、こういう状態だと、現実というものに対する鋭い感覚は消えて、フィクションが現実と遊離して氾濫する感じになります。それがこれまでの状況で、どの作品を見てもうまかったり、それなりに高度だったりするのですが、作者の「宿命」というのを感じない。作者が宿命を感じなくて良くなったというのはクリエイティブが資本主義の中に完全に組み入れられ、その中で作者の個性は現れているようで実は疎外され、それが普通になったからだと思います。

 

 例えば、作中で、主人公が恋をしている人が死ぬとします。脚本家はなぜそのキャラクターを殺したのでしょうか。今の脚本家なら「その方が受けが良いから」「視聴者が感情移入できるから」…などと答えるでしょう。この答えが『標準的』になっている。脚本の構成の背後に、作者の哲学というものはない。まあ、哲学なんてものを期待する方が間違いなのでしょうが、過去にはそういう人はいました。今はみんな利口になっているので、そんな馬鹿な事はしないという事なんでしょう。

 

 ガンダムでは「ニュータイプ」という共感能力の高い人間が出てきます。これはなぜ出てくるかと言えば、僕の理解ですが、まず戦争を描くに当たって、戦争がなぜ起こるのか?という問いがある。すると、戦争が起こるのは「人は互いにわかりあおうとしない、わかりあえないから」という理由が見えてくる。そうすると、「ではわかりあえる人間が戦争の極限状態で出てくると仮定して、それに希望を託せないか?」と考えていく。実際はどうかしりませんが、そういう感じでプロットは作られていったんじゃないかと思います。少なくとも、そういう風に重層的に考えられるわけです。

 

 これが、「ニュータイプはかっこよくて強くて、特殊能力がある」と考えるとかなり平板になります。こういう考え方だと、作品が薄っぺらっくなる。今はあらゆるところでこういう見方が普通になっているんじゃないかと思います。というか、僕も現代人なのでそういう風につい考えてしまいます。

 

 長々と書いてきましたが、ここまでを読み返すと、僕がものすごく「機動戦士ガンダム」という作品を絶賛しているように見えると思います。もちろん好きだし、良いと思っているんですが、本当はもっと奥行きがある見方をしたいというのが本音です。今、富野由悠季のインタビューを見たらゲーテやらバルザックやらの話が出ていたんで、「ガンダムよりもバルザックの方がいい」と言っても怒られないでしょうか。富野御大は怒んないかね。(バルザックは作家です。ドラクエのボスじゃない!)

 

 まとめると、作品を作る動機、根底的な動機というのは、作者自身の個人的経験や教養と絡んだ「語り得ぬもの」と言いますか、非常に根っこの深いものです。自らの中にある根っこに気づく事すらできないのが現在なので、混乱の中で自分を見失うのは現在ではむしろ普通でしょう。

 

 最近、日本の古典について調べたりしているのですが、例えば「蜻蛉日記」なんていうものはなぜ時代を越えて残っているのでしょうか。女々しい女子の嘆きが延々連なっている…それが日本の王朝文学で、その頂点にあるのが源氏物語ですが、なぜそういうものには価値があるのか。日記で言えば石川啄木の日記なんかは、日記文学として傑作だと思いますが、啄木が公的にやっていた小説や詩よりも、隠れて書いていた短歌や日記の方が価値があるのはなぜなのか。そういう事は、ガンダムにおける価値が、事実としての「戦争」をフィクションできっちり描こうとしたという事柄と、どこかしら関連があると考えています。

 

 つまり…なんといえばいいのか難しいですが、公的なもの、装った表情で作られたものより、ふと後ろを振り返って書かれた個人的なもの、私的なもの、自分の痛切な感情から汲み取られたものの方がかえって価値があるというのはフィクションの領域においてはしばしばあるのではないかという事です。これが現在では、私的と見えるものも、資本主義の流れの中で、その根っこ自体が「公」に変換されているので、「私」自体が発見しにくいという問題があります。誰も彼もが、主観的な感情や意見をばらまいていますが、それらに後世の人間は「個性」を認めないでしょう。では、個性とは何か。現実とフィクションとの折り目に位置するクリエイターとは何か。

 

 この問題は非常に難しいと思いますが、何らかの運命ー宿命があって、富野由悠季は「戦争」をテーマにしたのだと思います。表面的には「それが売れると思ったから」「流行りだったから」と言うかもしれませんが、それだけではないものが現れているからあれほどの作品になったと思います。では、その根っこの部分とは何かと言えばそれこそ人に教えられないものです。これは才能というより、もっと微妙なものの気がします。こういうものを自分の中に持っている人は意外に沢山いると思いますが、それを自分の表現と結び付けられるようになるまで成長させるのが難しいのです。

 

 で、機動戦士ガンダムという作品は、そういう富野由悠季という人の資質がうまく出た作品だと思います。作家が、人を感動させようとしたらもうそこで終わりです。現実の人生は悲しい、人間の死というものは辛いものだ、という身を切られるような体験があって、そういう内的経験や感受性があって、それが外に現れるから結果として人が感動する。

 

 これが、今よくやられているように、いかにもそれっぽい音楽をぐわーんと流して感動の涙を搾り取る、ああいうものはよくないものだと思います。ガンダムのキャラクターが次々に死んでいくのは、実際の戦争の悲惨さが作者の背後に滲んでいるからだと思います。現実との紐帯を絶った作品には未来はないと思います。それは市場の中を動き回るおもちゃに過ぎない。しかしそういう作品でも、感受性の乏しい視聴者がこぞって賛成する事はあります。その場合、それらの塊そのものが時代の変化と共にゴミ箱に投げ入れられ、そうして誰も顧みないものになるかと思います。ガンダムは色々、僕に考えさせてくれました。残りの部分もちゃんと見ようかと思います。

 

 追記:最後まで見ましたが、「ニュータイプ」というのはナチスの優生学の思想のメタファーになっているのだと後から気づきました。色々な見方が可能だと思います。

 


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[良い点] 面白かったです。 [一言] ガンダム、イデオン、ザンボット、某ゲームをやっていたので薄く知ることになり、ガンダムだけは着目して見るようになりましたね。丁度、シリーズとしてはTV放送がありま…
[良い点]  読み物として普通に面白かったです。 [気になる点] >「ガンダムのような作品はなぜ今出てこないのか?」と問うたら、出ないのが当然だと考えた方が良いかと思います。 ⇒  一応、『コードギ…
[一言] エヴァンゲリオンの不明瞭さは『こんな作品にしたい!』ではなく『こんなシーンを映像で作りたい!』でシーン間を後埋めして生まれた作品だからですね。 監督がそういうシーン最優先タイプですから。 …
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