07
宿に戻って一階の食堂で夕食を済ませ、二時間後くらいには就寝となった。
昨日と違ってそれほど疲れていなかったから正直あまり眠気はなかったけど、頑張って目を閉じつづけた。
結果、訪れたのは浅い眠りだ。
だからだろうか、普段なら気にもならないような小さな音一つで、目が覚めた。
音は、ベッドの方から聞こえた気がした。
俺は上体を起こして、なんとなしに視線を流す。
こちらに顔を向けて眠るルノーウェルさんの姿が確認できた。……癖なんだろうか、胸元に握りしめられた左手が添えられている。
寝ている姿をまじまじと見るのも失礼な話だけど、それが妙に気になって、
「……おとう、さま」
ぽつりと漏れたか細く震える声に、どうしようもなく胸がざわついた。
想像、してしまったからだ。
やっぱり、あのペンダントはどうでもいいものなんかじゃなくて、それこそ形見のようなもので……だけど、レニ・ソルクラウを優先して諦めた。
これまでの彼女の行動を鑑みれば、それは十分あり得る話だった。
でも、だとしたら、最悪だ。ここに居るのはただの紛い物なのに…………ほんと、どうしようもない気分で、いっそのこと、その事実を告白してしまいたいくらいだった。
……莫迦な考え。それこそ最悪だ。考えるまでもなく、ありえない。
何故なら、その先には何一つ救いがないからだ。
既に賽は投げられてしまったのに、今更自分がレニじゃないなんて伝えたところで、ルノーウェルさんに残るのは絶望的な後悔だけだろうし、俺が得られるのもくだらない自己満足だけ。
この世界で今、俺が頼れるのは恥ずかしながら彼女しかいないのだ。その彼女との関係を確実に破綻させる選択なんて、今更取れるはずもない。
まったくもって、現金で保守的な話。……でも、だからこそ、今目の当たりにしている光景をこんなにも重く受け止めてしまっている自分がいて、とてもじゃないけど、それをただの勘違いにして、なかったことにして眠るなんて真似できそうになくて……。
鈍重に過ぎていく時間がもどかしくて、気持ち悪くて、このままの状態でなんていられなくて…………だったら、やる事は一つしかなかった。
これはまだ、取り返しのきく後悔のはずだから。
「……」
俺は音を立てないように静かに部屋を後にして、腹を決めて夜の街に踏み出す。
昼間と比べて外はずいぶんと肌寒い。けど、意識を研ぎ澄ますにはちょうどいい温度だ。
……大丈夫。あの男の気配――おそらくは魔力というもの――をこの身体はまだ覚えている。なら、探し出すことはできるはずだ。
眼を閉じて、更に気配に集中する。
感覚的なものだから言語化するのは難しいけど、匂いを嗅ぎつけるのに近いだろうか、なんとなくの方角と距離を掴みながら、俺は足早にそちらに向かって進んでいく。
そして、積み木のような建物の群れで構成された下地区に辿りついた。
かなり近づいた証拠か、相手の気配がより鮮明になる。……直線距離で、あと三十メートルほど。
この辺りから、自身が発する音を出来るだけ殺す事を意識して、迷路のような路地をかいくぐる。
もうじきだ。もうじき遭遇する。あの角を曲がったらだ。
その確信と共に、俺は弱気に蓋をするように拳を握りしめて――
「――てめぇ、手間取らせやがって、ふざけてんじゃねぇぞ!」
バキッ! と力一杯になにかを殴った時のような嫌な音が、鼓膜に届いた。
二度、三度、四度と、その音は繰り返される。
加減を知らない暴力の響き。
「ごめんなさいじゃねぇんだよ、間抜けがっ! てめぇが謝罪してこっちの腹がふくれんのか? 他人の場所で勝手に商売してよぉ、払うもん払わねぇってのはどういう了見だ? ぶち殺すぞっ!」
怒声の主は若い男のようだった。あの酔っ払いのふりをしたスリの声とは違う気がする。
なんにしても、このまま出て行くのは危険だ。俺は角に身を隠しながら、まずは様子を窺うことにした。
ぽっかりとひらけた空き地のような行き止まりに、四人の男がいる。そのうちの一人は地に伏せて、げほげほと血の混じった吐瀉物をまき散らしていた。目当てのスリだ。
「まあまあ、そう早まるなよ。今のはこのおじさんの冗談みたいなもんだろう? 金持ちが景気悪いってぬかすのと同じさ」
こちらから見て左手にいた金髪の男が、真ん中の暴力を振るっていた茶髪の男の肩を叩きながら、柔らかい口調で言う。
その物言いに、右にいるスキンヘッドが微かに身体を強張らせた。
つまりは、そういうことなんだろう。この金髪がリーダーで、多分一番ヤバい奴で――そんな俺の直感を裏付けるように、金髪はいきなりスリの右脛を踵で踏みつけた。
骨の潰れる凄まじい音と共に、右足があり得ない方向にへし折れる。
「だってほら、このあたりから、こんなにも金の匂いがするじゃないか? なあ?」
絶叫を愉しむような恍惚を声に混じらせながら、金髪は折れた方の足首を掴み、もう一方の手にもったナイフで、肉ごと太腿のあたりまでズボンを切り開いた。
そして、膝の裏に張り付けていたらしい、血塗れになっていたルノーウェルさんのペンダントを取り出す。
「これは、他にも色々と隠れてそうだよなぁ、よく調べないとなぁ。はは、愉しい宝探しになりそうじゃないか。なあ?」
……不味い状況だ。いくら相手がスリとはいえ、このまま見殺しにするわけにもいかない。とはいえ、どうやって事態を切り抜ける? かなしいかな、具体策が浮かばない。
そうこうしているうちに、金髪はナイフをスリの眼球に突き付けて、
「そういえば、昔その奥に宝石隠してたやつがいてさ。まあ、そいつは義眼だったんだけど、あんたにも可能性はあるよな?」
「っ、止め――」
「ずいぶんと愉しそうなことしてるじゃないか? ねぇ、あたしも混ぜてよ?」
咄嗟に出た俺の制止をかき消すように、晴れやかな少女の声が頭上から響いた。
思わず視線をあげる。
そこで真っ先に目に付いたのは、この空地を挟んで存在する左右の建物同士を繋ぐように、微かな明かりを漏らしている大きめの窓に掛けられたいくつものハシゴだった。
一番低いもので四階程度の高さだろうか、高いものにいたっては二十階以上にもみえる。
墜ちたら大怪我は必至だ。というか、こんなところを渡る神経が信じられない。
信じられないが、声の主は七階相当の高所から、あろうことか階段を下りるような気軽さで下にあるハシゴに飛び移っていき、音もなく地面に着地した。
「……リッセ」
微かに強張った声で、金髪が呟く。
リッセと呼ばれた少女は、相手の反応に満足するように鼻で嗤い、
「なに? 続けないの? それともようやくここが何処かわかったか? 間抜け共」
「……あぁ、今理解したよ。まったく無様な話だがな」
自身の髪をバサバサとかきみだして、金髪はため息をついた。
「自覚があってなによりね。で、口止め料なら受けとってやるけど、どうする間抜け共?」
嘲りに満ちた声で、彼女は挑発する。
金髪の感情に動きはない。けれど、茶髪の男は見事なまでにそれに釣られてしまったようで、
「この餓鬼! 黙って聞いてりゃあ調子に――」
続く言葉を塞ぐように、彼女の靴底が茶髪の口につきだされていた。
跳躍からの後ろ回し蹴り。驚く暇すらなかった。
「調子乗ってんのはてめぇらだろうが。話聞いてなかったの? 他人の場所で勝手に商売するとか、舐めた真似してんじゃねぇよ。ぶち殺しちゃうぞ?」
前歯を三本失って失神した茶髪に、彼女は獰悪な笑みを浮かべてみせる。
「てめぇ!」
仲間をやられて黙っていられなかったようで、スキンヘッドが凄味をきかせた。
だけどそれを、金髪の男が遮る。
「止めとけ止めとけ」
「ですが――」
ぐしゃっ、と鈍い音が鳴り響いた。
金髪の裏拳が、スキンヘッドの鼻を潰したのだ。
口答えに対する容赦のない回答。金髪はさらに、鼻を両手で抑えながら膝をついたスキンヘッドの側頭部に回し蹴りを浴びせて、
「悪いねぇ。こいつら最近入ったばっかでさぁ、まだ躾がなってないんだよ。許してやってくれないかなぁ? ほら、こいつもこんなに必死に頭下げてるわけだしさ」
と、地面に平伏した頭を、ぐりぐりと踏みつけた。
粗い作りの石畳に、血だまりが広がっていく。
その海に溺れそうにながら「す、すみません、でしたぁ」と消え入りそうな声で、スキンヘッドが言葉を残した。
はっ、とリッセが不快そうに鼻を鳴らす。
「だったら、さっさと返すもん返して消えな」
「わかってるさ」
気怠そうな笑みを浮かべて、金髪の男はスリの手元にペンダントを戻して、
「命拾いしたなぁ、おじさん。残念ながら今は休戦中でさぁ、この御嬢ちゃんの悲鳴は聞けないんだよ。はは。……次はないぞ。仕事は場所選べよ?」
最後の言葉を吐いた時の真顔は、身震いするほどの冷たさを宿していた。
……完全にヤクザとかの世界だ。怖すぎる。
そんなヤバい連中が素直に引き下がっていくのを見送ってから、リッセは今まで見せていた好戦的な笑顔を仕舞って、スリの傍らにしゃがみ込んだ。
「片足一本。あいつら出し抜こうなんて舐めた真似したわりには、安い代償だったね」
「あ、あぁ。あんたのおかげで助かったよ」
「いえいえ、どういたしまして」
にこやかな、悪戯っぽくすらある微笑を浮かべながら、彼女はごくごく自然な動作でスリが弱々しく握りしめていたペンダントを奪い取る。
「じゃあ、こいつは貰っとくわね」
「――は?」
意表をつかれた行動だったのだろう。スリは唖然とした声を漏らしてから、
「ふ、ふざけ――」
「なに? わざわざ手順踏んでやったのに、まさか文句でもあんの? それとも、あんたの命ってこれより安いわけ?」
営業スマイルの奥にあったのは、金髪と同じくらいに殺伐としたものだった。
ただでさえボロ雑巾な状態のスリに、これ以上の反発があるはずもない。
まあ、それは別にどうでもいいが……なんだろう、こう、こちらとしては完全に出るタイミングを逸してしまったわけで、それがなんとも気まずいものだったりもしたんだけど、このまま話を終わらされるわけにもいかない。
気を取り直して、俺は物陰から顔を出すことにした。
「なんだ野次馬、見物料でも寄越す気になったか?」
足音を立てる以前から、こちらの存在に気付いていたのか、彼女はつまらなそうなトーンで言ってから振り返った。
そこで初めて、俺は彼女を真正面から捉える。
夜の猫のように金色に輝く双眸に、外に跳ねた腰まで届く朱色の髪と、太めの眉。
苛烈さを匂わせるそれらの特徴に反して、背丈は低い。たぶん百五十に届くかどうかといったところだろうか。線の細さも相まって、先程の暴力が白昼夢のようにすら感じられた。
野性味に溢れているが、どちらかといえば可憐な印象の方が強い、そんな少女。
……まあ、なんにしても、あの金髪よりはヤバそうじゃない、というのは交渉を仕掛ける側としては大きいだろう。
「文句なら寄越せる。もちろん、貴女にではないけど」
言って、俺はスリに視線を向ける。
彼は眼を逸らすが、そのあたりどうでもいい。
「それは彼のものじゃない。私の知り合いのものだ」
リッセに視線を戻して、俺は彼女の反応を窺う。
「へぇ、そうなんだ……」
興味なさそうな頷き。
そして、
「……だから、なに?」
眼が細められた瞬間、場の空気が変わった。
金髪が持っていたような狂気のようなものとも違う、冷たく刺すような重圧が伝わってくる。
これは、下手な駆け引きを行えばただでは済まないだろう。……でも、そういった事が容易に理解できるというのは、ある意味親切な話でもあった。
「だから、それを貴女から買い取りたい」真っ直ぐに、彼女から目を逸らさないように意識しながら、俺は言う。「いくらで譲ってくれる?」
「……ふん」
不快そうに、リッセは鼻を鳴らした。
それだけでこちらの胃はきりきりと痛んだものが、そういった弱気を見せるのはさすがに不味いので、表情だけでも平静を装っておく。
「……そうね。中身が失せてくすんでるけど、石自体の価値は残ってるみたいだし、五万リタってところかな」
投げやりな調子で、リッセは言った。
五万ということは、ざっと見積もって百五十万円程度。妥当かどうかはさておき、十分な大金だ。
これを、どうやって用意するか……
「貴族様なんだ、それくらい払えるでしょう?」
即答できなかったことを嘲るように、リッセが嗤う。
少し、気になる発言だった。
レニ・ソルクラウが貴族である事はおそらく正解だけど(生まれ持ってか、功績を立ててなったのかはまだ解らないが)彼女はどこでそれを見抜いたのか。
……そういえば、こちらを見た時、彼女の視線は下から上に流れていた。つまり、足元の方を優先していたということだ。
なら、判断材料になったのは、靴、だろうか。
靴だけはこの街で替えなかった代物だ。もしかすると、相当に高価なものなのかもしれない。その場合、理想的なのはこれを売るだけで足りるという線だけど……さすがに、中古品にそこまでの夢を見るのは馬鹿げているか。
「わかった。それでいい。ただ、今は持ち合わせがないから、少し猶予を貰いたい」
払う事自体は簡単なのだと思わせるように、出来るだけのんびりとした調子で俺は言った。
それを余裕として受け取ってくれる事を願いつつ、リッセの返答を待つ。
「……四日後の七時、この場所にもう一度来な。もちろん、一人でね」
最後の言葉に不穏さを覚えないでもなかったが、一応でも取引が成立したのなら上出来だ。
「ありがとう。じゃあ、そうさせてもらうよ」
内心でほっと胸をなでおろしつつそう言って、俺は急く足をなんとか抑えながら、この場を後にした。
§
そうしてレニ・ソルクラウが去り、間抜けなスリも片足を引き摺りながら空地から消えたところで、
「同業はわざわざ嵌めたくせに、貴族相手にはまともな交渉か。珍しい事態だな」
低く冷たい声が、リッセの左手から響いた。
いつの間にか、長身の青年が壁に背中を預けて佇んでいる。
もちろん、最初からそこに居た事を知っていたリッセに驚きはない。
「片腕だったからね。どうせ御家のお荷物なんだろうし、ちょっとした同情だよ」
「その同情のおかげで、よりいっそう居場所がなくなるわけか」
感情を込めない、いつもの喋り口調で青年は呟く。
「素敵な話でしょう?」
「本当に貴族かどうかも怪しいがな」
間髪入れずに返ってきた、棘のついた言葉。
リッセは短く息を吐いて、その鮮やかな赤毛以外、何一つ似ている部分のないラウ・ベルノーウに視線を向ける。
「あたしの見立てが間違ってるって? まあ、らしくない感じもしたけど、靴の側面に蒼い宝石が嵌まってた。蒼は貴族様の色。他のものには許されない色格だ。それで違うなら、罰金が大好きな大馬鹿か、そもそもこの国の人間じゃないって事だよ。そしてそれはあり得ない」
この国は孤立している。
所有している十四の都市以外で、人が営める世界は存在しない。
人域はあまりに狭く、魔の住まう世界はあまりに広く、両者が混在する中域もまた、人には過酷すぎるのだ。
「存外、魔域でも渡ってきた凄腕の冒険者なのかもしれない」
そういった常識に身を置く者としては、このラウの発言は些か荒唐無稽だった。もちろん、こいつが本気でそんな事を思っているわけじゃないのは、知っているつもりだが。
「或いは絶海を越えて来た化物かもって?」
「あぁ、そうだな」
「……真顔で頷くなよ。あんたの冗談って解りにくいんだから、頭でも腐ったのかって心配しそうになったでしょう? ……まあ、たしかに、異国の硬貨ってのは気になる話だけど、建てる場所を間違えて滅んだ国ならまだ足を運べる世界さ。中域にいくつかあるみたいだしな。父親がコレクターとかなら簡単に手にも入れられる」
「そうだといいがな」
「なんにしたって、この四日でわかるわよ」
珍しく冗談を引っ張るラウにちょっとした疑念を覚えながらも、リッセは素っ気なくそう言って、手にしていたペンダントに視線を落とし「下手な仕事。これだけで八百は価値が落ちるだろうに」とぼやきつつ、盗られた際に千切れたチェーン部分を器用に結んで、それを自身の首にかけた。