06
なだらかな坂を下りながら、宿に戻る。
行きと違って、帰りの雰囲気は暗い。それはやっぱり、俺の所為なんだろう。
変な希望なんか抱かずに、さっさと現状を受け入れていれば、こんな空気にはならなかったのだろうから。
でも、まあ、ある意味ではちょうどいいのかもしれない。
一つだけ、気まずくなるのが解っていても、訊いておきたいことがあったのだ。
今日、俺は色々な事を知ったし、いくつかの大きな疑問にも答えを得ることができた。けど、それは同時に、ひどく回りくどい方法でもあった。
何故なら、疑問の多くは、隣を歩く彼女に訊けば簡単に解消出来たはずだからだ。
にもかかわらず、どうして躊躇っていたのかといえば、それはもちろん自分がレニ・ソルクラウじゃないからである。その可能性を疑われるのは不味いという予感が、街に着くころには育っていた。
幸い、レニとルノーウェルさんは近しい関係ではなかったようで、今のところ不審は抱かれていないみたいだけど……逆に言えば、その関係性こそが大きな気がかりでもあった。
レニ・ソルクラウは国に裏切られ逆賊に仕立て上げられた人間だ。つまり彼女の味方をするという事は、自分の国を敵にするということでもある。今まで生きてきた世界を捨てるという選択だ。それを、さして親しくもない他人のために行えるものなのか。
俺にとっては、それは無視も楽観もできない不安の種だった。どうしても裏があるんじゃないかって疑ってしまう。まあ、別に裏がある事自体は構わないんだけど、それがどういう種類のものなのかは最低限把握しておきたかった。
「一つ、訊いてもいいかな?」
「なんでしょうか?」
足を止めた俺に合わせてルノーウェルさんも足を止め、こちらに向き直る。
「ルノーウェルさんはどうして、お――いや、私を助けてくれたんだ?」
ついつい俺と言いそうになった一人称を、なんとかレニが使いそうなものに修正しつつ、俺は彼女の反応をつぶさに窺う。
長い沈黙と、言葉を探すように泳ぐ視線。
ルノーウェルさんは、寂しそうな表情で目を伏せ、
「たしかに、私はリグドー派の神官です。ソルクラウ様にとっては敵なのかもしれません。……ですが、全てのものが王を正義に掲げているわけではありません。そして、無知でもいられない」
そこで顔をあげ、彼女は真っ直ぐにこちらを見て、微かに震える声で言った。
「ソルクラウ様は無実です。私にとっては、変わることなく我が国を救った英雄のままです。そんな方を、見殺しになんてしたくなかった」
……これは、どうなんだろう? 嘘をついているようには見えないし、出来れば信じたい。でも、やっぱり引っかかるものがあって――
「それに、私にはもう、誰もいませんから」
ぽつりとそう零して、ルノーウェルさんは微笑んだ。
その深い哀しみを無理矢理軽やかに装飾したような表情には、痛いくらいの説得力があった。
迷惑のかかる相手がいない。だからこそ、彼女はそれを選べたのだろうと、腑に落ちてしまったのだ。
「……ごめん、嫌な質問だった」
「いえ、疑うのは当然だと思いますし、私も色々と説明不足で……本当、ダメですよね。全然余裕がなくて」
「そんな風には――」
見えないけど、と言おうとしたところで、不意に視界の隅に影が過ぎった。
赤らんだ顔に千鳥足の中年男。酔っ払いだ。話に集中しすぎていて、接近にまったく気づかなかった。そしてそれはルノーウェルさんも同じだったようで、彼女は無防備に酔っ払いとぶつかって「きゃっ」と短い悲鳴をあげ尻餅をつく。
「道端でぼーっとしてんじゃねぇよ! あぶねぇだろうぉ!」
こちらを見もせずにやけに陽気な声で叫んでから、酔っぱらいはまた別の相手にぶつかって大きな声で喚き散らし、なんとも悪目立ちをしていた。
周りにいた人たちも迷惑そうに眉を顰めて、でも関わりたくはないんだろう。足早に過ぎ去っていく。
まあ、同感だ。
「……大丈夫?」
「は、はい、問題ありません。ちょっと驚きましたけど」
立ち上がり、ルノーウェルさんは両掌とズボンについた汚れを払う。
そこで、あれ? と違和感を覚えたけれど、すぐにその正体に気付く事は出来なかった。
先に気付いたのは彼女の方で、
「…………嘘」
呆然とした声と、胸元で微かに震える左手。
ペンダントだ。彼女の胸にかけられていたペンダントが無くなっている。
思い当る節は一つしかない。あの酔っ払いだ。
慌てて周囲に視線を向けるけれど、もうその姿は見あたらなかった。けど、向かった方向は覚えている、今から追いかければ十分に間に合うはず。
だけど、そちらに向かって踏みだした俺の足を、彼女の声が制止した。
「いいんです。長距離転移に使った時点でもう必要のないものでしたし、その価値も失われていますから。そんなものの為に、無駄な危険を冒す必要はありません」
実に淡々とした口調だった。
口を挟む余地がないくらいに、それは事務的で、
「それよりも、早く宿に戻りましょう。親切な方が言っていた通り、夜の治安は悪そうですから」
そう言って先を歩きだす彼女の意見を無視してまで、スリを追いかける動機が、この時の俺には存在していなかった。