05
自由。それはなんとも曖昧で、受け取りに困る言葉だった。
今ここにある現実をかみ砕くだけで精いっぱいの身なのだ。今後の方針とかを考えられるだけの材料なんてどこにもない。コンパスもなく、いかだ一つで大海原に投げ出されたような気分である。
本当に、自分は一体なにをすればいいのか、なにをするべきなのか、まったくもって判らないことだらけで……でもまあ、だからこそというべきか、まずは判ることから始めようと、俺は図書館に行く事をルノーウェルさんに提案してみた。
結果、
「……そうですね。もう安全だからといって、この国の事を知らないのはさすがに不味いですしね」
と、特に不評を買う事なくそれが採用されて。
俺たちは今、宿の女将さんから聞いた図書館に三十リラほど支払って入館しているわけだけど……どうやら、出費しただけの甲斐はあったようだ。
まず、大半の言葉が理解できる事が明確になった。まあ、専門的な分野になると少し怪しいけど、日常レベルで使われるものに関しては十二分といえるだろう。
次に、この世界の概要というか世界観というか、そういうのを、ある程度だけど掴む事が出来た。
それを一言で表すとするなら、人類肩身狭い、だろうか。
とにかく、人が住める土地が殆どないのだ。少なくともこのヴァナーシアという名の大陸において、人の領土は全体の五パーセント以下で、残りは全て危険地帯となっているらしい。
そしてその状況を打開する術も、まったく存在していない。……と、まあ、これだけ切り取れば絶望的な印象を抱きかねないけれど、魔物はその五パーセントに基本的には干渉してくることもないらしく、よく言えば棲み分けがしっかりされている世界だと捉える事も出来そうだった。
他にも、魔法というものの多様性なんかを知ることが出来たのも、大きな収穫と言えるだろうか。……いや、この場合は、知るというより思い出すという表現の正しいのかもしれない。
記憶力が悪いと自分を卑下するつもりはないが、さながら古文のように縁遠いと思える情報が、あまりにスムーズに頭の中にインプットされた感じがしたためだ。
おそらくだけど、触れてみるまではレニが知っている知識をド忘れしている、というのが今の俺の状態なんだろう。そういう意味では基本的な部分の情報収集は、はかどりそうではあったけど……
「……今日は、これくらいでいいか」
窓から差し込んできた夕日に気付き、俺は魔物図鑑第一巻を閉じた。
正直、この本は別にがっつり読まなくてもよかった気もするが、恐竜の図鑑を最初に見た子供の頃みたいに、ついつい最後まで目を通してしまったのだ。
それを少し反省しつつ本を元の場所に戻し、都市の法律や文化について調べると言ってくれたルノーウェルさんを探すことにする。
この図書館は全十階建てで、階ごとにジャンル分けされているので、いる場所はわかっていた。たしか街の歴史やら法律関係の本は最上階だったはずだ。
「それにしても、段差酷いな」
ちょっとした愚痴をこぼしつつ螺旋状の階段を上りきったところで、なんとなく、左手にあった窓から街並みを見渡してみる。
利用できる土地の狭さが起因しているんだろうけど、この街の建造物は基本的に狭い分、かなり高い。
特に下地区といわれている区域は、縦にした積み木を乱雑に重ねてつくった高層ビルの群れといっても差し支えないくらいで、この街のどこからでも窺えるほどだった。……まあ、それが微妙に傾いているあたり、恐ろしい光景でもあったけど。
『――間もなく閉館時間です。間もなく閉館時間です』
落ち着いた女性の声が、天井から響く。
いや、正しくは、天井に埋め込まれている手のひらサイズの菱形の石からのようだ。それがいわゆるスピーカーの役割をもっているんだろう。
その音に反応して、中央の席にいたルノーウェルさんが本を閉じ腰をあげて、そこで目が合った。
「あ、ソルクラウ様」
「……出ようか」
躊躇いがちに、俺はそう声をかける。
「はい、そうですね」
淡く微笑んで、ルノーウェルさんは本を片付け、とことこと小走りにこっちにやってきた。それをちょっと可愛いなと思いつつ、図書館をあとにする。
「あ、そうだ、出来ればこのあと病院に寄りたいんだけど」
「病院、ですか?」
ルノーウェルさんの表情に、戸惑いが過ぎる。
この時点で、望み薄なのかな、とも思ったけど、試さないで諦めるには片腕という現実は重かった。
「何か、問題が?」
「……いえ、そのあたりも調べてありますので。ご案内出来ると思います」
「そうなんだ……」
「はい」
なんとも、ぎこちないやり取りだ。
内心でため息をつきつつ、俺は彼女の案内に従って、ある診療所の前に辿りついた。
横開きの戸を開けて、中に入る。
受付に人の姿はなかった。
「すみません」
こっちが声をかけるより先に、ルノーウェルさんが口を開く。
数秒後「はいはい、少し待ってくれ!」という面倒そうな、しわがれた声が奥の部屋から聞こえてきた。
それから三十秒ほどして、ドアが開く。
出てきたのは、白衣を身に纏った初老の男性だった。
この世界でも医者は白衣なのかという感慨を抱きつつ、診察室に通され、丸椅子に腰かける。
「診て欲しいのは左腕でいいのかね?」
「はい」
「では、袖をめくってから、腕をこっちに伸ばして」
言われた通りにして、俺は医者の反応を待つ。
彼はこちらの二の腕を掴んで、欠損した箇所をじっと見つめて――瞬間、微弱な静電気のようなものが肌を走り、背筋を少しだけ冷たくした。
この奇妙な感覚は、本で読んだ限りだと、他者の魔力に干渉された時に起きる、一種の脊髄反射らしい。
「……」
ぴくり、と観察を続けていた医者の眉が動いた。
「一つ訪ねたいが、これは生まれつきではないんだな?」
「……ええ」
多少迷いながら、俺は頷く。
実際、この状態になったのがいつかは知らないわけだけど、少なくとも夢にいたレニ・ソルクラウには左腕があった。
「だとしたら設計図が壊されたということになるが……この歪み方は…………」
口元に手を当てて、医者は難しい表情で黙り込んでしまう。
患者を前に、そういう態度は如何なものかと思うけど、この様子だとやはり治る見込みはなさそうだ。
「……あぁ、いや、すまない。なかなか珍しいケースだったのでな」
こちらの反応に気付いてか、医者はややバツの悪そうな顔でいった。
「いえ……それで、どうなんでしょうか?」
「残念ながら、私の力ではどうしようもない。……いや、おそらく、人の力ではどうにもならないだろう。その腕は治らんよ」
ずいぶんとはっきりと言ってくれるものだけど、下手に濁されるよりはマシか。
「そうですか。ありがとうござました」
一礼をして、俺は椅子から立ち上がる。
「それで、おいくらでしょうか?」
と、冷たく感じる口調でルノーウェルさんが言った。
微かな怒り。
「診察代はいい。取れるほどの事もしていないしな」
自嘲気味に医者がそう返したところで、新しい患者がやってきた。
「マーカス先生! うちのガキがハシゴから落ちて! 顔の半分が潰れて、首も折れてて、それで、それで――」
「わかった! わかったからとりあえず落ち着け! すぐに行く!」
大声を返しながら、マーカスさんは足早に診察室を出ていく。
ここに残る理由もなし、俺たちも後に続くと、言葉通りの酷い状態の子供とそれを抱き抱える父親の姿が目に入った。
「……まだ息はあるな。なら問題ない」
言って、マーカスさんは両手を子供に向けた。
そして、ゆっくりと息を吐きながら、掌に魔力を込めていく。
柔らかく灯る金色の光。ルノーウェルさんのものよりも遙かに強い力。
それが理解できるという感覚に、少しずつ慣れはじめているのを感じながら、俺は十秒足らずで瀕死だった子供が完治する奇蹟を最後まで見届けた。
「……ソルクラウ様?」
「あ、あぁ、うん」
これ以上ここにいても、邪魔になるだけだ。
マーカスさんに感謝の言葉を述べる父親と子供を尻目に、俺たちは診療所を後にした。