第一章 01
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少女の記憶に強く刻まれている最初の光景は、父の涙だった。
天井のステンドグラスが綺麗な教会で、父は何度も神様に感謝の言葉を並べていた。
誰よりも尊い血。その魔力と二つの色格。
お前は選ばれたのだと、父は感極まった声で少女を抱きしめながら泣いていた。
§
「――様!」
ぼやけた意識を叩くように、切迫した声が響いた。
ピクリと脊髄反射した右指の感覚と共に、俺は眼を覚ます。
「ソルクラウ様!」
目前に、片膝をついてこちらを窺う一人の少女がいた。
腰まで届く柔らかな金色の髪に、アメジストみたいな深い紫色の瞳。肌は雪のように白く、人形めいた美貌も相まって、実に非現実的な存在だった。
けど、あの幻聴の主ではなさそうだ。
その声にはいい意味で濁りが、温度があった。
「――っ、ぅ」
倒れていた身体を起こそうとして、いたるところに痛みを覚える。
どうやら、夢ではないようだ。なら、これは現実? ……いや、現実なら良くて病院、悪くて霊安室だろう。状況がよく見えない。
その不安を晴らすべく、周囲に視線を巡らせてみる。
結果、現状がますます理解の遠いところにある事がわかった。
ここは、まるで爆心地だ。
半ば溶け崩壊した建物の群れに、巨大なクレーター。
空を赤く染める夥しい炎の熱に混じって、鉄臭い匂いも届いてくる。
建物の感じから見て、日本ですらなさそうだけど――
「探せ! この辺りに居る筈だ! 絶対に逃がすな!」
バチバチと炎が揺れる音に混じって、怒号がとどいた。
少女の表情に険しさが滲む。
「退路は用意できています。どうか、こちらに」
そう言って、少女は足早に歩き出した。
得体の知れない相手。はたして素直について行っていいものなのか……少し迷ったけど、怒声には怖さがあったし、彼女はこちらを心配しているように感じられた。その直感を信じる事にして、彼女の後を追いかける。
動く事に大きな支障はなさそうだが、左の太腿がズキズキと痛んだ。脇腹と右肩も同様だ。裂傷の類だろうか。他の部分は火傷のような気がする。
見渡す限りの惨状だ。さぞかしこの身も重傷なんだろう。が、幸か不幸か、自分で自分の状態を確認する事は出来なかった。
身体の全てを、真っ黒な鎧が包んでいたためだ。歩くたびに、かちゃ、かちゃ、と金属音がする。けれど、重さは不自然なほど感じられなかったし、視界も良好だった。というより、触れてみなければフルフェイスの兜を被っていると気付かないほどに、それは馴染んでいたのだ。
どういう原理かはわからないが、つくづくファンタジーが過ぎている。
この、把握が進むほどに増えていく疑問と混乱を、まずはどうにかしなければならない。
落ち着ける場所に辿りつけたら訊いてみよう。そう心に決めつつ、歯を食いしばって足早に前を行く彼女の歩調に合わせる。
三分ほど歩いただろうか、比較的に安全そうな、ひらけた大通りで彼女は足を止めた。
「……ここに門を開きます」
微かに、強張った声。
彼女は祈るように両手を組んで、小さな声でなにかを呟いて――ぞわり、と鳥肌が立つような冷たさが、波紋のように周囲に広がったのを感じた。
そして彼女の目の前の空間に小さな黒点が生まれ、それが一気に三メートルほどの大きさにまで広がる。と同時に、彼女の身体がぐらりと揺らいだ。
俺は咄嗟に左手を伸ばして支えようとしたが、それは叶わなかった。
彼女はすぐに体勢を立て直し、疲弊と焦燥に満ちた顔で言う。
「このような用意しか出来ず、申し訳ありません」
「……いや」
謝られても困るし、多分謝る必要もない。
だって、俺は――
「――レニ・ソルクラウ!」
血を吐くような呪詛の叫びが、背中に叩きつけられる。
弾かれるように振り返ると、そこには銀の鎧を身に纏った壮齢の男の姿があった。
右腕が根元からない。左の脇腹に短剣が刺さっている。右の足首から下も失われていて、動けるのが不思議なくらいの、凄まじい有様だった。
にも拘らず、その男は誰よりも強い声を放つ。
「貴様はここで、なんとしてでも討ち果たす!」
背筋が粟立ち、否応なく身体が強張った。
これは、おそらく人生で初めて向けられた明確な殺意というものの所為だ。
何の疑いもなく、この相手が自分を殺そうとしているのがわかった。刺し違える気なのだとまで理解できた。
「――っ、ソルクラウ様!」
焦ったような少女の叫び。
彼女は俺の前に滑り込むように踏み込んで、両手を男の方に向けてつき出した。
男もまた、血で真っ赤に染まった左手で脇腹の短剣を抜き、それをこちらに向ける。
直後、男の傍らに転がっていた瓦礫と、手放された短剣がまるで意志をもったかのように尖った部分をこちらに向けて浮遊し――それらは弾丸となって放たれた。
俺は、ただ見ている事しか出来なかった。
硝子が割れるような音と共に、彼女の右肩に短剣が根元まで刺さり、遅れて殺到した瓦礫の一部が彼女のこめかみを掠める。
噴きだした血が、息を呑むほどに鮮やかに映った。
悲鳴すらなく、彼女は左肩から地面に倒れる。
ただ、男の方も今ので限界だったのか、両膝をついて大量の血を吐いた。……その様子だと、追撃はなさそうだが、脅威が過ぎ去ったわけでもない。
複数の足音が近付いてきている。男が黙って奇襲をしかけずに最初に大声をあげたのは、それを狙っての事だったんだろうか。
なんにしても、ぐずぐずはしていられない。彼女は自分を庇って怪我をしたのだ。その行為を無為にするわけにはいかない。
動け。動け。動け。動かないと終わってしまう!
そう自分自身を叱咤して、俺は気絶している彼女を右腕の脇にかかえた。
両手で抱き上げるのが一番安定したんだろうけど、それをしなかったのは左腕の肘から下の感覚がまったくなかったためだ。だから正直、これで人を持ち上げる事が出来るのか怪しかったが、その心配は杞憂だった。
拍子抜けするほどの軽さ。通学時に自分が持っていた鞄の方がまだ重いと感じる。
まったくもって、なにもかもが常識から遠い話だけど、今は都合がいい。
俺は、彼女が構築したらしい逃げ道――真っ暗な、先の見えない孔に向かって、意を決して飛び込んだ。