プロローグ/終の幻聴
学校は嫌いじゃない。
もちろん好きでもなかったけど、別段トラブルを抱えていたわけでもないし孤立していたわけでもないから、月曜日だからといって足取りが重くなるほどの憂鬱に悩まされるような事もなかった。
むしろいつも通り、やっと週が明けた、と晴れやかな気持ちで登校していた筈だった。
『それにしても、たった一人を始末するのにここまで大事にするなんて、私も思わなかったな』
……先程から、幻聴が続いている。
不自然なほど玲瓏とした、異様に綺麗な少女の声。
一応、周囲には自分と同じように通学している生徒の姿がちらほらと見えるし、そこには女子の姿もあったが、彼女たちの声が原因である可能性はゼロだった。
間違えようがないほどに、音の質に違いがある。
こんな体験は初めてだ。だから、なにかしらのストレスが原因なんじゃないかって疑ってみたわけだけど……
『あなたは本当に優れた騎士ね。多くの民に希望を与え、穢れた神に引導を渡し、哀れな大国まで救ってみせて……あなた以上の功績をあげる事が出来たものなんて、あらゆる国の歴史を見ても、そうはいないでしょう。あなたは強く、気高く、勇敢で、なにより献身的だった』
少女の声は、ファンタジーを多分に含んだ言葉を労わるように続けている。
ただ、それは俺に向けられているものじゃない。そして独白の類でもなさそうだった。対話をしているような間がところどころにあったからだ。
まるでイヤホンの片方が壊れて、半分の情報だけが流れてきているような感じ。
『でも、仕える相手は間違えてしまった』
そこで、やや長い空白が訪れた。
横断歩道の前に差し掛かり、歩を進めていたこちらの足も止まる。
信号は、ちょうど赤になったばかりだった。
ほどなくして、携帯片手に誰かと話している男子の姿が視界の端に入ってくる。けど、その声はまったくといっていいほど俺の耳には届かなかった。
いつのまにか、他の雑音が失われていたのだ。
『あなたは、その間違えと濡れ衣を抱えたまま朽ちるのかしら? ただ自分が愚かだったと、全てを受け入れるのかしら?』
少女の声だけが、この鼓膜を使っている。
その事実に気付いた瞬間、ようやくというべきか、明白な恐怖を覚えた。
これは、もしかすると想像しているよりずっと不味い、なにか決定的な破綻が自分の中で起きているんじゃないか、と認識してしまったからだ。
『レニ、私はあなたを畏れない。あなたが、私を畏れるのよ』
ぞくりとするほどに、それは優しい声だった。
吐き気がするほどに、それは胸に染み入るものだった。
『大丈夫。あなたが望む機会は、私が用意するもの。……ふふ、素敵な器でしょう? あなたと何一つ変わらないお人形。この子が、あなたの代わりを務めてくれる。……あぁ、でも、存在価値がそれだけというのも寂しいわ。よく出来た子ですもの。ちゃんと中身を与えてあげないと、可哀想』
いつのまにか、身体が震えていた。
このまま学校に行くより、やっぱり病院に向かったほうがいいのかもしれない。だけど、もう少し我慢すればこの異常も過ぎ去ってくれるかもしれないし、という希望的観測もまだ生きていた。
なんにしても、大事になるのは避けたいから今日一日は様子見だ。
……大丈夫、最初は驚いたけど、こうして自分はすぐに平静を装えている。だから、きっと大丈夫。
そう自分に言い聞かせて、青になった横断歩道を渡ることにする。
『――ねぇ、あなたもそう思うでしょう?』
半ばまで差し掛かったところで、聲が刺さった。
知らない誰かにではなく、はっきりとこちらに向けられた言葉。
それを理解した瞬間、まるで金縛りにあったみたいに全身が硬直した。驚きから、かろうじて瞬きだけは出来たけど、その一瞬の暗闇の中で何が起きたのか。
目の前に、人の輪郭をもった紫色の靄のようなものが現れていた。
携帯をもった男子は、その不気味な靄を意にも介さず、横断歩道を渡りきる。
信号が点滅をはじめる。
身体は一向に動かない。
そして、凄まじい衝撃が左側面からやってきた。
鮮明に伝わる衝突音。ぎょっとした顔で振り返る携帯をもった男子。
冗談みたいな勢いで吹き飛ばされた身体は、哀しいほど短い自由を取り戻して――ブレーキすらなく自分を撥ねた、自動車の運転手を視界におさめた。
顔面蒼白で、今にも泣きだしそうな表情で、どうしようもない圧力を前に為す術がなかった様子の男。
きっと、自分と同じような状態になっていた誰か。
……あぁ、二人死んだのか。
意識が潰える寸前に抱いたのは、他人事のような感想と、そんな自身に対する一抹の寂しさだけだった。