後編
「ジンジャーハイボール美味しい♪何杯でも飲めちゃうよ」
小柄な体に似合わず一番酒量を消費しているのは茉莉だ。
「茉莉先輩、お酒強いんですね。あれ?でも先輩、確か10月生まれじゃ……!?」
亜里沙は気付いてはいけない事に気付いてしまったのではと不安にかられる。
「大丈夫♪わたし1浪してるからもう二十歳なんだよー」
「あ、そうなんですね……」
「よーし、そろそろ茉莉ちゃんの秘蔵ビデオ鑑賞会はっじめっるよー!」
「お!今日はどんなの持って来たんだ!?」
茉莉の号令に呼応してひとみが近寄ってくる。
「じゃーん!これでーす!」
―『時代に咲いた徒花 グループBの迷車達』―
ワールドラリーチャンピオンシップが最も過激だった1980年代中盤、数々のモンスターマシンの陰に隠れさっぱり活躍できない車達が有った。これは普段スポットライトが当たらないそんな車たちの貴重な映像を集めた作品である。
「え…と、それ、DVDじゃないですよね……?」
「亜里沙ちゃん見たことない?これがVHSだよ~。ちゃんとビデオデッキも持ってきてるから大丈夫」
そう言うと茉莉はスーツケースからビデオデッキと思しき物体を取り出した。
「お前…何でそんなに荷物がデカいのかと思ったらそんなもん入れてたのかよ……」
朝、同じトラックで移動してきた睦美は呆れた表情だ。
「ぎゃははは!何この車、超だせぇ!なんか左リアタイヤもげそうになってるし!」
「これはシトロエンBX 4TCだねぇ。よくランエボがガンダムっぽいって言うけどガンダム・オブ・カーズは絶対この車だよね~」
流し出されているのは1986年のアクロポリスラリーだ。このラリーで3台のシトロエンは早々にリタイアしている。
「私はさっきのメトロって言うのが可愛くってちょっと好きかも……」
ひとみと茉莉に加え美優も興味が有るのか2人に密着してテレビの前に張り付いている。
「ちょ、シトロエン面白過ぎる……そうだ、ストップウォッチ持ってきて!プジョーと比べてどんだけ遅いか区間タイム取ろうぜ!」
「あれ?そう言えばさっきからまどか先輩居ないですね?」
ビデオを見てはしゃいでいる3人を眺めていた亜里沙だが、ふと気付いて睦美と響子に問いかける。
「あぁ、あいつならちょっと前に外へ行ったな。多分あれだわ」
「本当に毎日続けてるのよね。あの努力は素直に見習わないと」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
亜里沙は旅館の外に出て駐車場にやって来た。5月の終わりとは言え、夜の山はまだまだ冷え込む。月明かりと僅かな旅館の光の先にまどかのスイフトが映し出される。
「カツッ……カツッ……カツッ……」
スイフトはフロントをジャッキアップされ、ステアリングがロックした時の打音が暗闇に響く。亜里沙は邪魔をするつもりも無くただ遠巻きに眺めていたが、まどかが亜里沙に気付いた。
「あら、亜里沙ちゃん。何か変なトコロ見られちゃったかな……?」
「す、すみません。邪魔するつもりは無かったんですが……どうか気にせず続けて下さい」
「いいのよ、そろそろ終わるつもりだったから。そうだ、亜里沙ちゃんもこれで練習する?」
「え、いや……まどか先輩の車ですし、それは申し訳ないです」
亜里沙はまどかの提案に少し虚を突かれた。
「いいのよ、気にしないで。亜里沙ちゃんも本当は練習したかったんじゃない?ミラージュは積車に載ったままだし、遠慮なく使って」
まどかの言う通り、亜里沙も練習をしたい気持ちはあった。いや、正確にはまどかの練習を見て、自身も居ても立ってもいられなくなったと言った方が正しいだろう。
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」
亜里沙はスイフトに乗り込むとステアリングを回し始めた。
「やっぱり上手いものね、たった1日でこんなに回せるようになるなんて」
「ありがとうございます」
亜里沙は口ではそう言ったものの、内心まどかの神経が理解できなかった。先輩後輩である以上、面倒を見てくれるのは分かる。しかしそれ以前に2人はドライバーの枠を争うライバルである。
自分が逆の立場なら、こんな手助けをするような事は絶対にしない。この人は私を敵として見ていないのか?それともドライバーになることにさほど執着心が無いのか?そんな事をステアリングを回しながら考えていた。
「あっ……!」
それまで順調にステアリングを回していたが、集中が一瞬途切れ12時の位置で右手と左手がぶつかりステアリングを掴み損なう。
「はい、失敗~!駄目よ、よそ事考えながら練習しちゃ」
「す、すみません……」
亜里沙はまるで、まどかに考えていた事が見透かされたような気分になった。
「もう一回、今度は集中してやります」
「うふふ、どうぞどうぞ!」
他の部員たちは眠りについたのだろうか。
気付いた頃には部屋の灯りが消えるまで2人だけの練習は続いていた。
登場車両紹介
シトロエン BX 4TC
ベストセラーハッチバック、BXをベースに世界ラリー選手権・グループBの参戦資格を得るために200台が製造されたホモロゲーションモデル。当時グループB車両はミドシップエンジン+ターボ+4輪駆動がトレンドであったが、フロントエンジンに加え、サスペンションにはシトロエンの象徴であるハイドロニューマティックを採用していた。しかし戦闘力に加え耐久性も低く、めぼしい戦績を残すこと無くグループBの消滅と共に表舞台から消える。
シトロエンの名誉のために付け加えると、2001年に本格的にWRCへ復帰以降、この時の無念が功を奏したかは不明だが、セバスチャン・ローブによるドライバーズタイトル9連覇など数々の偉業を成し遂げている。