泣かせたくない
大好きな人は、きっと一生大好きのままだから。
恋なんて言葉を知らない子供の頃からずっと、あいつが好きだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
俺はバスに揺られながら、窓の外を眺めていた。
あ、雨降ってきた。天気予報的中。傘持ってきてよかった。
バスのアナウンスが流れる。
マジもう着いたの?心臓がちょっとドキドキいってる。落ち着け、静まれっ!
必死に呼吸を整えながら、側にあった停車ボタンを押す。
しばらくするとバスが停車し、プシューッと音を立ててドアが開いた。お金を払ってバスを降りる。
傘を開いた。そして溜息。
「なんでこんなとこまで来てんの、俺……」
目の前には大きな道路が横たわっていて、その向こうに沢城高校の校舎が見える。
再び溜息。あいつ、ここに受かっちゃったんだよな……。
この辺じゃ真っ先に名前が挙がる随一の難関校。見せつけられているようで、悔しいといえば悔しい。
反対車線のバス停に、沢城高校の制服がちらほら見える。ちょうど下校する時間帯なんだろう。
あいつもあの中にいるのだろうか。
俺は道路をまたぐ歩道橋を渡った。
「雨、強くなってきたね」
「そうだな」
「山崎くんぬれちゃうよ」
バス停の方から、カップルらしき話し声が聞こえてきた。
「これくらいなら大丈夫だから」
「風邪引いたら大変だよ。私の傘使って?私はバスだから平気」
バス停に近づいていくと、それは最後尾に並ぶ沢城の二人の会話だった。
「もうすぐテストだし、体調管理は気をつけなきゃ。ほら、これ使って」
女の子の方が傘を差し出している。バス停の屋根の下。
「ごめん。じゃあ使わせてもらうよ、日南ちゃん。心配してくれてありがとな」
「うん。あ、もうすぐバス来るみたい……バイバイ」
「ん、傘ありがと」
薄い紫色の無地の傘を差した男が、バス停を抜けて歩いていく。
ひ……な?
俺はバス停にたどり着く前に立ち止まった。
バス停で列のいちばん後ろに並んでいたその子は、ふとこっちを振り返った。まるで俺の心の中のつぶやきが聞こえたように。
「……うそ」
彼女は目を大きく見開いた。
「授っ!?」
叫ぶように俺の名を呼び、バス停を抜け出した。ぬれるのもかまわず駆け寄ってくる。
「どうして授がいるの?……ねえ」
雨にぬれた顔が赤い。髪から滴が滴り落ちて、弾けている。
長いまつ毛の奥の目が、睨むように俺を見ている。
「授っ!」
彼女の肩が震えた。雨のせいでわからないけど、泣いているのかもしれなかった。
「ぬれてるよ、お前。テストあるから、風邪引いちゃいけないんじゃなかったの」
俺は小さく笑って、
「入る?」
と自分の傘をわざとらしく傾けた。
それであいつの目は苛立たしげに光った。そのまま怒ってバス停の方へ戻るかと思ったら、
「入る」
あいつはうつむいて言った。
「入れて」
俺は戸惑いながらも彼女を自分の傘の中に入れた。
そして気づく。今、俺の側にあいつがいる。すぐ近くに……。
「……何しに来たの、授」
「えっと、この近くの洋書売ってる店、探してて」
「え、洋書?」
拍子抜けしたようにあいつは俺の顔を見た。パチパチとまばたきしながらじっと見つめてくる。
俺は心臓がバクバクいうのを感じた。
「それって流れ星堂のこと?私も何度か行ったことある」
「そう、そこ」
「授、洋書なんて読むの?意外……」
言い訳に決まってるじゃん。この辺の地図とにらめっこしながら懸命に考えた口実。
あいつは可愛らしく微笑んで、
「案内してあげる」
と言った。
驚いた。一瞬頭の中が真っ白になった。
「案内って……俺、スマホ持ってるから地図検索できるし」
考えもなしにそう言ってしまった。
「……久しぶりに会ったのに、またそういう意地悪言うんだ」
あいつは低い声で言い、ポケットからハンカチを出してぬれた髪を拭いた。
俺は溜息をつく。
「さっきの人、彼氏じゃないの?俺と一緒にいたら、勘違いされると思うけど」
あいつは目を大きく開けて、それからゆっくりと唇を動かした。
「授なんて嫌い」
いきなりあいつが俺の傘を抜け出して、雨の中をバス停まで戻った。呆然とする俺に向かって、彼女は叫ぶ。
「洋書でもなんでも買ってきたら!?」
そしてそのあとは俺を拒絶するように反対を向いてしまった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
佐々木日南。幼馴染みの女の子だ。小さい頃から泣き虫だった。悲しくても、怒っていても、そして嬉しくても泣く。
そんな彼女を、不器用な俺は泣かせてばかりだった。俺と話すと、大抵あいつは瞳を潤ませた。本当は泣かせたくない。大好きな日南。
それで俺は、あまりあいつと話さないようにした。見てるだけで幸せって思うことにして。今思うと俺はなかなかいいこだった。
でもそんなの、そう長くは続かない。何度も気持ちが爆発しそうになった。やばいぐらい、好き。駄目だ、もう何も考えるな。無心になれ。無心、無心……。
中学二年のとき、くじ引きでたまたま隣の席になった。あいつは自分から話しかけてきた。どうして俺の努力を踏みにじるようなことするんだろう。
俺はなんとかごまかそうと思って、変な冗談を言った。言ってからしまったと思った。
あいつは必死で涙をこらえていた。もう中学生だから、学校で泣くのは嫌だったのだろう。
俺はあいつを傷つける。それをわかっていても、つい話しかけてしまう。
怒って赤くなった顔が可愛い。尖らせた小さな唇。黒目がちのぬれた瞳。
中学三年になってしばらく、高校に願書を出すときだった。あいつはなぜか急にそれまでの志望校を変えて、沢城を受験した。変える前の志望校は、俺の通う佐鳴南工業のすぐ近くだったはずだ。沢城はちょうどその反対方向にある。
ちなみに工業系だけあって、うちの学年に女子はひとりもいない。ひとつ上の学年には数人いるようだが、出会いが少ないと皆嘆いている。
沢城は共学だ。あいつに彼氏ができたっておかしくなかった。でも俺は、そんなこと考えもしなかった。
あいつはあいつのままだと、心の中で勝手に思い込んでいた。
急に会いたくなった、と言えば嘘になる。ずっとずっと会いたかった。
中学を卒業してから半年以上も経って何を今さら、と言われるかもしれない。
沢城高校の近くまで行く言い訳を考えて、職員会議の関係で授業が早く終わる今日、ほとんど捨て身の覚悟で来た。来ても会える保証なんてなかった。駄目元だった。
あいつには会えた。会えた、けど……。
タイミング的にはいちばん最悪だったんじゃないかと思う。
◇◆◇◆◇◆◇◆
昔から俺は間の悪い奴だった。
「ひ……」
ひな、と言い終わる前にバスが俺の横を通りすぎた。声はエンジン音にかき消された。
あいつは振り返りもせずにバスに乗り込んだ。少しして、バスは無情にも俺を残して走り去った。
ごめん、日南。またお前を傷つけた……?
俺は無気力に傘を揺らした。どうしようもないな。俺はいったい何をしようとしていたのだろう。
そうだ、流れ星堂。俺はスマホを取り出して、地図を引っ張った。ここから歩いて数分。投げやりな気持ちでその本屋に向かう。
ただの言い訳にしたくなかった。こうなったら、意地でも一冊読みきってやる。
雨はそんな俺の決意を嘲笑うように降り続ける。
読んでいただいて、ありがとうございました。
感想・アドバイスなどがありましたら、よろしくお願いします。