38.いらっしゃいませ その2
「活気があって、それでいて上品で。いいお店になりましたね」
ティーカップをテーブルに並べる美桃に向かって、井ノ瀬さんが目を細めて言った。
「ありがとうございます。今日でオープンして三日目になりますが、まだまだ未熟で至らない点も多くて……。お客様に満足いただけるサービスが出来るようになるまで、もうしばらく時間がかかりそうです」
美桃は店内にいる七人にすべて紅茶を出し終え、井ノ瀬さんに正直な心境を語った。
「いやいや、そんなことはない。素晴らしい働きっぷりですよ。この村にはこういった店はなかったから、新鮮でいいですよ」
「ありがとうございます」
井ノ瀬さんの優しい言葉に、身体から次第に余分な力が抜けて行く。
「それはそうと桜野さん。今朝、それもついさっきなんですが、珍しい来客がありましてね」
ポットの紅茶をカップに注ぎながら井ノ瀬さんが言った。
「誰だと思います?」
「さあ……」
これはかなり難問である。第六感を駆使しても誰も思い当たらない、というか、まだこの地に住み始めて日が浅い美桃にとって、井ノ瀬さんのプライベートまで知るはずもなく。
ここは誰でもいいから名前を挙げて、話のオチをつけるべきなのか、などと迷っていると。
「梶谷君ですよ」
「あ……」
美桃は思いがけない名前の登場に、またもや身体を堅くしてしまった。せっかくリラックスしかけていたのに、元通りだ。
「彼は昨日からこちらに帰ってきていたようですね」
「あ、はい……」
「そうですか。やっぱりご存じでしたね。いやね、梶谷君がそれはそれは真剣な目をして私に言うんですよ。桜野さんのことをよろしくお願いしますと」
もうどんな顔をして返事をすればいいのかわからない。美桃はできるだけ冷静になってこの場を乗り切ろうと思ってはみるものの、怪しげにコクコクと頷くのが精いっぱいだった。
「今日には赴任先に戻られるそうですね。飛行機で長い旅になると言っていました」
「はい……」
「彼はあなたのことになると、一生懸命ですからね。ここを借りたいという話を持ちかけてきた時も、それはそれは必死になって私をくどきましたからね。桜野さんもご存じだとは思いますが、最初は大反対でした。そんなわけのわからない店を出しても、悪い人間のたまり場になるだけだと。何を隠そう、私は昔気質の堅物人間ですからね」
「そんなこと……」
美桃は首を横に振る。どうしたのだろう。話が変な方向に向いているような気がするのだが。井ノ瀬さんが大反対だったなんて話は、今はじめて聞く。
「けどね、彼はあきらめなかった。この年寄りに、店の概要をそれはそれはていねいに説明してくれました。何かあったら全部自分が責任を取るからと言って、決して引き下がらない。とうとう彼の熱意に負けましたね。彼とは青年団で頑張っているころからの付き合いです。誠実で優しい人柄は、その頃からすでに承知していました。では梶谷君、きみを信じましょう、了解しましたと出店の許可を出し、そして今ここで紅茶をいただいている。想像以上です。いい店です。梶谷君のあなたへの想いは十分に伝わりました。私の目が黒いうちは、桜野さんの店をしっかりと支えて行こうと、ここに来て改めて思いを新たにしましたよ」
美桃は泣くまいと唇をかみしめていた。梶谷さんは言っていたのだ。井ノ瀬さんが二つ返事で賛成してくれて、簡単に土地を貸してもらえたと。何も心配いらないから、自由に店を計画したらいいと。
何も苦労がなかったかのように平然とした声で電話のやり取りをしていたあの頃を思い出す。あなたの思うような店にして、村人を驚かせてくださいと言っていたあの頃を。
せっかく止まっていた涙がまたもや溢れ出す。仕事中なのに。今は泣いてはいけないのに。
梶谷さんは嘘つきだ。とびっきりの嘘つきだと思った。
美桃は井ノ瀬さんに泣き顔を見られないように、急いでカウンター内に戻った。常備している真っ白なタオルを棚から取り出し、そっと目頭を押さえる。
壁にかけている時計を見た。まだ十一時前だ。梶谷さんは確か、夕方に空港に向かうと言っていたはずだから、今頃実家で久しぶりの故郷生活を満喫しているのかもしれない。
何時の電車で空港に向かうのだろうか。詳しいスケジュールを聞きそびれてしまったことが悔やまれる。出来ることなら昼食後に連絡を取って、せめてもう一度、感謝の気持ちを伝えたいと思った。
けれど次の瞬間には、それは絶対にダメだと首を大きく横に振ってしまうのだ。梶谷さんに対する気持ちが定まらない以上、会う理由がないからだ。
梶谷さんが井ノ瀬さんに頼み込んだ事実も、美桃には知られたくないかもしれない。男性のプライドは、美桃が想像する以上に高いに違いない。
梶谷さんのことをこれ以上考えないようにするため、無心になってガスコンロの周りを拭き、グラスを磨く。それでも時計が気になり、あるいは窓の外に視線がゆき、何度も何度も手が止まってしまう。
最初にやって来た二人組の女性が立ち上がり、続いて幼稚園ママの三人も今日はお弁当がない日だからそろそろ迎えに行かなくちゃと慌ただしく会計を済ませ、両グループとも店を後にした。
井ノ瀬さんと松本さんは過去に大雪が降った時の話や、村の東を流れる川で今年の夏はどんな魚を釣ろうかという話題で盛り上がっていた。
美桃は新たにいれ直した紅茶を二人のテーブルに持って行った。
「温かい紅茶をお持ちしました」
そう言って、それぞれのカップに紅茶を注ぎ入れようとした時だった。
ガチャッとドアを開ける音がしたかと思うと、誰かが体半分をドアの向こうに残したまま早口で叫ぶのだ。
「美桃さん。早く、早く!」と。




