I am shadow. 2
もしかしたら、を期待するなど、無意味な事だとマゼルは知っていた。
それでも目覚めた先の景色に、落胆を覚えた。
分厚いカーテンで遮断された室内は仄暗く、忍び込む冷気にまだ夜が空け切らない事を知る。
広い寝台の上、隣に寝ている筈のディーダの姿は無かった。
けれどマゼルは、視線を巡らせてその姿を探す事をしない。
ディーダの気配が室内の何処にも感じられない事に気づくよりも先に、当然のように知っているのだ。
マゼルがグランディア王国に召喚されてから、幾度もの夜を共に過ごそうと、ディーダの姿は朝には既に失せている。
最初の頃は、政務に忙しいのだと信じていた――事実、ディーダは日々仕事に忙殺されていたし、出来る限りの時間、マゼルの傍らにあろうとしてくれた。
異世界での生活が十年を経とうとする今でも、ディーダと過ごす時間はマゼルには穏やかで優しかった。
けれどそれで、マゼルの憂鬱が晴れる事は無い。
身体の奥に夫の気配を感じながら、寝台の上に滑らせた指先には、何の温もりも触れ得ない。ぽかりと空いた空間には、ディーダの温もりも既に消え失せて冷え切っている。
分かっていた筈なのに、その事にマゼルの胸は僅かに痛んだ。
マゼルを慕っていた侍女、メイナが、泣きながら真実をマゼルに語った夜。
誰かが聞きとがめたのだろう、話の最中に現れた兵士と宰相の手によって、哀れなメイナは部屋から連れ出された。
泣き咽ぶメイナの声が遠く去っていくのを、マゼルは茫然自失に見送った。
メイナの身を案じる気持ちが片隅に浮かんでも、微かに聞こえる宰相の言葉から、非道が行われる様子は無かったし、その事においてマゼルは宰相を信用してもいた。
件の報告をしたのだろう侍女の一人が戸惑い気味に部屋に残っていたが、彼女も宰相に呼ばわれて退出し、部屋に残るのはマゼルだけだった。
唐突に知らされた『真実』に打ちのめされて、マゼルは小さくよろめいた。
背後にあった寝台に落ち着き、震える唇と喉を押さえた。そうしなければ、せり上がってきた胃の中の物が吐き出されてしまうような気がしたのだ。
どうしてそこまで衝撃を受けたのか、マゼル自身にも分からない。
ただそう――マゼルが胸の内においやった、微かな不安に、答えが出たのは確かだった。
度重なる戦や、災害で疲弊した王国を救う為にマゼルを召喚したとはいえ、グランディア王国は歴史上最も長く続く国であり、大陸に存在する多くの国の、頂点にも君臨する国である。尊きエスカーニャ神の恩寵深く、栄え潤い今日に至る。
例え王国がどんなに困窮しようと、手を差し伸べる存在も数多。
事実、マゼルが召喚されずとも、王国の滅びは遠く彼方の事だった。
それでも『異世界人』を必要としたのは、その『事実』を確固たるものだと、エスカーニャ神の寵愛が今も王国を満たしているのだと、知らしめ安心をもたらす為だ。
姿を見る事も感じる事も出来ない『神』は、『異世界人』の存在を通して伴う。だからこその信仰は、安定して歪み無い。
その象徴として存在する『王妃』を務めるからといって、それが国王の"最愛”である必要は無かった。
マゼルはそれを、確かに疑問に思った事があった。
ディーダは、魅力的な男性である。グランディア王国の国王という事だけでなく、真面目で優しく思慮深い。病魔におかされた身で召喚されたマゼルの傍らで、献身的に世話をしてくれたのもディーダだった。それに何より、神々しく美しい。
背景を抜きにしても、ディーダは女性に好まれる要素を多く持っていた。
その彼が、マゼルを召喚するまで『王妃』を娶らなかった理由が無い。
けれど、マゼルはディーダの唯一の妃だった。
マゼルの敬愛した父親ですら外に囲った女性が居たがディーダにはその気配すら無く、その事がさらに、ディーダへの気持ちを傾けた一因だったが――マゼルにとってディーダは『運命』を信じるに足る相手だった。
――だが、例えそうでなかったとして。
”真実”を知らなかっただけで、もう戻れない程の愛情を抱いてしまっただけで。
マゼルとディーダの間に結ばれたのは、結婚と言う名の契約でしか無かったのだ。
その事をただ、マゼルが忘れていた。
それだけの事だと思い至り、マゼルは慄いた。
マゼルの視線が、忙しなく室内を滑る。部屋を灯す蝋燭の炎も、優しく眠りを守る寝台も、美しい庭園を臨む窓辺も、全てを飲み込んで、何時かマゼルを苛んだ暗闇が迫ってくるような錯覚に陥る。
「……ァアッ」
呻き声を上げながら、マゼルは手を伸ばした。
何時か自分を掬い上げた、光。
優しい温もりを求めても、縋りつくものの無いまま、マゼルの手は宙を掻いて力無く落ちた。
膝からへたり込んだ身体が、震える。
「ア、ル……」
呼ばわる事を許された、愛しい人の名前が唇から零れる。
脳裏に浮かんだのは、その人の優しい微笑み。
何時も安心と幸福をくれた人。
それなのにどうして、心は絶望へと落ちていくのだろう。
数時間の後、マゼルの部屋を訪れたのはディーダだった。
ディーダはマゼルの泣き濡れて腫れた顔を見て、痛ましげに顔を歪めた。
傍らに膝をつき、そっとマゼルの顔を覗き込むと、ただ一言、ぽつりと言った。
「……済まない」
「……何を、謝る、のです?」
掠れた声が力なく答える。
声が枯れる程に泣いて、泣き疲れて、眠りにつければ良かった。
けれどマゼルは涙が引っ込んだ後も、ただその場に蹲り、放心していた。
時計の針が回転を繰り返し、二時間が経ち三時間が経ち――それでも、マゼルは独りだった。
その時間がマゼルの優先順位を物語っているようで、笑えたのを思い出す。
微かに響いたマゼルの笑い声に、ディーダが訝しげに小首を傾げた。
「……マゼル?」
「私は、王妃になれなかった誰かの代わり?」
「っ」
「正妃になる筈だった人は、どうしたのです?」
「……それ、は」
ひゅ、と息を吸い込んで、ディーダは視線を俯ける。
嗚咽が喉を過ぎって、口内で噛み殺せずに響く。
盛り上がった涙に、潤んだ視界でディーダが霞む。
それでもひたと視線を向けて、マゼルは言葉を搾り出す。
「約束した通り、貴方は私が失った全てを与えてくれた。だから私は、貴方の望む王妃になった」
いつの間にか蝋燭の火は消え、代わりに窓辺から月光が辺りを照らしていた。ひどく物悲しい、寒々とした光だった。
ディーダの白い肌を撫でるように、雲の陰が流れていく。
「ただ、聞かせて欲しいのです」
一呼吸置いて、マゼルはディーダの胸に手を這わせた。
「私が貴方を愛するように、貴方のここにも、私への愛はあるのでしょうか?」
掌越しに感じる鼓動が、重苦しい沈黙に重なる。
「……王妃として慈しむ他に、マゼルとしての私を愛する気持ちはあるのでしょうか……?」
逸らされた視線に、ついにマゼルの瞳から雫が落ちた。
「――貴女をとても、大切に思う」
何時も真っ直ぐに届くディーダの声が、くぐもって吐き出される。
「彼女の代わりに思った事も、無い」
『彼女』と、誰かを示唆する言葉を聞いて、マゼルの唇から「ああ」と嘆きに沈んだ悲鳴が漏れた。
「誰も、誰かの代わりになどなれない」
――そうだ。そうなのだ。
だからマゼルは、『レスティ』なのだ。
「他のものなら、何だって差し出そう。けれど、」
けれど、と二度呟いて、ディーダの手がマゼルの手を胸から引き剥がす。
そうしてその手を包むように握り締め、断固とした意思を込めて、マゼルを見た。
「……許して欲しい」
それは何の謝罪だったのか。
マゼルを愛せない事だろうか。『誰か』の代わりにもならない事だろうか。
「……貴方の望むまま、私は王妃でありましょう――陛下」
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私は、影。
マゼルという名の、王妃の影。
『誰か』の代わりでは無い。
私は、影。
王妃の背に隠れた、哀れな影。