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Phantom Amethyst  作者: なち
6/10

Happy days 2



 帰宅の準備の為に、温室を出ようと思った頃だった。

 騒がしい足音に出入口の方向に視線をやれば、調度叔父が顔を出す所だった。

 叔父が取り乱す姿を見た事は無い。息を整える間も無く私の名を呼ばわった叔父に小首を傾げながらも、私は膝の土を払ってから答えた。

「ここに居ますわ、叔父様」

 温室を彷徨っていた叔父の視線が、私に止まる。

「マゼル……っ」

 瞬間くしゃりと歪んだ叔父の顔に、勿論、いい予感はしなかった。




 それからの事は、あまり覚えて居ない。

 叔父と共に馬車に押し込まれ、向かった先は自宅だった。汚れたドレスを着替える暇も与えられず、また、私もそんな事に構っていられる余裕は無かった。

 辿りついた先でも、まるで夢の中の事のように、私はその事実を中々受け入れられなかった。

 寝室に横たわる父の、紙のように白い顔を見ても、叔父が寝台に縋りついた後も――ただ呆然と立ち竦む私は肩を長兄に抱かれながら、小さく響く嗚咽を、聞いていた。

 朝、家を出る時に見た父の顔が思い出された。何時ものように穏やかな微笑みを湛えて、私を見送ってくれた。今日は大叔母が来るから、と念を押され、けして晩餐に遅れるんじゃないよ、と釘を刺された。

「リンデンと、大叔母様は……」

 頭上から落ちた長兄の言葉は続かなかった。言葉尻は弱々しく震え、消えてしまう。

 寝台の横に所在なげに立っていた医師が、「お悔やみ申し上げます」と小さく呟いた。

 答える者も無いままに、医師が頭を下げて部屋を出て行く。その背を追ったのは、唯一気丈を保ったままの義姉だった。役に立たない新しい家主の代わりを、その妻が務めるのは当然だろう。けれど、診察費を値切る言葉が聞こえて来たのには驚いてしまった。

 けして裕福な家庭では無かったけれど、診察費用を惜しむ程に落ちぶれて居ないつもりだ。

 それなのに、咎める言葉は一つとして出てこない。口を開くのさえ億劫で、私は寝台に張り付いた叔父と、動かない父とを、ただ見つめる事しか出来なかった。


 その日、駅に繊維工場の労働員が詰め掛けていたのだ、と後で知った。工場主である貴族に賃金の値下げをされた彼らは暴徒となり、旅先から戻る工場主を朝から待っていたのだという。大叔母を駅の外れで乗せた父と次兄の馬車は、運悪く、工場主と間違われた。

あっという間に取り囲まれた馬車からまず父が引き摺り出され、次兄と大叔母の乗った馬車は横転した。工場主を出せ、と言われても、居ない者を出す事は出来ない。必死で宥めようとした父の行為は、結果、彼らをいきり立たせただけだった。

 誤解だと分かった時には馬車は原型を無くし、次兄と大叔母はその中で息耐えていた。身体は有り得ない方向に捻れ、私はその遺体をついに、確かめる事すら出来なかった。顔や身体付から身元を確認する事は出来ない有様だった、と、後に長兄は語った。

 父は頭を殴られた為に意識を失ったまま、家に担ぎ込まれてすぐ、息を引き取った。

 工場主の馬車だ、と、走り出した馬車を見て誰かが叫んだと、これもまた、葬儀が終わった後に伝え聞いた。

 その声の主が工場主であった、等という事は、私にはどうでも良い事だった。

 父も兄も、疎ましくさえ思う事のあった大叔母すら、もう、この世に居ないのだ。

 誰を責めても空しいだけだった。


 けれど、悲劇はそれだけでは終わらなかった。

 その冬、街で猛威を奮っていた流行病に兄が倒れ、父が死んだ後の心労と過労も手伝って病状の回復しないまま、長兄もまた、この世を去った。

 残った屋敷は長兄の奥方と小さな一人息子に引き継がれ、私は、最後の家族と共に家さえ失ってしまった。

 何故だろうか、涙は出なかった。

 それ所か、笑いさえ浮かんだ。

 父も、兄も、大叔母も、何一つ疚しい所のない清廉な人達だ。それなのに、容赦なく命は奪われていく。嘆きも懇願も届かない、無慈悲な現実によって、失った。

 誰を責めれば、誰を恨めば、誰に願えば、覆るというのだろう。

 余りにも突然、私の幸福は終わりを告げた。

 その事を、どう理解すれば良いのだろう。

 

 その後、私は研究所内の叔父の屋敷に世話になる事になったが、その生活も長くは続かなかった。

 叔父が抱えていた多くの借金が明るみに出、研究所が人手に渡る事になったのだ。

 私は愚か、研究員は皆、寝耳に水だった。

 けれども彼らにとっては、長が代わるだけの事だっただろう。研究所の運営が続くと分かれば、職を失うでも無い彼らは、その事実を受け止めた。

 ただ一人の例外は、私だった。

 女である私は、新しい所長の、新しい研究所には、受け入れられなかった。

 元々、叔父の好意で務めていたに等しい。当たり前の様に職を失った私は、それに伴って、住む場所も失う。


 私はこの先、どうしたら良いのだろう。

 そんな風に、不安を感じる暇も無かった。

 私は、ただ、理解出来なかったのだ。

 父や兄や、大叔母や叔父が――もう、誰も、傍らに居ない事が。あの幸せが、消え去った事が。

 私は、理解出来ないままだったのだ。




 私が叔父の屋敷に持ち込んだ物は少なかった。

 私の部屋に、と宛がわれた一室に、二月と居なかった。その間、私は無心で研究に没頭していたし、そうしている間は失ったものの事を考えないで済んだ。

 だから私は、日に日に憔悴していく叔父に気付かなかったし、彼が抱える借金など知りもしなかった。

 ただ現実に目を背けて、夢に溺れた。

 寝るだけに使用していた部屋を整えて、全てを詰め込んだ小さな鞄を見下ろす。

 これが、私の全て。

 中には数日分の着替えと、家族の形見が一つずつ。父の愛読書に、長兄の万年筆、次兄のひん曲がった眼鏡のみ。

 父の遺してくれたお金で、街の外れに小さな部屋を借りた。刺繍は苦手だけれど、何とか仕立て屋に勤める算段もついた。

「心配、しないで」

 誰にともなく呟く。

 浮かんだのは、やつれた長兄の顔。寝台で魘されながら、何度も何度も謝罪を繰り返していた兄は、私を一人残していく事を最後まで気にしていてくれた。

 兄の奥方が、私にとって何の後ろ盾にもならない事を知っていたのだろう。義姉は兄が病床につくとすぐ、一人息子を連れて実家に帰っていた。二人の婚姻には最初から愛などなく、ただただ冷え切っていたのは知っていたけれど――握っていた掌から温もりが失せていくのを感じながら、私はけして彼女を頼る事だけは無いだろうと思っていた。

 大丈夫だから。

 そう、心の中で繰り返す。

 死の淵を彷徨う兄に何度も繰り返した言葉。


 私はそうして、幸せな日々に別れを告げた。




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